第7章 救出作戦“シュガーファンネル”
夕焼けが山の稜線に溶けていく頃、薄暗い森の奥にひっそりと人影が集まっていた。劉備(りゅうび)、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)——そして数名の精鋭たち。周囲には物音一つせず、皆が神経を張り詰めている。
「どうやらこの近くに曹操(そうそう)の小規模な砦があるらしい。そこに悠介が囚われている……」
声を低めに押し殺して話すのは関羽だ。彼の髭が夕暮れの風に揺れている。張飛が苛立つように握り拳を作りながら、地図のようなものを睨んでいた。
「まったく、なんてこった。俺たちがほんの少し目を離した隙に悠介が連れ去られちまうなんて。曹操め、悪辣な手を使いやがる」
張飛は怒りを抑えきれず、小声ではあるものの荒々しい言葉を吐く。悠介は菓子作りを通じて劉備軍に大きく貢献してきたが、まさかその技術に目を付けた曹操に拉致されるとは想像していなかった。
「だが、我らは悠介を見捨てるわけにはいかん。曹操があいつを自軍に引き込むために、どんな手段を使うかわからないからな」
劉備が肩のマントをきゅっと掴む。視線の奥には深い焦燥が宿っている。菓子職人としての悠介を惜しむ気持ちだけではない。もはや悠介は大切な“同志”の一人なのだ。
「そこで、今回の奇策だ。名付けて“シュガーファンネル”……うむ、呼び名は張飛の発案だが、実に奇妙な響きだな」
関羽が口の端をわずかに持ち上げる。彼らは緊迫した空気の中でも、どうにかユーモアを見い出すことで心の均衡を保っているようにも見えた。
### 奇策の全容
「シュガーファンネル」という作戦名だけを聞くと、まるで子どもの言葉遊びのようにも思えるが、その中身は侮れない。張飛が地面に棒で図を描きながら説明する。
「曹操の砦にはそこそこ兵が詰めてやがる。正面から突っ込めば多勢に無勢だ。だが、今回の鍵は“甘味”にあるんだよ」
「甘味……?」
訝しげに問う兵士たちに、張飛はニヤリと笑って続ける。
「そうだ。あいつら、悠介の菓子を強制的に作らせてるって話だが、実際にどこまで再現できてるかはわからねえ。俺たちは、その“甘味”を逆手に取って兵を混乱させるんだ」
“シュガーファンネル”の要点はこうだ。まず、特製の甘い携帯食を大量に準備する。それを砦の外から何らかの方法で兵士たちの手に渡し、一気に口にさせる。甘味に慣れていない兵士たちは束の間の幸福感や高揚感に浸り、警戒が緩む。そこに劉備軍の精鋭が奇襲をかけ、悠介を救出する——という段取りである。
もっとも、そう簡単に砦内部へ甘味を持ち込めるのかという疑問もあるが、張飛はすでに内通者を探り出しており、賄賂と引き換えに少量の甘味をこっそり運び込む手筈を整えていた。曹操の兵といえど、守るべき砦が多く、兵糧は充分とはいえない。そこへ無料の甘い菓子が差し入れられれば、飛びつく兵がいるに違いない、という読みだ。
「実際、悠介の菓子を食べたことがある兵なんてごく一部だろう。奴らの興味をかき立て、警戒を解くには十分だろうぜ」
張飛が自信ありげに言い放つ。関羽も腕を組み、静かな口調でそれを補足する。
「俺たちの目的は、あくまで悠介の奪還。砦を落とすことではない。混乱が生じた隙に短時間で潜入し、悠介を救い出して撤退する。最悪の場合、曹操が出張ってくる前に逃げ切るのだ」
「わかった。全力を尽くそう」
兵たちが互いに頷き合い、劉備も厳しい表情で言葉を添える。
「悠介は我らにとってかけがえのない仲間。どうか無事に救い出そう。……頼むぞ、皆!」
### “甘味”を使った陽動
作戦決行は夜半過ぎ。砦の夜営が手薄になる時刻を狙って、少数精鋭が乗り込む段取りだ。その前に、秘密裏に「甘味」が砦内部へ潜り込む。
今回は悠介がいないため、作ったのは彼のレシピを大まかに知る兵たちだ。以前に教わった方法で蜂蜜や麦芽糖を煮詰めた固形菓子を量産し、やや粗削りながらも甘い香りを持つ“キャラメルのような塊”を大量に用意した。甘味に飢えている兵が食べれば、十分に喜びそうな味には仕上がっている。
夜の闇を縫って、内通者が砦の裏口からその菓子を運び入れる。兵士たちは暇を持て余し、酒を飲み交わす者や浮足立った様子の者も少なくなかったらしい。そこへこっそり配られた甘味を口にして、さらに気が大きくなったり、幸福感で気が緩む兵が増えていく。
「おい、これって……けっこう甘くて旨いな。なんだこの食い物……?」
「わからん。どこかの商人が差し入れてくれたらしいぞ。でもうまいからいいじゃねえか」
砦の兵舎から笑い声が混じる。警備の仕事を放棄するほど緩むわけではないが、少なくとも注意力は大幅に低下する。さらに、甘いものを食べた直後は血糖値が急上昇し、一瞬の多幸感に包まれる。そこを狙って、劉備軍の刺客が忍び寄ってくるわけだ。
### 潜入、そして悠介との再会
一方、悠介は依然として砦の奥まった“菓子工房”に監禁されていた。毎日のように司馬(しば)や護衛兵に監視され、思うように菓子が作れずに叱責される日々が続く。曹操は姿を見せないが、「私に従わぬならおまえの命はないぞ」というメッセージを繰り返し伝えてくる。
悠介は道具の不備や火力の管理の厳しさなどを理由に、意図的に菓子の再現を遅らせていた。だが、限界がある。いつか本当に殺されるか、あるいは曹操に妥協を強いられるのがオチだという恐怖と闘い続けていた。
そんな中、ある夜更けに外が妙に騒がしくなる。扉の外で兵士たちがざわざわと話し合い、なぜかお菓子の話題で盛り上がっているのだ。
「おい、なんだか甘い塊が手に入ったって? 俺も欲しいぞ」
「少しなら分けてやるが……ほんの少しだぞ。おかげで仕事がどうでもよくなりそうだ」
その声を聞きながら、悠介は眉をひそめる。(甘い塊……? まさか、劉備軍が何か仕掛けているのか……)
悠介は胸の奥に希望の光が射し込むのを感じた。いくら曹操が厳しい統率をしていても、兵たちは人間だ。甘味を与えられれば心がほぐれる。そこを突く作戦があるのかもしれない——そんな推測がよぎり、冷や汗が伝う。
そして、それからしばらくたった夜半。悠介が錠をかけられた小部屋で蹲っていると、床下の木板がそっと外され、地下のような場所から人影が現れた。
「悠介、しっかりしろ。俺だ、張飛だ!」
低い声が響く。驚く悠介が顔を上げると、そこには泥まみれの張飛と数名の兵が、仄暗い明かりの中に立っていた。紛れもなく劉備軍の精鋭たちだ。思わず悠介は涙が出そうになる。
「なんで……どうやって……?」
「“シュガーファンネル”だよ。あんたの菓子をヒントにして、砦の兵を一時的に浮かれさせたんだ。今がチャンスだ。急いで脱出するぞ!」
張飛の声は荒いが、そこにはかつての豪快な優しさが宿っている。悠介は我に返り、急いで部屋から這い出る。兵士たちが助けてくれたおかげで、腕の縄も解かれて息がしやすい。
### 混乱の砦—幻の甘味
その頃、砦の兵たちは謎の甘味を味わって緩んでいる最中だった。少し遅れて警鐘が鳴り、「敵襲だ!」という声が上がるものの、すでに多くの兵が気もそぞろになっており、まともに追撃態勢を組めない。ほんの数分の間で、刺客部隊は悠介を部屋から連れ出し、外の抜け道へと急いでいた。
「ここは、砦の敷地裏にある古い排水路だ。内通者が塞いであった板を外してくれた。急げ、すぐに増援が来るぞ」
張飛が悠介の腕を掴んで引きずるように走る。関羽らしき姿も先行していて、数名の兵が敵の矢をかわしながら出口へ急かしている。背後では怒号や金属の衝突音が響き、思わず怖気が立つ。
「くそっ、捕まるわけにはいかねえ! 逃げ切るぞ!」
排水路の先は森へと繋がっており、そこを抜ければ劉備が指揮する本隊と合流できる。荷馬車を待機させておき、悠介を乗せて一気に遠くへ退避する計画だ。この夜のうちに十分な距離をとってしまえば、曹操が兵を出しても追いつけないはず——それが張飛たちの読みである。
### 曹操の怒り
外の森の闇に紛れて逃げ切り、ついに悠介は劉備のもとへたどり着いた。劉備の顔には深い安堵が浮かび、関羽や張飛、その他の兵たちも歓声を上げる。
「悠介、無事で何よりだ。ずいぶん苦労をかけてしまったな……」
「いえ……みなさんが助けに来てくれたから、生きて戻れました。ありがとうございます」
悠介は全身から力が抜けて、その場にへたり込む。足や腕には拘束痕が残り、生活の疲弊から頬もこけ気味だが、瞳には確かに生への喜びが宿っていた。
しかし、砦内ではまさしく蜂の巣をつついたような大混乱が広がっていた。甘味に浮かされた兵たちは我に返ると、脱出した悠介と奇襲部隊の影を追おうとするが、一足遅く痕跡すら見当たらない。
そして翌朝、その報告を受けた曹操は激怒した。
「何たる失態だ! 甘味ごときに浮かれて、目標を奪われるとは……!」
彼は砦の指揮官や兵たちを厳しく叱責し、処罰を通告する。悠介の菓子技術は軍事的にも政治的にも活用しうる“戦略物資”だと考えていただけに、その脱走は大きな痛手だったのだ。
「……だが、このまま引き下がるつもりはないぞ。悠介、その菓子職人がいずれ私のもとへ来るよう、さらに策を巡らせるまでだ。覚えておれ、劉備め……!」
曹操の冷徹な瞳には、怒りと悔しさが複雑に燃えている。悠介を逃がしたのは想定外だが、まだ本気を出したわけではない。そう思わせるほど、彼の背中から立ちのぼる圧迫感は尋常ではなかった。
### 新たな局面へ
一方、悠介を救出した劉備軍は、合流後ただちに安全な場所へ移動を続ける。荒れた森を抜け、川を渡り、人里離れた山間部へと入り込んだ。曹操がすぐに追撃してくる可能性が高いからだ。
夜営の篝火を前に、悠介は劉備や関羽、張飛らに改めて礼を述べる。体はくたくただが、心は何とか踏ん張れている。
「皆さん、本当にありがとう……。もし助けに来てくれなかったら、今頃どうなっていたか……」
「悠介、もういい。そんな礼は要らぬ。おまえは俺たちの仲間だ。助け合うのは当然のことよ」
劉備が静かに微笑む。張飛も無遠慮な手つきで悠介の肩を叩き、「大事な菓子職人を放っておけるかよ!」と豪快に笑った。その言葉に、悠介は心が温かくなる。
(俺には、帰る場所があるんだ。こんな乱世でも、仲間がいる限り諦めない。菓子作りでだって、まだまだやれることがあるはず)
曹操の手から脱出した安堵感と、これから起こるであろう新たな苦難への不安が入り混じる。しかし、劉備軍が示してくれた仲間の情は、悠介の心に強い支えとして刻まれた。
そうして、“シュガーファンネル”作戦は一応の成功を収める。曹操の怒りを買ったとはいえ、当面の間は悠介が命の危険にさらされる心配は減るだろう。だが、その先に待つのは、さらなる乱世の動乱。甘味が織り成す物語は、まだ終わらない。
曹操の思惑と劉備の信義、そして悠介の菓子作り——それらがぶつかり合う次なる局面が、すぐそこまで迫っているのである。
(第7章・了)