第3章 初陣の苦闘、戦場で光る“甘さ”の価値
朝焼けが東の空を淡く染め始める頃、悠介は寝ぼけ眼をこすりながら小さなかまどの火を確認した。まだ灰がうっすらと赤く燃えている。昨夜のうちに仕込んでおいた“特製飴”が、熱をとおして固まりつつあるところだ。
「……よし、表面はちゃんと固まってる」
そう呟いて取り出したのは、蜂蜜に干し果物のエキスを溶かし込んだ、一口大のキャンディ状の固形物。まだ整形は不格好だが、当時としては画期的といえるだろう。悠介は試しに一つかじってみる。強い甘みとわずかな酸味が口の中で混ざり合い、唾液を促進するような新鮮な味わいだ。
(うん、これなら兵士が携帯しやすいし、ちょっと疲れたときに舐めればエネルギー補給になるはず……)
そう確信すると、悠介は満足気に頷いた。ここ最近、彼は“菓子役”として劉備軍の陣営に慣れ始めている。もともとは突然の転移で放り込まれた異世界の戦場。右も左もわからなかったが、意外なことに「菓子作り」という特技で周囲の信用を得つつあった。
しかし、その安息も長くは続かない。この日は朝早くから兵たちが慌ただしく行き来し、武器の点検や物資の準備に大わらわとなっている。訊けば、曹操軍の別働隊が近くの峠を越えて攻め寄せているらしい。兵力差は明白で、いまだ体勢を立て直せていない劉備軍にとっては苦しい状況だという。
「おい、悠介。もうできたのか、その“キャンディ”ってやつは」
声をかけてきたのは張飛(ちょうひ)。いつも大声で豪快に話す男だが、今朝はどこか緊張を隠しきれない様子だ。三国志をかじったことのある悠介には、彼が“猛将”として知られるのは理解できるものの、この世界では死と隣り合わせの厳しい現実を歩んでいるのだと改めて思い知らされる。
「うん。形はちょっといびつだけど、これを兵士のみんなに持たせれば、少しは疲れを和らげられると思う」
悠介は籠に並べたキャンディを見せる。ひとつひとつ布に包んであり、これならポケットや袋に忍ばせてもベタつくことは少ない。張飛は大きな手でそれをいくつか掴み取って、目を丸くする。
「ほう……これだけの量を、いつの間に……。やるじゃねえか!」
照れくさそうに肩をすくめる悠介をよそに、張飛はキャンディの一つを無造作に口に放り込む。カリッと硬い外層を噛み砕き、中からしみ出す甘みがじわっと広がるのを感じたのか、彼は相好を崩してみせる。
「む……これはいい! 干し果物と蜂蜜の味が立ってる。すぐに兵に配ってやれ。戦場でこれがあるかないかで、随分と違ってくるぞ」
「わかりました。じゃあ、そっちの兵たちにも配っておきますね」
悠介は素直に返事をし、まだ眠気の残る頭を振り払いつつ立ち上がった。外に出ると、早朝の冷たい風が肌を刺すようだ。だが、まどろむ暇はない。戦いは既に迫っている――そう思うだけで、嫌でも意識がはっきりしてくる。
◇◇◇
劉備の下に集合した兵たちは皆、疲労と不安に包まれていた。連戦続きで満足に休息を取れておらず、食料も不足気味だ。けれど、ここで逃げれば民衆を曹操の手に渡してしまう。逃げ道はないに等しい。
「これより、曹操軍の別働隊を迎え撃つ。数は我らより多いが……恐れるな。勝てぬ戦ではない」
劉備はそう声を張り上げた。兵たちには疲労が見えるものの、彼の言葉には不思議な説得力がある。悠介は列の後ろに控えながら、そんな劉備の姿をまじまじと見つめる。彼が歴史書で読んだ“昭烈帝”になる男とは想像がつかないが、確かに誰もが信頼を置きたくなるような雰囲気を持っていた。
「各隊、出発準備だ! 全員、各々の持ち場につけ!」
関羽(かんう)の厳かな声が響き渡る。悠介も、キャンディの入った籠を抱えながら、雑兵たちと一緒に馬車に乗り込んだ。この馬車は兵站用で、武器や食糧などを積み込むためのものだが、今は悠介の“菓子”も立派な補給物資の一つとして数えられている。
(まさか……自分がこんな形で三国志の戦に同行することになるなんて)
内心の震えを抑えながら馬車に揺られ、次第に野戦場の風景が広がっていく。地面にはところどころ焦げ跡や土嚢が積まれ、先の戦闘の痕跡が残されている。荒れ果てた大地を踏みしめる馬や兵士の姿は、現代の彼からすれば映画やゲームの画面を見ているようなものだ。しかし今は、その映画の中に自分が入り込んでいる――そう思うと足がすくむ。
やがて、小高い丘を越えたところで周囲がざわめいた。遠方に舞い上がる砂煙。整然と動く敵の軍勢の影。それはまぎれもなく曹操軍の別働隊だ。数にすれば劉備軍の倍近い。地の利もあるとはいえ、まともに正面衝突すれば容易には済まない。
「総員、備えろ!」
関羽の声が再び響き、兵たちはそれぞれ陣形を組む。大きな旗が風に翻り、“劉”の文字を掲げる隊列が緊張感を帯びる。悠介は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
◇◇◇
戦闘は、あっという間に泥沼と化した。遠目には互いの槍衾(やりぶすま)や馬上から放たれる矢が乱れ飛び、まるで人が波のように押し寄せては弾き返される。悠介は直接戦うわけではないが、兵站車両の近くで傷ついた兵の救護や物資の補給を手伝わなければならない。
「くそっ……こんなに数で押されちゃ……!」
思わず飛んできた矢が馬車の側面に突き刺さり、悠介は身をすくませる。目の前で血を流して倒れ込む兵もいれば、必死に踏みとどまる者もいる。普段は考えもしなかった“死”が、彼のすぐそばにあった。
しかし、ここで何もできずにうずくまっていてもしょうがない。悠介は改めて籠を開け、先ほど作ったキャンディや干し果物の小包をかき集める。
「お、おい、これを……舐めて……!」
具合の悪そうな兵にひとつ渡すと、兵は半信半疑ながら口に含んでみる。蜂蜜の濃厚な甘みが疲弊した体にほんの少しの活力を与えると、兵の瞳にはかすかな光が戻る。
「この甘さ……なんだか身体が少しだけ軽く……」
急場しのぎに過ぎないが、兵の意識を保つには充分らしい。その噂がすぐに伝わり、近くにいる兵が「俺にもくれ!」と手を伸ばしてくる。周囲に倒れ込んだり、消耗して動けなくなった者にも配っていくうちに、悠介は予想以上の反響を感じずにはいられなかった。
(ほんの小さな甘みでも、こんなに人を元気づけられるんだ……)
痛感すると同時に、蜂蜜や干し果物を手軽に食べられる形にしていて正解だったと自負する。揚げ菓子だと食べるのに時間がかかるが、キャンディ状の固形物なら咥えたり噛んだりしながら走れるのだ。兵たちが一瞬でもエネルギーを補給できれば、生存率も上がるかもしれない。
「張飛様が前線を押し返しているぞ! 後方から続け!」
「おう、俺たちも突撃だ!」
兵たちが次々と駆けていく姿を見送る悠介の目には、戦の恐ろしさと同時に、甘味による奇妙な連帯感が芽生えているようにも映った。死闘の中で人々を支えるのが、自分の作った菓子だという事実は、嬉しさと恐怖が入り混じる複雑な感情をもたらす。
◇◇◇
戦況は激しい消耗戦だった。曹操軍も一枚岩ではなく、別働隊はそこまで精鋭揃いではないらしい。数の有利があっても、指揮系統が脆いのか統制がやや乱れているようだ。その隙を縫って、関羽や張飛が華麗に武功を挙げる。特に張飛の豪胆な突撃は目を見張るものがあり、たびたび敵陣をかき乱しては、ほぼ無傷で引き戻ってくるという。
「いまだ……このまま押し返すぞ!」
戦いが最も激化する昼下がり、劉備自身が馬上から指揮をとり、前線への援護に向かう。周りを取り囲むように兵たちが走り、武器を振るう。馬上の劉備が一声発するだけで、全体の士気が上がるのが分かる。だが、兵の体力は次第に尽き始め、敵の数はなお多い。決定打に欠けるまま、夕方を迎える恐れがあった。
そのとき、悠介は兵站車両の近くで必死に矢を避けながら思い立つ。少しずつ消耗していく兵のために、もう一工夫できないか……。
「よし、今持っているキャンディを、さらに細かく砕いて……」
籠の中にはまだ固い飴がいくらか残っている。彼は杵代わりの棒でそれらを割りながら、少量の湯と混ぜ合わせ、“即席栄養ドリンク”のようなものを作ろうとした。蜂蜜と干し果物の濃縮された甘みをお湯で溶かせば、すぐに飲み下せる液体エネルギーになるはずだ。
「手伝って! そこの兵隊さん、火をもう少し強くして!」
「お、おう、わかった!」
散り散りになりながらも、数名の雑兵が協力しはじめる。荒っぽいやり方だが、大鍋に湯を沸かし、そこに砕いた飴を入れてかき混ぜるだけ。もともと兵士たちは干し肉や粥の調理に慣れているので、簡易的な調理は意外とスムーズに進んだ。
「できた! これを小さなひしゃくですくって、紙や布で作った筒に流し込んで……すぐに前線へ持っていって!」
「わ、わかった! しかしこんなもの、やけに甘い匂いがするぞ?」
「それがエネルギーになるんです! きっと元気が出るから!」
兵たちは最初こそ半信半疑だったが、口に含んでみるとその甘さに目を見開く。遠慮なく舌の上を滑る糖分が、空腹や疲労を一時的に忘れさせてくれるのだ。短時間ながらも、踏ん張りが利くようになる兵が増えていく。
「うおおおっ、身体が少し軽くなった気がするぜ!」
「もうひと踏ん張り、行こうじゃねえか!」
思わぬ形で生まれた“一杯の甘味ドリンク”が、戦場を駆け巡る兵たちの舌と胃袋を刺激する。夕刻が近いというのに、曹操軍の進撃は一向に捗らなくなり、逆に劉備軍が粘り強さを見せ始める。
「前線、少しずつ押し返してきているぞ……!」
その報告を受けた悠介は、思わず胸をなでおろす。もちろん甘味だけで勝てるわけはない。張飛や関羽をはじめとする猛将の存在、そして劉備の指揮力があってこその戦局だ。しかし、もし彼らがこのまま疲労で押しつぶされていたら、勝機を見いだすことは不可能だったかもしれない。
◇◇◇
日が西に沈む頃、戦いは一旦の決着を迎えた。曹操軍の別働隊は乱れたまま撤退し、劉備軍は消耗こそ大きいものの、何とか持ちこたえたのだ。通常なら兵力差を考えれば負けていてもおかしくない戦だったと、あちこちで驚きの声が上がっている。
「よくぞ粘ったな……。張飛や関羽らの奮戦も大きいが、それにしても兵が最後まで踏ん張れたのは……」
劉備は馬から降り、地べたに倒れこむ兵士たちの頭を一人ひとり撫でながら声をかける。周囲の兵も“奇跡の勝利”を噛みしめるように、砂まみれの甲冑を脱ぎ捨て、深い息を吐いていた。
「悠介、どこだ? あいつを呼べ!」
数名の兵が声を張り上げる。悠介が慌てて顔を出すと、戦士たちが驚きと喜びの入り混じった表情を向けてきた。
「今回の勝利はお前の菓子も大きいぞ。あれを舐めたり飲んだりすると、不思議と疲れが和らいでな……俺ら、最後まで戦えたんだ」
「おまえ、ただの変わり者だと思ってたが、まさかこんな戦場で頼りになるとはな」
照れ臭さと安堵感に襲われながら、悠介は言葉に詰まる。いつの間にか“菓子役”という立場が、命を繋ぎ止める重要な役割になっているなんて、転移した直後には想像もしていなかった。
「お疲れ様です……。いや、本当によかった。みんなが無事で……」
そう呟くと、彼らから一斉に感謝の声が上がる。怪我人は少なくないし、決して余裕のある戦いではなかったはず。しかし、この菓子の力が兵士たちの士気を支え、傷だらけの足並みをなんとか揃えさせたのは事実だ。
周囲を見回すと、関羽や張飛も疲労困憊ながら笑顔を交わしている。張飛は悠介に気づくと、豪快に手を振って声をかけた。
「よう、若造! 今回ばかりは礼を言うぜ! おかげで腹が減っても戦えた。戦場ってのはそこまで甘くない……はずなんだが、甘味のおかげで少しだけマシになった気がするな!」
やや強引な言い回しだが、褒めるときは素直に褒める男らしい。それだけに、悠介の胸にほんのりと嬉しさが広がった。
「いや、俺はただ、蜂蜜と干し果物を煮詰めただけですよ。みんなが頑張ったから勝てたんです」
謙遜しながらも、張飛の笑顔につられて彼も自然と笑みをこぼす。すると、背後からさらに落ち着いた声がかかった。
「橘(たちばな)……いや、悠介、と呼んだほうがよいか。このたびはおまえの貢献、大きかった」
見やれば、そこには劉備が立っていた。衣は汚れや血痕で荒れているが、その表情は紛れもない安堵と感謝の色に満ちている。乱世の名君と呼ばれる男の眼差しが、まっすぐに悠介に向けられた。
「兵たちも、久方ぶりの甘みで疲れを癒すことができた。私自身、最後の馬上でも、おまえが用意した飲み物のおかげで何とか踏ん張れたのだ。礼を言う」
その言葉に悠介は体の力が抜けそうになるほど安堵し、同時に誇らしさすら感じた。まさか自分の菓子が、ここまで周りを支える存在になるなんて。
「いえ……。俺は、まだまだできることが限られてますけど、それでも……少しでも皆さんの役に立てれば、本望です」
首を垂れる悠介を、劉備はそっと抱きとめるようにして彼の肩に手を置く。そして、優しい声で続けた。
「これからも頼りにさせてもらう。だが、敵は曹操だけではない。戦は続く。おまえの作る甘味は、これからますます重要になるだろう……」
それは未来への暗示にも思えた。三国が乱立するこの世界で、悠介の“甘味”はただの嗜好品ではなく、“兵の士気を左右する武器”の一端として認められてきているのだ。
(甘味がこんな形で人の力になるなんて……)
戦乱の野を見下ろしながら、悠介は改めて思う。自分がパティシエ志望として培ってきた知識や技術は、現代に帰れないかもしれないこの地で、多くの人を救うかもしれない。もちろん、殺し合いが続く現場を見るのはつらい。それでも、自分の菓子が人々の笑顔や命の繋ぎとして役立つなら――。
「わかりました……。頑張りますね、俺」
かすかな声で自分に言い聞かせるように呟くと、劉備はほほ笑んでうなずいた。もう、悠介に迷いは少なかった。戦の恐ろしさと正面から向き合いながら、その痛みを少しでも和らげる甘味を作り続けること。それが、今の彼にできる精一杯の生き方なのだろう。
大地にかかった薄闇の中、傷だらけの兵士たちに囲まれる悠介は、激戦をくぐり抜けた疲労を感じながらも、はっきりとした使命感に燃えていた。何の変哲もない高校生だったはずが、いつしか多くの兵士や武将から“頼りにされる存在”になり始めている――。
そして、この初陣の苦闘が、悠介の名を劉備軍内に一躍広めるきっかけになる。誰もが口を揃えて噂した。「あの菓子役、見慣れぬ姿だが、甘味で戦を支えた奴がいる」と。
この先、三国の乱世を巻き込むさらに大きな渦が、悠介を待ち受けているとも知らずに。
(第3章・了)