第2章 劉備との邂逅と“甘味”の衝撃
陣営の中心に設えられた簡素なテーブルは、いかにも戦場の拠点らしく、ところどころに土埃や血痕が付着している。その背後でどっしりと腰を下ろしている男こそ、兵たちが「御方」と呼ぶ人物。やや疲れを帯びた表情だが、鋭さを失わない目元にはどこか人望を感じさせる温かみもある。
「こちらが劉備(りゅうび)様だ」
兵の一人がそう囁く。悠介は内心で「やっぱり本当にあの劉備なのか……」と驚くが、同時に現実感のなさに戸惑いを覚えていた。こんなのは夢か幻か、はたまた何かのドッキリにしか思えない。
だが、槍を構えた複数の兵士の厳戒態勢を見る限り、冗談では済まない空気だ。まさしく、ここは三国志の世界そのもの。“桃園の誓い”で有名な劉備が目の前に座しているのだと理解せざるを得ない。
「……貴様が、奇妙な姿で現れたという者か?」
深みのある低い声が、悠介をまっすぐに見据える。長旅と戦の疲弊か、あるいは元々の気質か、どこか物憂げな面持ちの劉備。しかし、一度目が合うと、その懐の深さを感じさせる何かが伝わってくる。
「はい……いや、その……俺は橘(たちばな)悠介って言います。あの……突然ここに飛ばされて、訳がわからないままで……」
悠介はできる限り丁寧な言葉を選ぶが、異世界の礼儀作法など知る由もなく、どこかぎこちない。しかし、兵たちもまた「日本語のような言葉」をしゃべっているようなので、その点だけは多少の救いだった。
「ほう、橘……珍しい名だ。見慣れぬ服装をしておるが、どの国の出だ?」
「それが……現代日本っていう、ここからずっと未来かもしれない場所……と言っても信じられないでしょうけど」
案の定、周囲の兵たちは怪訝そうに顔を見合わせる。関羽(かんう)とおぼしき長い髭の男や、張飛(ちょうひ)と思われる目つきの鋭い男まで、まるで「何を寝言を言っている」と言いたげな表情だ。
しかし、劉備はすぐにそれを咎めるでもなく、落ち着いた声で続ける。
「おかしな話だが、まるで妖術に巻き込まれたかのようだな。だが、戦場でおまえが見せた“甘い液体”……あれは見たことのない代物であった。傷ついた兵がひとさじ舐めただけで、体力が少し回復したというが……いったい何者なのだ、貴様は?」
悠介は蜂蜜の小瓶を取り出して見せる。緊迫感を保ちながらも、劉備の背後に控える関羽と張飛が興味深そうに身を乗り出してくるのが見えた。
「これは蜂蜜といって、ミツバチが花の蜜を集めて作るんです。俺は菓子を作るのが好きで……えっと、パティシエ志望っていっても通じないかもですが、つまり“菓子職人”みたいなものになりたい学生なんです」
「菓子職人……菓子……?」
張飛が首をかしげ、関羽は長い髭を撫でながら考え込む。悠介は自分のバッグからミニサイズの袋を取り出し、持参していた干し果物の一部も見せようとした。しかし、ほとんどは蜂蜜と同じく試作のためのサンプル程度しかない。
「オレたちの兵糧は干した肉と穀物ばかり。甘いものなど滅多に口にできん。貴様、何か珍妙な術でも使うのか?」
声の主は張飛だろう。険しい表情とは裏腹に、その瞳には好奇心が宿る。
「術ではなくて……ただ、俺は料理が好きなんです。蜂蜜を使えば、少しだけど兵士の疲れをとれるかもって思って……それだけですよ」
悠介の言葉に、劉備はゆっくりと頷いたように見えた。戦乱続きで兵たちも疲労の極みにある。今は少しの活力でもありがたいのだろう。だが、それだけではなく、何か新しい可能性を探る目にも見えた。
「橘とやら。もし嘘をついていないなら、兵の糧に関して少しばかり協力してもらえぬだろうか」
そう言ったのは劉備自身だ。真摯な響きに、悠介は思わず気圧される。同時に、ここで断ったらどうなるかという恐怖もある。彼らにとって自分は得体の知れない存在。どう転んでも安全ではない。
「……わかりました。俺にできることなら、やってみます」
まさに腹をくくるしかない状況だ。これが自分の運命だと言わんばかりに、悠介は真剣な顔で頷く。とにかく生き延びるには、この人たちに協力するしかない――そう自らに言い聞かせた。
◇◇◇
そうして始まったのは、軍用テントの片隅での小さな“料理場”づくりであった。周辺の兵士や雑用係が、かき集めるようにして粉や油、干し果物、蜂蜜などを持ってくる。もともと十分な材料はないものの、悠介からすれば未知の味や新鮮な素材ばかりで、むしろ燃えてくる。
だが当然、当時の器具や燃料は原始的に近い。火力調整などもかなり難しく、温度管理一つ取ってもどうにか頭を使わなければいけない。
「えーっと、こんな感じで小麦粉を……あ、でもふるいがないか……」
悠介は指示を出しながら、最小限の材料で手軽にできる揚げ菓子を思案する。ふわふわのケーキは無理があるし、オーブンもない。ならば、油で揚げるのが一番手っ取り早いし、兵士たちも手に取りやすいだろう。
「干しナツメはありますか? 酸味と甘みがあると、蜂蜜だけより複雑な味を出せるんだけど……」
作業を手伝ってくれる雑兵の一人が、少し戸惑いながらも干した赤茶色の果物を出してきた。切り分けてみると確かにナツメのようだ。日本のスーパーではあまり馴染みがないが、中国や中近東ではよく使われる。
「よし、これを刻んで生地に混ぜ込もう」
それを指示すると、兵たちは興味津々で手伝い始める。もっとも、ナツメを刻むのに木のまな板すらまともにないので、平らな石を使うなど苦労は多い。
「粉に水と蜂蜜を加えて……いや、ここは麦芽糖ってないのかな? 乾燥してあるだけか……うーん、じゃあ蜂蜜だけで甘みをつけるしかないか」
ぶつぶつ言いながらも、悠介は高校生離れした手つきで材料をまとめていく。生地がある程度まとまったところで、底の深い大鍋に火をかけ、手頃な油で加熱を開始。勢いよく煙が上がるのを見ながら、適切な温度を測る。温度計などないため、切れ端の生地を落としてみて泡立ちの具合を確かめるしかない。
「うん、これでいけそう……。じゃあ丸めた生地を順番に揚げていくよ」
生地を油に落とすと、シュワシュワと泡が立ち、黄褐色に色づいていく。まだ重油の匂いが気になるが、当時の環境ではこれが精いっぱい。揚げたそばから、熱々の揚げ菓子を籠に上げ、ほんの少しだけ外気で冷ます。
「おい、これは何なんだ……?」
張飛らしき男が腕を組みながら鼻をひくつかせる。かすかな甘い香りが食欲をそそるのか、目は興味に輝いている。関羽も黙っているが、気になって仕方ないのだろう。
「揚げ菓子です。中に干しナツメを刻んで入れてあるんで、酸味もある程度混ざってると思います。外はカリッと、中はモチッとしてるはず……多分、ですけど」
悠介が一つ手に取り、割ってみる。すると、ほんのりとした甘い湯気と共に、ナツメの鮮やかな色が顔をのぞかせる。
「これが、食べ物……? あんまり見たことのない形だな」
疑い深そうに言いながらも、張飛は思い切って一口齧った。すると途端に、黒目がぐっと大きくなる。バリッとした表面から、しっとりとした生地が口の中に広がり、ナツメの酸味と蜂蜜の甘味が不思議な調和を生み出している。
「う、うめえ……!! なんだ、これ……!」
さすがの張飛も思わず素の声を漏らし、関羽も気になって手を伸ばして口に運ぶ。劉備の前にも差し出すと、疑いつつも興味を抑えきれないらしく、静かに口へ運んだ。
「……たしかにうまい。甘いのは存じていたが、こんなに心が落ち着くものなのか……」
劉備が微かに驚きの色を浮かべ、思わずもう一口かじる。甘味が乏しく味気ない戦場食に慣れている人々にとって、この揚げ菓子は衝撃的な存在だろう。周囲の兵士も我慢できずに次々と手を伸ばし、あっという間に皿が空になる。
「あー……まだ揚げてるところだから、少し待って……!」
悠介は追加で次々と生地を揚げていく。兵士たちが口々に感嘆や興奮の声を上げ、狭いテント内はまるで即席の菓子屋のような賑わいになった。
「これはなかなか……士気に役立ちそうだな」
落ち着いた声で呟いたのは劉備だ。その目には、“この菓子が戦いを左右する可能性”をどこか感じ取ったような光が宿っている。兵たちに少しでも休息や楽しみを与え、連戦続きの疲労を和らげる。それは単なる贅沢品ではなく、戦略的な意味を持つというのだ。
「橘とやら、この菓子は量産できるのか?」
「材料次第ですね。蜂蜜や干し果物は今のところ貴重みたいですが……それに多くの人に作り方を覚えてもらわないと、俺一人じゃ手が回らないし……」
正直、悠介には戦場のことはわからない。だが、これが兵の助けになるのなら、ぜひとも協力したいと思った。今は何より自分がこの世界で生き延びるための手段にもなる。
劉備はしばし考える素振りを見せた後、静かに告げる。
「わかった。必要な材料や人手をできるだけ手配しよう。おまえには、うちの軍の“菓子役”として働いてもらいたい。どうやら、この甘味には将来性がありそうだからな」
そこには確かに、ただの興味本位だけでない重みがあった。この小さな揚げ菓子が、兵たちを鼓舞し、あるいは苦しい戦況の中で光をもたらすかもしれない。劉備はそう考えている——そして、その考えに共感するかのように、関羽や張飛も肯定的に頷いていた。
「俺にできることなら……やってみます。正直、これが何の役に立つかはまだわかりませんけど、少なくともみんなが喜んでくれたなら、俺も嬉しいです」
悠介はそう言いながら、ひときわ大きめに丸めた生地を油へ落とす。高温の油の中でぷくりと膨れるように揚がっていく姿を見つめながら、改めて自分の境遇を思った。
(本当に俺はこの世界に来ちまったんだな……)
不安も大きい。しかし、今は目の前にある揚げ菓子が放つ香ばしい匂いに、かすかな希望を感じる。ここでの生活がどう展開していくのか、何もわからない。それでも——この甘味が人々を笑顔にできるのなら、少しでも貢献できるのならば、やってみる価値はある。
そんなことを考えていると、また張飛が遠慮もなく横合いから声を張り上げた。
「おい、橘とやら! もう揚がったのはないのか!? さっきので味をしめちまったぞ!」
「はいはい、今ちょうど揚がったところです! ……急いで持って行きます!」
悠介は苦笑いしながら大皿に盛り付ける。すると兵士たちが歓声をあげ、熱々の揚げ菓子を互いに奪い合うように頬張っている。
「ふむ、これは確かに……。さっきも言ったが、我が軍にとって大いに助けとなりうる発明かもしれぬな」
劉備はそう言って新たな一口をかじり、満足げに目を細めた。これまで乏しかった甘味が、そのほんの少しの魔力で人々を虜にしている。
甘味による衝撃は、思わぬ形で戦場の空気を変え始めていた。
そして悠介は知らなかったが、ここから先——彼が作る菓子がさらなる“奇跡”を生み、三国の乱世を巻き込んでいくことになるのである。
(第2章・了)