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第24話 白雪さんは知りたかった

 僕がネームにオーケーを出した次の日から、白雪さんは原稿に取り掛かった。念の為、ネームの時点で潰せる箇所は全て潰しておいたし。

 そして、まずは下書きからになるわけだけれど、これはあっという間に描き上げてしまった。下書きとはいえ、かなりの速筆。速さはひとつの武器になる。編集者にとって、とてもありがたいことだし、なにより仕事を依頼しやすい。

 集中している時の白雪さんはすごかった。まさに、鬼神の如く。ずっとリビングのローテーブルの前で原稿に向かい続けた。時には僕が帰ってきたことにも気付かないで、そのまま描き続けていたこともしばしばあった。

 ただ、彼女は頑張りすぎていた。

「白雪さん、あんまり根詰めすぎないようにね。体壊しちゃうよ?」

「ご心配ありがとうございます。でも、描かなきゃ……」

「締め切りがあるわけじゃないんだから、少しペースを落とした方がいいよ? 最近すごく疲れた顔してるし」

「はい、正直疲れてます……」

 白雪さんは疲労を滲ませた顔で、うんと背中を思い切り伸ばした。疲れるのも当たり前だ。昼間は学校に行って勉学に励み、僕のアパートに来て家事を行い、それから遅くまで原稿を描いているのだ。

「響さん、栄養ドリンクって効果ありますか? 飲んだことがないのでちょっと分からなくて。どうなんでしょう。」

「駄目だって! 絶対に駄目! 確かに値段が高いやつはかなり効果があるけど、でも一時的な効果しかないんだ。そもそも高校生がそんなものに頼ってどうするのさ」

「だって……あまりに進みが遅いから。焦っちゃって」

 一度ペンを起き、ぱたんと床に倒れて大の字になる白雪さん。ぼーっとした表情で天井の一点を見つめている。これは無理やりにでも休ませなければ。

 進みが遅いと言った白雪さんだが、ここにきて彼女の弱点が露呈した感じだった。最初にあのファミレスで原稿を見た時にも感じたけれど、彼女はGペンの使い方に慣れていないのだ。基本、Gペンは筆圧とスピードによって線に強弱をつける。そのコツがまだ掴めていないんだ。白雪さんの描く線は、所々潰れてしまっていた。

 だから何度も何度も描き直していた。原稿用紙がもったいないのでスケッチブックに何本も線を引いて練習した。しかし、それでもまだ拙いままだった。

「私、本当にプロになれるのかな」

「何言ってるの。今から弱音を吐いてどうするのさ」

「だって……」

 そう言って、白雪さんはごろんと床で丸くなり、ぶつぶつと独り言。いかん、完全に自信喪失モードに入ってしまっている。でもここを乗り越えなければ、壁をぶち破らなければ、プロになんかなれない。仮になれたとしても、弱音ばかり吐いていたら、すぐに編集部に捨てられてしまう。

 でも今、それを言っても白雪さんを余計に追い詰めるだけだ。とりあえず、彼女の気分転換になることをしよう。

「白雪さん、僕とちょっとお喋りしようよ。漫画から少し離れてさ」

「響さんとお喋り。私、したいです」

 元気のない声でそう返事をしてくれた。

「そっか、良かった。じゃあそうしよう。何についてお喋りする? くだらないことでも何でもいいよ。白雪さんの興味のある話題にしよう」

「私の興味のあること、ですか」

 ごろんと横になったまま、白雪さんは話題を考える。そして声に小さな戸惑いを滲ませながら、僕に話題を提案したのであった。

「あの、私、ずっと訊きたかったことがあるんです。響さんに」

「訊きたいこと? いいよ、どんと来い。なんでも答えてあげるよ」

 天井を見つめながら、白雪さんは少し迷っていた。言葉にするべきか、しないべきか。それは、白雪さんの優しさだった。僕を傷付けたくないと思ったに違いなかった。それでも、白雪さんは知りたかったのだ。

 僕のことを。響政宗のことを。

「響さん、どうして漫画の編集を辞めちゃったんですか?」

 *   *   *

 当然の疑問だった。白雪さんは漫画家なのだから。

 将来関わっていくかもしれない、漫画編集者。その人間がどうして編集の道を捨てたのか。諦めたのか。知りたい気持ちでいっぱいだっただろう。

 でも、今までそれを訊かないでいてくれた。大好きな仕事を辞めるわけだから、それ相応の理由があったに違いないと思ったはずだ。

 それでも知りたいと思ってくれたのだ。

 響政宗の過去を。

「うーん、まあ、それにはちょっとした理由があってね」

 迷いはなかった。僕は自分にあった出来事を白雪さんに話すべきだと思ったし、不思議と彼女に話したいと思えたのだ。

「でも、簡単に言うと、そうだな」

 僕自身、いい加減、乗り越えなければならないと思っていた。いつまでも、過去をに囚われ、引きずっていても仕方がない。

 そう思えたのは、常に真っ直ぐ、前に進む白雪さんの姿を見てきたからだ。
 だから、話す。そして伝える。僕が漫画編集を辞めた理由を。

 天職とまで思っていた仕事を、捨てた理由を。

「僕はね、一人の漫画家さんを壊してしまったんだよ」


 『第24話 白雪さんは知りたかった』
 終わり

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