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第5章 孫権との同盟交渉と“海の甘味”

 晩春の柔らかな日差しのもと、劉備軍は荊州(けいしゅう)を後にして南へと向かう長い行軍を開始した。狙いは孫権(そんけん)率いる呉(ご)との連携。曹操(そうそう)の大軍を牽制するには、北を睨む孫権との手を結ぶのが最善策という判断だ。ここしばらく劉備軍は荊州で英気を養い、財政面の支援も得られたが、戦乱の火種は常に周囲に潜んでいる。悠介も、その波に巻き込まれる形で軍勢とともに南方へ移動することになった。

 「南の土地は温暖で、海に面している場所も多いらしい。海……か。俺、海といえば夏のレジャーくらいしか思いつかなかったけど、この時代でどんな風景が見られるんだろう」

 悠介は後方の馬車に揺られながら、そんな期待を抱いていた。戦場続きで荒んだ光景ばかり見てきたせいか、海という単語がどうしても心を弾ませる。もっとも、目的は観光などではなく、孫権との外交交渉だ。すんなりと仲間になってくれればいいが、そう甘い話でもないらしい。

 「孫権はもともと名将・孫策(そんさく)の弟だ。曹操に匹敵するほどの勢力を持っていて、いわゆる南方の雄ってやつだな。だが、そう簡単に我らと組む気はないだろう。下手をすれば、利用されるのはこちらかもしれん」

 隣で馬を操る張飛(ちょうひ)がそう呟く。悠介は何気なく頷きながら、改めて“三國志”という歴史を頭に思い浮かべる。孫権といえば江南地方を支配する武将であり、周瑜(しゅうゆ)や魯粛(ろしゅく)といった名軍師を抱えていることでも有名だった。歴史好きなら誰もが知る赤壁の戦いなども思い出されるが、悠介は今のところ、そこまで鮮明な史実を追える余裕はない。ただ一つ確かなのは、孫権との同盟は劉備軍にとって極めて重要だということだ。

 ◇◇◇

 何日かの行軍を経て、周囲の風景が徐々に変わってきた。冬の名残から解放され、空気は湿り気を帯びて温暖だ。大きな川や湿地帯を渡り、海に近づいているのが肌で感じられる。野生の草花も北方とは違った色合いで咲き乱れ、魚介を扱う商人らしき人々とすれ違う場面も増えた。

 「おい悠介、これを見てみろ」

 馬車から降りて休憩を取っていたところ、張飛が手にしていたのは大きなカゴに詰められた“海藻”だった。地元の農民が小銭稼ぎに売り歩いているらしい。

 「……へえ、ひじきとか昆布みたいなものかな? 塩気があるし、乾燥させて貯蔵するんですかね」

 この時代でも海藻類は貴重な栄養源や調味料として扱われることがあると聞く。しかし、悠介はこれまで内陸部を転々としてきたため、直接目にしたのは初めてだ。さらには海塩や魚醤(ぎょしょう)と呼ばれる調味料も存在するようで、かぐわしい香りを漂わせた樽(たる)を荷車に積む行商人の姿も見かけた。

 (これだけ塩分や旨味が豊富なら、菓子にも何か活かせるかも……塩味スイーツって、現代ならポピュラーな発想だけど、この時代に受け入れられるかな)

 ふとそんなことを考える。蜂蜜の甘味だけでなく、海産物の塩味をうまく掛け合わせれば、甘じょっぱい味わいを演出できるはずだ。現代の“塩キャラメル”のようなイメージを念頭に、悠介は新たなアイデアを膨らませる。

 ◇◇◇

 やがて劉備軍は孫権の領地に近い港町へ到着した。しばしの休息を取りながら、孫権サイドの使者と連絡を取り、やがて双方の代表が会見する日取りが決まる。孫権自身がわざわざ出向くわけではなく、まずは周囲の将や家臣が応対し、劉備が説得を試みる形だ。

 「呉の将は手強いぞ。簡単には話を聞いてくれんだろうが……」

 関羽(かんう)が腕組みをしながら、どこか覚悟を決めている様子だ。劉備が何度か彼らに使者を送ったが、孫権軍としては「曹操と戦うメリットがどれほどあるのか」を見極めようとしているらしい。こちらは兵力が十分とは言えず、果たして本当に協力する価値があるのか——孫権にしてみれば、厳しい視線を向けるのも当然といえる。

 実際、翌日になって劉備が孫権側の要人と会見したところ、やはり態度は冷ややかだった。孫権の妹である孫尚香(そんしょうこう)という武芸に長けた女性まで同席していたが、彼女も含めて「劉備がどこまで本気で曹操と戦う気があるのか」「その実力はあるのか」と根掘り葉掘り尋ねてくる。

 「むろん、我らは曹操と対峙する覚悟がある。しかし今は兵が足りぬ。貴公らと手を携えれば必ず大義を貫ける……。どうか、力を貸してもらえぬだろうか」

 劉備が丁寧に頭を下げるのを見ても、孫権側の家臣たちはまだ懐疑的な様子だ。悠介は少し離れた場所から成り行きを見守っていたが、どうにも雰囲気が険悪で、進展が望めそうにはない気配が漂う。

 「これは難航しそうだな……。何かきっかけがあればいいけど」

 思わず悠介がこぼしたつぶやきを、張飛が小声で拾う。

 「おまえの菓子でどうにかならねえのか? ほら、荊州での勝負だって上手くいったろ? こういう交渉の場でも、甘味で相手を懐柔できないもんかね」

 「さすがにそんな都合よくは……って言いたいところだけど、やってみる価値はあるかもしれない」

 悠介はふと考え込む。孫権の陣営には、北では手に入りづらい海の幸や塩の恩恵がある。もしそれらを利用した新たな菓子を作り、彼らの食文化にアピールできれば、劉備との交渉材料になる可能性はゼロではない。

 (塩を使った甘じょっぱスイーツ……いわゆる塩キャラメル的な発想。蜂蜜や麦芽糖に海塩を混ぜ合わせて、味のコントラストを強調する……これはアリだな)

 ◇◇◇

 翌朝、悠介はさっそく近くの漁村や市場を回り、必要そうな食材を買い集めてきた。海藻や塩だけでなく、小さなエビや魚醤なども試しに手に入れてみる。塩味をどう活かすか。魚醤は匂いが強いので、菓子に使うのはかなり冒険だが、もしかしたら風味のアクセントになるかもしれない。

 「えーと、まずは塩を混ぜた蜜を作ってみるか……」

 とりあえず無難なラインとして、蜂蜜と麦芽糖を煮詰め、そこに精製度の低い海塩をひとつまみ加える。よくかき混ぜて味見をしてみると、甘いだけでなく塩味が立っていて、後を引く美味しさだ。いわゆる“甘じょっぱい”味覚が当時の人たちに受け入れられるかは未知数だが、悠介には確かな手応えがある。

 次に、そこへ細かく砕いた海藻の粉を混ぜてみたり、魚醤を少量垂らしてみたり、いくつかバリエーションを試す。魚醤は風味が強烈すぎて合わないかと思いきや、ほんの一滴程度なら複雑な旨味を添えてくれる。ただ、加減を誤れば台無しになりそうだ。

 「よし、この辺かな。塩気と甘味、そして旨味のバランスが面白い……」

 さらにそこに干し果物を加えて固め、いわば“塩キャラメルの固形菓子”に近い形へ仕上げた。外見はやや素朴だが、噛んだ瞬間のコクと甘み、それにほのかな磯の香りが同時に襲ってくる。悠介自身が思わず「これはイケる」と感じるほど新鮮な味わいだった。

 ◇◇◇

 数日後、孫権側との交渉が再開されるという知らせが届く。孫権自身はなお慎重な構えを見せているが、どうやら多少は劉備に興味を抱き始めたらしい。そこで劉備は改めて、もう一歩踏み込んだ話し合いの場を設けることにした。

 「悠介、悪いが……孫権の使者たちにおまえの新しい菓子を試食させてくれぬか?」

 兵の密集した陣営で、劉備が真剣な面持ちで依頼してくる。張飛らがひそかに“塩味の不思議なお菓子”の話を劉備に伝えたらしく、劉備自身も珍しそうにそれを手にとって舐めてみたところ、意外にも強い関心を示したのだ。

 「もちろん、やってみます。これで同盟の後押しができるなら、全力を尽くしますよ」

 悠介は胸を叩き、「塩キャラメルもどき」の菓子を丁寧に個包装し、数十個ばかり用意する。誤解を招かないよう、魚醤を使ったタイプはやめておき、海塩と干し果物だけで仕上げたバージョンに絞った。

 ◇◇◇

 そして迎えた会談の場。孫権の家臣が数名出席し、劉備はもちろん関羽や張飛、諸将も同席する。遠巻きに控えている孫尚香の姿も見えるが、依然として厳しい顔つきだ。交渉はやはり難航しており、孫権側が「具体的にどれだけの兵力を用意できるのか」「呉が得られる利点は何か」と問い詰め、劉備側が丁寧に返すもまだ糸口が見えない。

 そこで、休憩がてらの茶会にかこつけて、悠介が菓子を差し出す運びになった。凝った装いの給仕役が小さな器にのせた塩キャラメルもどきの固形菓子を各人の前に並べる。

 「……これは……?」

 最初に口を開いたのは孫権の家臣の一人。見た目は少し薄茶色い塊に干し果物の断片が見えるだけで、それほど目を惹くものではない。だが、口に入れた瞬間、その予想を上回る甘みと塩味のハーモニーに瞳を見開いた。

 「ほう……甘いと思いきや、舌の上で塩が効いて、あとからまた甘味が広がる……」

 別の家臣も同様に口を動かし、興味深そうに舌鼓を打つ。さらに干し果物の酸味が微妙にアクセントになっており、単調にならない。今までの甘味とは一線を画す、新しい感覚だ。これには孫尚香までが「どういう作り方をすればこうなるの?」と悠介のほうをちらりと見やったほどである。

 「おお、これはなかなか……。海の塩を使ったのか? 北のほうではこういう味はなかなか出せまいな」

 家臣の一人が妙に感心したように声をあげる。悠介は軽く会釈して答えた。

 「はい。海の塩は独特の旨味とミネラルを含んでいるので、甘味と合わせると新鮮な味わいになります。こちらの土地ならではの素材を使えば、いくらでも面白い菓子ができるんじゃないかと……」

 すると、これを聞いていた孫尚香が少し鼻を鳴らしながらも、興味を示したようだった。

 「へえ……そっちの発想も悪くないわね。でも、我らの呉は菓子よりも兵や船が必要なのよ。曹操と戦うつもりなら、その支度はどうするの?」

 やや棘のある言い回しだが、菓子に興味を持っているのは明らかだ。劉備は微笑を浮かべ、敬意をもって返答する。

 「もちろん、兵船や兵糧の用意については、できる限り具体的に示すつもりです。だが、その前に、お互いの文化や考えを共有し合う“場”を作りたく……。こうして味を通じて心を通わせることも、その一つかと」

 冷静な言葉の裏に、劉備の人徳というか思いやりのようなものがにじむ。孫尚香は黙ったまま視線をそらしたが、それをじっと見守っていた家臣たちは手にした菓子を再び味わい、何かを考えているようだった。やがて、その一人が静かに言う。

 「……正直、ここまで新鮮な甘味を経験したのは初めてだ。これだけの発想力があるならば、兵の食にも何か新風を吹き込めるかもしれん。あるいは同盟の先に、新たな利があるかもしれない」

 言外に「検討してみる価値はある」と示唆しているのだろう。悠介は一瞬、胸を撫で下ろす。菓子が絶大な外交カードになるかどうかはわからないが、少なくとも相手の興味を引く小さな突破口にはなったようだ。

 ◇◇◇

 後日、正式な交渉の末、孫権側は「まずは戦略的な同盟を結ぶ」という方向へと一歩譲歩することになる。もちろん条件や取り決めは多々あり、互いが全面的に信頼し合うには至らないものの、曹操に対する牽制という点で利害が一致したのだ。

 「ははっ、さすがだぜ、悠介! おまえの菓子がなけりゃ、たぶんここまでうまく話は進まなかったかもな」

 張飛が無骨な手で悠介の肩を叩き、笑ってみせる。関羽も静かに頷きながら言葉を継いだ。

 「孫権はそう簡単には心を開かぬだろうが、ひとまず同盟に持ち込めたのは大きい。悠介の作った“海の甘味”が、呉の将兵たちに少しでも印象を残したのは事実だろう」

 悠介としても、本当に自分の菓子がどれだけ役に立ったのかは測りかねるが、そう言われて悪い気はしない。海塩と蜂蜜を組み合わせるという発想は、当時では十分に革新的だったのだろう。互いの食文化を刺激する存在として、孫権側にも何か感じ取ってもらえたのなら嬉しい限りだ。

 「これから曹操との対立が本格化するかもしれない。そのとき、呉の協力が大きな力になる。……頼むぞ、悠介。おまえの菓子が、この先の戦の行方を変えるかもしれんからな」

 劉備の言葉には、大げさかもしれないが真剣な響きがあった。甘味が一つの戦略資源になりうるということを、過去の戦いで実証してきたのも事実だ。さらに今回、新たな“塩”という要素が加わったことで、今後の菓子開発はますます広がりを見せるだろう。

 (海の恵みを活かしたスイーツ、まだまだいろいろできそうだな……。干し海老の粉末を練り込んだらどうなるんだろう? 魚醤をほんのり使ったら味に深みが出るかも……)

 そんな考えが頭を巡り、悠介の胸には新しい創作意欲がわき起こる。戦乱の世であっても、彼の菓子作りへの探究心は尽きない。もしかすると、その探究心がいつか、この世界の趨勢(すうせい)を左右する大きなきっかけになるのかもしれない——そう思うと、不思議な胸の高鳴りを覚えるのだった。

(第5章・了)

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