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第6章 曹操の影—誘いとパティシエ拉致計画

 孫権との暫定的な同盟を取り付けた劉備軍は、いったん荊州(けいしゅう)方面へ戻る道をたどっていた。曹操(そうそう)への対抗策を立てるには、各地の状況を整理し、兵を整える必要があるからだ。周瑜(しゅうゆ)や孫尚香(そんしょうこう)ら呉(ご)の重臣たちも「当面は互いに情報を交換し合い、しかる後に正式な共同作戦を検討しよう」という認識で一致している。とはいえ、曹操の脅威はいつどこで襲いかかるか分からず、決して気を抜ける状況ではなかった。

 そんなある日、悠介は宿営地の近くで干し果物を仕込んでいる最中に、張飛(ちょうひ)から一通の書状を渡される。その封蝋(ふうろう)に記された紋は、見覚えのある漢字一文字——「曹」。瞬時にイヤな予感が走り、悠介は眉をひそめた。

 「これは……曹操からの手紙? なぜ俺宛に?」

 「どうも、書状の内容は『そなたを配下に迎えたい』という誘いらしい。曹操が、おまえの菓子作りを“人心掌握の要”とでも考えているのかもしれん」

 張飛がぶっきらぼうにそう言うと、悠介は書面を開いてざっと目を通す。そこには丁寧な文体で、まるで古来の友人に呼びかけるかのような口調で、「貴公の才をこの曹操に貸してはくれぬか」「菓子の技術は兵のみならず、天下をまとめ上げる大切な力である」といった内容がつらつらと綴られている。いわく、劉備の小勢力に留まっているのは勿体ない、曹操のもとに来れば万全の支援を約束しよう——と。

 「……これはさすがに、乗るわけにはいかないよ。俺は劉備さんに世話になったし、今さら寝返るなんてあり得ない」

 悠介は即断する。理由の一つには、曹操がどういう人物かまだ把握しきれていないという不信感もある。三國志の史実なら“大軍閥”として恐れられ、智謀に長けた英雄でもあるが、同時に敵対者には容赦がないとも言われる。それがこの世界でも同様なら、彼の甘言に簡単に乗るわけにはいかないだろう。

 「そうだな。俺も気に入らねえ。曹操のやり口は狡猾だと聞くし、礼を装いつつ、結局はおまえを取り込んで劉備を弱体化させようって腹だろ」

 張飛も荒い声で同意し、書状を破り捨てる。その断片がはらはらと地面に落ち、風に舞った。

 しかし、この段階で悠介と張飛たちは思いもよらなかった。曹操が“誘いの書状”で済ますような柔和な人物ではないことを——。彼が“甘味こそ人心掌握の要”と本気で捉え、あらゆる手段をもって悠介を手中に収めようと画策していることを、まだ知る由もなかった。

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### 捕縛—曹操の密偵が動く

 その事件は、孫権との交渉を済ませた帰路のとある夕暮れ時に起こった。劉備軍は宿営のため、森の外れに簡易の陣を構えていた。悠介は張飛から頼まれた菓子(兵士用の携帯甘味)を作るため、近くの川で水を汲みに行くところだった。

 「戻ったら、あの塩キャラメルっぽい菓子をまた作るか……いや、今回は麦芽糖を多めにして、もう少し硬めに仕上げようかな」

 独り言をつぶやきながらバケツをぶら下げ、川沿いの小道を歩く。陽はほとんど落ちかけており、辺りはうっすらと薄暗い。少し早足で進み、急いで水を汲んで帰ろうと思ったそのときだ。

 「……そこにいるのは悠介殿、か?」

 何者かの声が背後から響き、悠介はハッとして振り返る。木々の影に、人影が複数うごめいているのが見えた。鎧こそ着けていないが、明らかにただの旅人ではない。鋭い眼光を放つ男たちが、悠介を取り囲むようにじわじわと近づいてくる。

 「え……誰、ですか? 俺のこと、何か用ですか?」

 反射的に身構えながら問いかけると、男たちは無言のまま距離を詰め、悠介に一気に飛びかかった。抵抗しようにも、鍛えられた体術のようで、あっという間にバケツを投げ飛ばされ、腕を極められて地面に押さえつけられる。

 「い、痛っ……やめろ、離せっ!」

 必死に暴れても、相手はまるで手加減なしだ。鼻をかすめるのは何やら甘苦い薬品のような臭い。次の瞬間、悠介の視界がぐらりと歪んだ。

 「し……ま……った……」

 しだいに意識が遠のき、腕に力が入らなくなっていく。男たちがひそひそ声で「急げ、軍が動く前に撤収するぞ」「曹操様の御前にお連れするのだ」と話しているのが微かに耳に届く。悠介は“曹操”という名を聞いて、一瞬だけ頭がかっと熱くなるが、そのまま意識は深い暗闇へと落ちていった。

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### 曹操陣営にて—強要される菓子製造

 再び目を覚ましたとき、悠介は薄暗い部屋の床に転がっていた。身体を起こそうとすると両手が縛られているのに気づき、一気に恐怖が込み上げる。辺りを見回すと、どうやらどこかの砦か屋敷の一室のようだ。窓から差し込む光は少なく、石壁が冷たく湿っている。

 「ここは……どこだ? くそ、まさか拉致されたのか……」

 頭が鈍く痛み、昨日の出来事を断片的に思い出す。孫権との交渉の後、川で水を汲もうとしていたら謎の男たちに襲われた。聞こえた名前は“曹操”。書状の誘いを断ったばかりなのに……いや、だからこそ強行手段に出たのかもしれない。

 ガチャリ、と扉が開き、一人の男が悠介を見下ろした。痩せぎすで狐のような目をした男だ。黒い衣をまとい、腰には短剣を差している。いかにも曹操の密偵といった雰囲気を醸し出していた。

 「目が覚めたか。おまえには御方(おかた)の求めに応じていただく。余計な抵抗をすれば痛い目を見ることになるぞ」

 淡々と告げられ、悠介は歯を食いしばる。目の前に牢番のような者が数人控えており、彼らが悠介の両腕を掴んで引き起こした。どうやら抵抗しても無意味だと悟らざるを得ない。

 「曹操……本当にあの曹操の命令ってことか? なぜ、こんなことを……」

 悔しさと不安で声が震える。男は鼻先で笑いつつ言った。

 「知れたこと。貴様の菓子作りの腕を、曹操様が見込まれたのだよ。劉備などという小勢力とくすぶっているのは惜しい、とね。もっとも、おまえが素直に従わぬと知れた以上、こうして力ずくで連れてくるしかなかったというわけだ」

 悠介は胸の奥で怒りを感じながらも、今は無闇に挑発して殺されるのがオチだ。力の差は歴然で、逃げ出すタイミングも何も掴めていない。静かに腕の痛みに耐えながら、男たちの案内に従うしかなかった。

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### 強要される試作と苛立つ曹操

 悠介が連れて行かれたのは、砦の一角に設けられた簡素な“調理場”だった。石造りの壁に囲まれ、かまどが数箇所設置されている。だが、必要な道具はまばらで、食材も統制された倉庫からしか出してもらえないようだ。待ち受けていたのは曹操の部下である司馬(しば)という男で、彼が悠介に向かって無遠慮に言い放つ。

 「さっそくだが、例の甘味とやらを作ってもらおうか。麦芽糖と蜂蜜、干し果物は準備している。おまえが普段やっている通りに作れ」

 腕の縄を解かれた悠介は、ひどく居心地の悪い空気の中で周囲を見回す。見ると、手元にある道具はすべて粗末で、火力調整どころか温度計も秤もない。そもそも当時の技術なら当然ともいえるが、悠介がこれまで工夫してきたような緻密さとはほど遠い環境だ。

 「こんな雑な環境で思った通りに作れって、無茶言うな……」

 思わずぼやくと、司馬の目が鋭く光り、周囲の護衛兵が脅しのように槍を向けてくる。悠介は唇を噛みしめながら、仕方なく材料をかき集めて手を動かした。適当な鍋に水と麦芽糖を入れ、火にかけて煮詰めるのはいいが、火加減が強すぎたり弱すぎたりで全然狙った温度に到達しない。挙げ句の果てに焦げ付く香りが立ち込めてしまう。

 「くそっ……こんなんじゃ、一度火を落として……いや、それでも温度調整がめちゃくちゃ過ぎる」

 どんどん煮詰まって変色しはじめるシロップを見て、悠介は冷や汗をかく。いつもなら砂糖飴のように適度なとろみを保ち、甘く艶やかなソースを作れるはずだが、この環境じゃ簡単にはいかない。やがて司馬や兵たちが鼻をつまむようにして「焦げくさいな」と苦言を呈し始めた。

 「どうした、これが貴様の腕なのか? 曹操様が期待しているのに、これではただの失敗作ではないか」

 司馬の言葉に悠介は歯ぎしりする。押さえ込んでいる不安と怒りが頭をもたげるが、今ここで逆らっても自分が痛い目に遭うだけだ。何とか少量の干し果物を投入し、調整を試みたものの、結局ただの焦げた塊ができあがる始末だった。

 「い、いや、火が強すぎて……道具も足りないし……」

 呟く悠介に、司馬は冷たく言い放つ。「言い訳は無用だ。曹操様に報告する。これ以上使えぬようなら、おまえをどう処分するか……御方がどう判断なさるかだな」

 その言葉を残して、司馬は衛兵を引き連れ出て行った。悠介は失敗作の焦げ菓子を手にしたまま、がっくりと肩を落とすしかない。無理矢理連れて来られて、道具も環境もままならず、おまけに殺すぞと脅されながら菓子を作れなんて……まるで悪夢のようだ。

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### 曹操の怒りと、迎える試練

 それから数日、悠介はこの窮屈な“菓子工房”での作業を強いられた。何度も試行錯誤するが、火力や材料の質が安定せず、思うように仕上がらない。司馬たちはことあるごとに「これで終わりか?」「貴様、本当に菓子作りの名手なのか」と侮蔑の言葉を吐き捨て、悠介の神経を逆撫でする。

 (このままじゃ、本当に殺されるかもしれない……)

 悠介は一瞬、「本気を出せば今すぐ作れるのでは?」と思うが、いや、そもそも道具が原始的すぎる。気温や湿度の管理すらままならない。ちょっとした差で焦げるか固まらないかの二極しかなく、現代の知識を応用しづらい。

 ある日、司馬に連れられて悠介が奥の広間へ通されると、そこには数名の武官を従えた曹操が座していた。冷徹な眼差しで悠介を見つめ、その唇の端をわずかに吊り上げる。

 「貴様が、悠介という男か。劉備に仕えている菓子職人だそうだな。ふむ、なかなか若いではないか。使いようがありそうだが……ここ数日の成果を見る限り、期待はずれということか?」

 曹操の低い声が部屋に響き、悠介の背筋がぞくりとする。これが乱世の覇者として名を馳せる男……言葉一つに圧があり、否応なしに緊張を煽られる。

 「……環境が整っていないので、思うように作れません。もともと、いきなり連れてこられて……協力する気はないって、俺は伝えたはずです」

 精一杯の反論を口にしたが、曹操の表情は微動だにしない。むしろクスリと笑って、悠介を見下ろした。

 「協力するかどうか……それを決めるのは貴様ではない。私はな、貴様が持つ“甘味”の力を、天下統一の道具として最大限に使いたいのだ。兵糧にしても民衆の歓心を買うにしても、この菓子技術は侮れぬからな」

 悠介は拳を握りしめ、怒りをこらえる。曹操は続ける。

 「無論、ただの暴力で従わせるつもりはない。もし私に尽くす意思を示すなら、もっとまともな調理場や人員を与えてもいい。だが、今のようにお粗末な失敗作を繰り返すなら、その価値はないということだ。無用な者にかける慈悲など、私にはないからな」

 どこまでも冷酷な物言いに、悠介は言葉を失う。協力すると言えば、それは劉備への裏切りを意味する。だが、拒み続ければ命の保証すら危うい状況に追い込まれる——。曹操の作り出す強大な圧力に、胃がきりきりと痛む。

 (どうすれば……このままじゃ、いずれ殺されるか、無理矢理使われるかの二択しかない……)

 彼の脳裏には、劉備や張飛、関羽たちの顔が浮かぶ。皆、必死で自分を支えてくれた仲間だ。一度たりとも裏切る気などない。けれど、この状況をどう切り抜ければいいのか……。

 曹操がゆっくりと立ち上がり、悠介の肩をポンと叩く。その手はやけに重く、冷ややかな笑みが悠介の瞳に焼き付いた。

 「まあ、せいぜい考えることだな。私に従えば、貴様にとっても悪い話ではない。……ただし、逆らうならば、貴様の身に待ち受けるものは地獄だろう。菓子作りなどできぬ体になるかもしれんぞ」

 悠介は恐怖で喉がひりつく。曹操の足音が遠ざかり、代わりに司馬や兵士たちが悠介を再び連れ戻すように命じる。こうして、悠介の“監禁生活”はまだ続くことになる。逃げ出す術を掴めぬまま、曹操の影に怯えながら、彼はこの先どんな運命を迎えるのか——。

 失敗作の焦げた菓子の残り香が、冷たく澄んだ夜気に紛れ込み、まるで嘲笑するかのように消えていった。

(第6章・了)

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