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第4章 荊州(けいしゅう)での菓子勝負

 季節は晩春にさしかかり、日中には暖かな風が大地を撫でるようになっていた。もっとも、戦乱に疲弊した兵たちにとっては、気候の移り変わりに心踊らせる余裕などない。劉備軍は何とか曹操軍の別働隊を撃退したものの、その勝利は決して安泰を保証するものではなく、むしろ消耗の大きさを痛感させる結果となった。

 「それゆえ、荊州(けいしゅう)へ向かう——と、御方は言っておられたな。」

 悠介は、陣の片隅で調理道具を片付けながら、小声で呟いた。隣にいた張飛(ちょうひ)が少し耳を傾けるように顔を向ける。

 「ああ、荊州には名士・劉表(りゅうひょう)が治める地がある。そこそこ物資も潤沢と聞く。俺たちはしばしそこを拠点にして態勢を整えられればいいが……なにぶん、あっちが受け入れてくれるかどうかはわからん。強敵・曹操の動きを牽制するにしても、ここらで一度休息を取らなきゃ兵どもも持たねえしな」

 張飛は豪快に言うものの、その声には先の戦いの疲れがにじんでいる。悠介もまた、最近はほとんど寝る間もなく菓子や保存食の開発に追われていた。何より、この異世界での生活に慣れ始めたとはいえ、いつまた大規模な戦が起きるかわからないという恐怖が拭えない。

 しかし、今は進むしかない。劉備の判断に従い、軍はやや小走りの行軍を続けながら荊州へと近づいていった。

 ◇◇◇

 荊州の城下は、思いのほか活気があった。大河が流れ、肥沃な土地から穀物や野菜がよく育つのだろう。市場には農作物や干し肉、干し果物などが並び、人々が行き交っている。何より、悠介から見ると「意外なほど平和」な雰囲気に見えるのが印象的だった。

 城郭の門をくぐると、先導の兵が「ここが劉表様の居館だ」と指差した。大きな屋敷の奥庭には既に人が集まっており、どうやら劉備を迎える準備が整っているらしい。しばらくして、庭へ足を踏み入れると、華やかな衣を纏(まと)った人物がゆっくりと姿を見せた。これが荊州を治める名士、劉表だ。

 「おお、劉備殿。遠路はるばる、ご苦労であった。曹操に追われているとか……話は聞いておるよ。無事でなによりだ」

 温厚そうな声には、どこか余裕を感じさせる。劉表は決して武勇に長けた人物ではないが、名士として人望があると聞く。実際、屋敷内にも多くの士族や家臣が出入りしている様子から、それなりの財力と地盤があるのだろう。

 劉備が礼儀正しく頭を下げ、「しばしの間、軍勢を休ませていただければ」と申し出ると、劉表は快く頷いた。しかし、その横で控えていた家臣や料理人らしき男たちの視線には、どこか好奇の色が交じっている。どうやら彼らは、噂に聞く「劉備軍の奇妙な菓子役」という存在を興味深く思っているらしい。

 「噂はかねがね耳にしておる。兵たちを甘味で鼓舞した、とかいう話だな。……どうやら、そこの若者らしいな」

 劉表の視線が悠介を捉える。悠介は慌てて一礼をするが、周囲の家臣たちがクスクスと笑うのが聞こえる。そもそもジャージ風の服装というだけでも、異質な目で見られるのは当然だ。

 「……はい、橘(たちばな)悠介と申します。えーっと、ほんの少しばかり菓子を作って兵のみなさんに提供しているだけで……」

 「ほう。それで敵軍を退ける助けとなったのだから大したものだ。よろしければ、ここの料理人たちにもその菓子の腕前を披露してくれまいか?」

 劉表の誘いは柔和ながらも、どこか試されているように思えた。事実、屋敷の奥から現れた料理人らしき男たちは、一様に腕組みをしながら悠介を値踏みするような視線を送ってくる。どうも、この城には腕の立つ宮廷料理人が何人か仕えているらしく、彼らは実力にプライドを持っているようだ。

 「ここ、荊州では食材も豊富だし、料理人も一流ぞろいでな。だが、菓子だけはあまり得意としない者も多くて……。いや、もちろんそれなりに甘味を扱う者もいるが、聞けば劉備殿の軍には“蜂蜜や干し果物を独自に使いこなす男”がいるとか。ぜひ、その技術を見せてほしい」

 そう言われれば断るわけにもいかない。むしろ劉備軍にとっては、ここ荊州で信頼を勝ち取るためにも、悠介が腕前を示すのは好都合だろう。兵糧や資金の援助を得るには、少しばかりの圧倒的インパクトが必要だ。

 劉備から小さく頷かれるのを見届け、悠介はしっかりと気を引き締めた。

 「……わかりました。せっかくの機会ですし、俺が作る菓子を披露させていただきます」

 ◇◇◇

 翌日、劉表の居館の一角が“即席の厨房”として悠介に開放された。周囲にはどっしりとした作業台やかまどが設置され、炭の火力もしっかりある。何より、ここは戦場の仮設テントではない。調理器具もそこそこ充実しており、厳選された食材が使える。悠介は思わず心躍る気持ちになるが、同時に空気がピリピリ張り詰めているのも感じた。というのも、劉表の料理人たちが隣で待機しているのだ。

 「私が代表して勝負させていただきます。名前は鄭(てい)と申します。かつては朝廷に献上する御膳作りに携わっておりました。……あなたの“菓子作り”がどれほどのものか、ぜひ見せていただきたいものですね」

 短く刈り揃えた髪を持つ鄭と名乗る男は、いかにもプロの料理人という佇まいで悠介を睨んでいる。今回は彼が“荊州代表”として菓子対決に臨む形らしい。すでに劉表から「どちらがより美味い菓子を作れるか、一興に見せてくれ」と言われたのだ。

 悠介は自分なりに勝負の鍵を考えていた。ここ荊州には豊富な食材があるとはいえ、白砂糖のような精製された甘味はまだ入手が難しい。となれば、蜂蜜や干し果物、あるいは麦芽糖(まいばとう)のような発酵糖が主力となるだろう。しかも、宮廷料理人に勝とうとするなら、ただ甘いだけでは駄目だ。風味や食感、見栄えにも工夫が必要になる。

 「……よし、いっちょやってみますか」

 悠介は鼻息を鳴らして、さっそく作業に取りかかる。今回は少し贅沢に麦芽糖を使い、これを煮詰めたシロップで果実をコーティングすることを思いついた。いわゆるフルーツの砂糖漬けに近いイメージだが、当時の技術でどこまで再現できるかが勝負どころだ。

 まず、城の倉庫から取り寄せた麦を発酵させて作ったという“飴状の糖”を鍋に入れ、水を加えて火にかける。ゆっくりと熱を通すと、焦げつかないように常に混ぜながら、どろりとしたシロップができあがっていく。そこに山梨や桃、干しナツメなどを一口大に切ったものを入れて絡めるのだ。

 「温度の管理が難しいんだけど……もうちょい煮詰めるかな」

 悠介は焦らずにじっくり鍋の中をかき混ぜる。適度なとろみが出てきた段階で火を止め、少し冷ましてみる。すると、光沢のあるシロップが果物を包み込み、外側が薄い糖の膜のようになり始める。

 「これを冷ましたあと、さらに蜂蜜を薄く塗って乾燥させて……よし、もう少しで仕上がるはず」

 彼の試みは、一種の“砂糖漬け菓子”と“蜜煮”を合わせたようなものだ。外側がパリッと固まり、中は果実のジューシーさが残る。現代でいうフルーツグラッセに近いイメージだが、精製技術の限られた当時としてはかなり高度な試みといえる。

 一方、隣で作業を進める鄭は、伝統的な宮廷風の菓子を作っているようだ。細かく刻んだ干し果物を小麦粉の生地で包み、蒸籠(せいろ)で蒸すことで柔らかく仕上げるらしい。香料や少量の蜂蜜を加えて風味を高めており、蒸し上がった瞬間に湯気とともに芳醇な香りが漂う。確かに見事な技術だ。

 「……うわあ、美味しそう」

 思わず悠介が声を漏らすと、鄭は一瞥しながらも軽く鼻で笑う。

 「ふん。私は朝廷でも重宝された料理人だ。せいぜい“妙な方法”で作るおまえの菓子が、どんなものか楽しみにさせてもらうぞ」

 鄭の自信に満ちた態度を見て、悠介は軽く苦笑いしながら再度鍋の様子を確認する。負けるわけにはいかないが、こういう職人気質の相手にこそ、自分のアイデアをぶつける価値がある。

 ◇◇◇

 昼過ぎ、いよいよ劉表や劉備、そして城の来賓たちを迎えての“菓子対決”が庭で始まった。雅やかな衣装を纏った女性や文人、武将らも集まり、即席の“品評会”のような形が整えられる。大皿に盛られた美しい菓子の数々がテーブルに並び、目でも楽しませる趣向のようだ。

 先に皿を運び込んだのは鄭のチームだ。ふんわりと蒸し上がった生地の中に、甘酸っぱい干し果物の餡(あん)が詰まっており、そこに蜂蜜がほんのりと香る。断面の彩りもよく、見るからに上品で美味しそうだ。実際、口に運んだ劉表は「うむ、これは見事……」と頷き、満面の笑みを見せた。

 「さすがだな、鄭。いつもながら見事な仕事ぶりよ」

 周囲の家臣や料理人も拍手を送り、鄭は得意げに胸を張る。その一方で、悠介の作った皿はまだ運ばれていない。少し時間差をつけたのは、彼自身が仕上げの調整をしていたからだ。

 「よし……これなら、外がちゃんと固まって……中の果実もジューシーさを保ててる」

 少し迷った末、最後の仕上げに軽く竹炭の粉を利用して香りをつけ、全体を美しく盛り付ける。各々の果実が宝石のように輝き、噛んだときの甘酸っぱい爆発を演出できれば、きっと鄭の蒸し菓子にも対抗できるはずだ。

 そして、いよいよ悠介が皿を持って庭に戻ってくる。客席に並ぶ人々の前で蓋を開けると、綺麗な艶と控えめな香りが一斉に広がり、思わず周囲から「おお……」というどよめきが起こった。

 「ふむ……見た目はなかなか奇妙だが、果実が透き通ったように輝いているな」

 劉表が興味深そうに箸を伸ばす。まず山梨と思しき果肉を一口齧ると、その歯ごたえと甘酸っぱい蜜が口の中で溢れるように広がり、思わず彼は目を丸くした。

 「む……これは……外はパリッとしているが、中は柔らかい。口いっぱいに甘味と酸味が広がるぞ! なんとも不思議な食感だ。どこでこんな作り方を学んだ?」

 劉表が興奮気味に問うと、悠介は苦笑しながら「現代日本の、とか言えないよな……」と頭をよぎらせる。だが、ここはあくまで“秘伝の技術”という体で返すほかない。

 「まあ、ちょっとした……とっておきの工夫があるんです。麦芽糖や蜂蜜をじっくり煮詰めて果実をコーティングして、その後に十分に冷やし固めることでこの食感を作っています」

 「すごいわ。私も味見を……」

 横から顔を覗かせたのは、劉表の夫人と思われる女性。その後ろから他の家臣や客人たちも我先にと箸を伸ばし、順番に口へ運ぶ。噛むたびにシャリッという軽い音がして、その中から果実の爽やかな酸味と濃厚な甘みが弾ける。多くの人々が「うまい」「こんな菓子は初めて」と舌鼓を打った。

 当然、鄭もその光景を目の当たりにしている。自分の蒸し菓子も十分に評価は得ていたが、悠介のフルーツ菓子はインパクトが強く、特に若い女性や子どもが目を輝かせているのが明白だ。鄭は少し悔しそうに、しかし感嘆を隠しきれない声で言った。

 「なるほど……。外を硬く、中を柔らかく。しかも甘味と酸味のバランスが見事だ。これが“菓子専門”の力か……」

 鄭は深々と嘆息した後、悠介に向かって頭を下げる。世間知らずの若者かと思っていたが、その発想力と技術は侮れない。負けを認めたのだろう。その瞬間、周囲からは大きな拍手が湧き起こった。

 「いやあ、いいものを見せてもらった! 劉備殿の軍には、こんな人材がいたとは。ぜひ、荊州にいる間は存分に腕を振るっていただきたいですな」

 劉表が上機嫌に笑う。これで劉備軍は、荊州での滞在を円滑に進めるための大きな足掛かりを得た。さらに言えば、この菓子対決の勝利が、悠介の名を“菓子役”として広く知らしめることになるのは間違いない。王侯貴族や名士が集まる場所で、その名が噂される可能性も高い。

 実際、その晩には劉表から「存分に休養していけ。軍資金の融通も検討しよう」とありがたい申し出を受け、兵士たちは安堵の笑みを浮かべていた。朝晩の食糧不足も、これからしばらくの間は心配が減るはずだ。

 ◇◇◇

 夜になり、悠介は自室に割り当てられた一角で一人、床に腰を下ろしていた。襖の外では兵士たちが酒を酌み交わし、「いやあ、ここの飯は久々に旨い」「これで体力を取り戻せる」と口々に歓声を上げている。劉備軍にとって、荊州でのひとときは束の間の癒しになるだろう。

 (俺の菓子が、こんなふうに役立つなんて、ほんと想像してなかったなあ……)

 しみじみと考える。菓子作りなんて、現代じゃ掃いて捨てるほど職人はいるし、悠介はまだ見習いレベルの高校生だった。それが今や、戦局や領主の歓迎を左右する存在になっている。もちろん、戦の恐ろしさを考えれば手放しで喜べるわけではないが、誰かの役に立てている実感は、やはり嬉しいものだ。

 「……でも、まだやることはいっぱいあるよな」

 今回の菓子勝負では、現代の応用知識を少し使ったにすぎない。本気で探求すれば、当時の限られた技術の中でも、もっと高度なスイーツを生み出せるかもしれない。例えば揚げ菓子や煮詰め菓子だけでなく、蒸しや焼きの工程を駆使した複雑な菓子も模索できるだろう。

 しかし、その前にはまた戦が訪れる可能性が高い。曹操軍に限らず、各地の軍勢が争いを繰り返す乱世。ここ荊州ですら平穏がいつまで続くかはわからない。

 (どんな未来が待っているんだろう。俺はこのまま三国の世界で、“菓子職人”としてやっていくんだろうか……)

 ふと、遠い空を見上げるように天井を仰ぐ。現代へ戻る手段はわからないし、この世界での自分の役割を感じ始めた今、帰りたいのか留まりたいのか、自分でも判断がつかなくなっているのが正直なところだった。

 それでも、今は“菓子の力”が人を喜ばせ、支えられるのだと実感できた。劉備や兵士たち、そして荊州の人々の笑顔を思い浮かべると、少なくともこの時代に来たのは無駄なことばかりではない。まだ道は続く。今は一歩ずつ進むしかない。

 「よし、次はどんな菓子を作ろうかな……もう少し、複雑な味に挑戦してみたいかも」

 自問自答しながら、小さなノート代わりの紙に手を伸ばして何かを書きつけはじめる。異世界での生活という大きな不安を抱えながらも、彼の胸には新たなモチベーションが湧き起こっていた。それこそが、この三国の地でさらに大きな運命を切り開く鍵になるかもしれない——そんな淡い予感を抱きつつ、悠介は筆を動かすのだった。

(第4章・了)

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