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第8章 飢饉と“甘粥(あまがゆ)”の提案

 日はまだ昇り切らない早朝。かすかな朝靄(あさもや)の中を、劉備(りゅうび)の軍勢が静かに前進していた。先日、曹操(そうそう)の砦から悠介を救い出すことに成功したものの、彼らの置かれた状況は決して楽観視できるものではない。各地を転々としながら大軍の目をかいくぐり、疲弊した兵をなだめすかし、さらに飢えに苦しむ民衆を救わねばならなかった。

 「最近、あちこちで飢饉が起きているらしい。戦が長引いて、穀物の収穫もままならぬ土地が増えているそうだ。民は物資を求めて流浪し、反乱も起こりはじめているとか……」

 劉備の側近の一人が深刻そうに話すのを、悠介は馬車の中で聞いていた。彼は曹操の砦から解放されたばかりとはいえ、完全に疲労が取れたわけではない。それでも仲間の支えを得て、どうにか行軍についてきている。軍勢としても、悠介という菓子職人は欠かせない存在だ。休養を勧められても、悠介自身が「やれることはやりたい」と意志を示し、少しずつ動き出していた。

 「悠介、具合は大丈夫か? 無理はしなくていいんだぞ」

 張飛(ちょうひ)が振り返り、案ずるように声をかける。悠介は弱々しい笑みを浮かべながらも、しっかりと首を振った。

 「大丈夫です。まだ腕に痣は残ってますけど、命に別状はありません。……それより、飢饉の方が大変ですね。俺に何かできることがあるなら、やってみたい」

 その言葉に、張飛は頼もしげに頷く。劉備もまた馬上からそれを聞き、表情を曇らせながら言葉を継いだ。

 「うむ。今や、どの土地に行っても食糧不足だ。曹操や孫権(そんけん)でさえ、余裕があるわけではない。ましてや我らのような流浪の軍は、兵糧を確保するだけでも一苦労だ。……だが、民を見捨てるわけにはいかぬ。何とか手立てを考えねばならん」

 天下が戦乱に巻き込まれ、田畑は荒れ、作物が育たない。民の口に入るのは干し草や木の皮、石に近い硬い穀物ばかり——そんな噂さえ飛び交うほどの状況なのだ。働き手を失った家々は流民(るみん)と化し、行き場もなく森や川沿いで野垂れ死ぬ者も少なくないという。劉備軍の進む道中にも、痩せ細った人々の姿が散見され、村の門を叩いても施しを受けられず、盗みや略奪に走る者さえ出てきている。

 「きっと、曹操軍でも飢えは深刻でしょうね……。あの人なら兵糧を優先確保するために民衆を切り捨てるような手段も辞さないかもしれない」

 悠介がぽつりと口にすると、張飛が低く唸り、関羽(かんう)が静かに首を縦に振った。

 「まさに乱世だ。誰もが必死だ。……だが、だからこそ、我らがやれることを考える必要がある」

 関羽の言葉には理知的な力強さがある。悠介はこの世界に来てから、戦での補給や菓子の開発を通じて、自分が少しは役に立てると感じてきた。しかし飢饉となると、さらに大規模かつ根本的な食糧問題が絡んでくる。果たして自分の“菓子作り”がここでも通用するのか、期待と不安が入り混じった気持ちになる。

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### 新案—「甘粥(あまがゆ)」というアイデア

 そんな中、悠介はある朝、簡易の炊事場で見慣れない光景を目にした。兵士たちがわずかな穀物を研ぎ、鍋に入れてぐつぐつ煮ている。いわゆる“粥”に近いが、具はほとんどない。塩や香辛料も少なく、味というよりは空腹をしのぐための代物だった。

 「うう……全然味がしないし、腹にたまらねえ。でも他に食うものがないからなあ」

 兵士の一人が粥をすすり、うんざりした表情を浮かべる。周囲の民衆も似たような状況で、配給を待っていても、大抵は塩気の薄い雑粥(ぞうがゆ)がせいぜいだ。そもそも米や麦の量が限られているため、できるだけ多くの人に行き渡るよう水増ししているのだ。

 そんな光景を見て、悠介はふと頭を抱えながら考え込んだ。

 (塩すら足りないのか……でも、もしここに蜂蜜や干し果物を入れたらどうなるんだろう。栄養価が少しでも上がるし、甘さがあれば腹が満たされた感覚も増すはず……)

 戦で疲労している兵士や民にとって、少しの甘みは大きな救いになる。以前、彼が作った菓子も士気や体力回復に役立った実績がある。ならば粥という形で配給してはどうか。材料は限られているが、蜂蜜や果物ならば、まだ少し在庫があるかもしれない。

 悠介はすぐに劉備や関羽らに提案を持ちかける。

 「粥に甘みを加えた“甘粥(あまがゆ)”を作れないか、と思うんです。粥自体は省エネで作れますし、大勢の人に少しずつ行き渡る。そこに蜂蜜や干し果物を刻んで入れれば、栄養価が少しでも上がるし、味がついて食べやすくなるんじゃないでしょうか」

 「甘粥……そんな粥、聞いたことがねえな」

 首をかしげる張飛に対し、劉備は興味を示したように顎に手を当てる。

 「確かに、甘い粥というのは珍しいな。大勢の胃を温め、満腹感も与える……しかも蜂蜜や干し果物なら、貴重ながらも少量で甘みが広がりやすい。民も喜びそうだ」

 問題は材料の確保と調理の手間だが、粥なら一度に大量生産ができる。兵の炊事場だけでなく、各地の村や避難所にも大鍋があるだろう。必要に応じて水で薄めれば、多くの人に配ることも可能だ。

 「名案かもしれませんね。何より子どもや老人は塩辛いものより、ほんのり甘いものを好む傾向がありますし、粥なら消化もいい。体力を落とした人にはうってつけです」

 関羽の理路整然とした言葉に、悠介はほっと胸をなでおろす。否定されるかもしれないと思っていただけに、そういう反応は嬉しい。ただ、はたしてこんな“甘粥”が現場でうまく運用できるのかどうかは、実際にやってみないとわからない。

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### 民衆の反応—飢えをしのぐ“甘さ”

 早速、悠介たちは行軍を一時止め、簡易の野営地を拠点に炊事の準備を整えた。近隣の村から集まった民たちも疲れ切っており、今まさに食べるものが足りない状態だという。米や麦の在庫は僅かだったが、劉備軍が少しだけ持っていた分と併せてかき集めることで大鍋数個分の粥を作るめどが立った。

 「まずは白湯に穀物を入れて煮込む。ある程度柔らかくなったら蜂蜜を加え、さらに干し果物を細かく刻んで……そうそう、煮溶かす感じでやってみてください」

 悠介が兵や村人に指示を出す。多くは素人同然だが、何度か菓子作りを手伝ったことがある兵もおり、混ぜ方や火加減を少しずつ学習している。やがて、大鍋の中にほのかな甘い香りが立ち上り始めた。

 「おお、いい匂いだな……。見た目は普通の粥と大差ないが、たしかに甘みがあるのか?」

 「試しに一口飲んでみてください」

 兵の一人が杓子(しゃくし)ですくって口に運ぶと、意外にも優しい甘さが舌を包む。蜂蜜の風味と干し果物の酸味がバランスよく溶け合い、胃に沁み渡るような安堵感がある。塩分はほとんど使っていないが、それでも甘味だけで「こんなに気持ちが落ち着くとは」と兵は驚く。

 「うわあ……なんだ、体が温まるな。塩粥よりこっちのほうが好きだって人も多いかもしれねえ」

 ほかの兵や村人たちも順番に味見し、思わず微笑んだり、「こんな粥は初めてだ」と声を上げたりする。飢えた状態では、甘みがより一層染み渡るのかもしれない。こうして大鍋の“甘粥”は、あっという間に列をなすほどの人気を集めた。

 「す、すみません。私の赤ん坊に少し分けてもらえませんか……」

 小さな子どもを抱えた母親が、弱々しい声で頼み込む。村の老人や病人たちも同じように目を潤ませて「ほんの少しだけでも」と言い寄ってくる。まだ数に限りはあるが、兵士たちが手際よく器に配り、口に運んでもらうと、途端に「ああ……なんだか、生き返るようだ」と感謝の声がこぼれる。

 「本当にありがとうございます。飢えで倒れそうだったのが、少し力が戻ってきた気がします」

 母親が涙を浮かべながら頭を下げ、子どももおとなしく粥を飲んでいる。わずかな甘みとやわらかい穀物の食感——それだけで、飢えに苦しむ民にとっては大きな救いとなるのだ。

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### 効果と政治的影響

 悠介が提案した「甘粥」は予想以上の反響を呼び、劉備軍が訪れる先々で重宝され始めた。限られた穀物と蜂蜜、干し果物さえあれば作れるため、大掛かりな調味料を必要としないのも利点だった。民衆は口々に「劉備殿は我らの苦しみをよくわかっている」「この甘粥のおかげで命を繋げる」と称賛し、劉備への信頼が急速に広がっていく。

 「見ろ、あの民衆たちの眼差しを。劉備殿をまるで救世主のように慕っている」

 張飛がやや照れくさそうに笑いながら、しかし誇らしげに村人と挨拶を交わしている。関羽は静かに頷きながら、「こうして支持を集めれば、曹操にも対抗しやすくなるだろう」と冷静に分析した。

 実際、飢饉の最中に民を顧みず権力争いに走る武将が多い中、劉備が“甘粥”を配って民の命を繋ぐ姿は人々の心に深く響いた。各地で「劉備こそが真の仁君(じんくん)かもしれない」「彼が天下を取れば、この苦しみは救われるかもしれない」という噂がじわじわと広がっていく。

 悠介自身はそんな大きな政治的効果まで狙っていたわけではない。単に、菓子作りの応用として甘みを粥に活かすアイデアが浮かんだだけだ。しかし、結果としては人々を救い、劉備軍が多くの支持者を得るきっかけを作れたのだから、彼にとっては嬉しい誤算といえる。

 夕刻、一日の炊事を終えて馬車に腰掛けていた悠介のもとに、劉備がやってきた。少し疲れた面持ちだったが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。

 「悠介、よくやってくれたな。この甘粥は、ただの食事ではない。民に生きる希望を与え、我らの行く末にも光を示してくれる」

 劉備の言葉に、悠介は照れながらも「そんな大げさな……」と肩をすくめる。だが、劉備の目は真剣だった。

 「おまえの菓子作りが戦場で役に立つことは、以前から知っていた。だが、こうして飢饉に苦しむ人々の糧にもなるとは……思えば、おまえには不思議な力がある。菓子という形で人の心に安らぎをもたらす力だ」

 まるで神妙な表情で語る彼に、悠介は言葉を返せず、ただ静かに微笑んだ。確かに、自分は現代日本から突如この世界へ飛ばされ、異質な菓子文化を持ち込んだ存在かもしれない。だが、そこに意義を見出してくれる人たちがいることが嬉しかった。

 (この甘粥で、飢える人が少しでも減るなら……やってよかったと思う)

 悠介はそう心に刻む。もはや菓子作りは嗜好品にとどまらず、人々の生活を支える大切な一手段へと変貌しつつあるのだ。戦乱はまだ続く。だが、どんな厳しい状況でも、少しの甘みが人々に笑顔を取り戻す可能性を感じられた。自分がここに来た意味も、少しずつ輪郭を帯びてきているように思える。

 そしてその夜、冷たい夜風の中で民や兵士たちが“甘粥”をすする光景があちこちに見られた。お腹いっぱい食べられるわけではない。だけど、その甘味がほんの少しの明日への希望を繋ぐ——そんな奇跡のような瞬間が、炎の揺れる野営地で確かに息づいていたのである。

(第8章・了)

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