第25話 白雪さんの新しい夢【1】
『一人の漫画家さんを壊してしまったんだよ』
僕のその言葉を聞いて、横になっていた白雪さんは勢い良くがばりと起き上がった。そして、しっかりと正座をして姿勢を正す。
白雪さんは、これから話すことを、響政宗の過去をしっかりと受け止めようとしていた。僕には、それが嬉しかった。
「響さんが、壊してしまった……」
「うん、そう。全部話すよ。漫画家志望の白雪さんにとって、この話はきっと将来の役に立つかもしれないと思うし、それに個人的に、白雪さんには知っていてほしくて。僕の過去のことを」
こくりと、白雪さんは黙ったまま頷いた。
「壊してしまったのは、僕が初めて担当した作家さん。その人はプロデビューしてから三年目位だったかな。すごく真面目な人でさ。僕の意見もしっかりと耳を傾けてくれて。だから僕も、その作家さんには特別な想いを抱いていたんだ」
そう、本当に真面目な人だった。努力家だった。先輩から引き継ぐという形で担当したわけだけれど、この人を担当できて本当に良かったと思っていた。
でも、その作家さんは正直言って、お世辞にも上手いとは言えなくて。漫画力も画力もさほど高くない。絵柄も少し古い。でも、一番致命的だったのは、人物のパースを取るのが苦手だったこと。どうしても、俯瞰やあおりになると崩れてしまう。だから、その作家さんはものすごく努力をした。その欠点を直すために、人一倍。
でも、その努力が報われることはなかった。
「努力してるのに、頑張ってるのに、報われないのは辛かったでしょうね」
「そうだね。でも、それが現実なんだ。報われない努力なんて山程ある。この世は努力が報われる世界であってほしいと僕は思う。でも、実際は違うんだよね。だから僕なりにちょっと考えた。他の手段を使えるよう考え方のベクトルを変えて」
「ベクトル、ですか」
「そう、ベクトル。正直なところさ、僕は人物パースが上手く取れなくても別に構わないと思ってるんだ。そういう時は『嘘』を使えばいいから。いわゆる『嘘パース』。これも技法のひとつなんだ。人物パースが取れなくても、『嘘』のパースを使って、要は違和感を感じないようにするの」
「確かにそうですね。違和感を感じなければ、問題点は問題点でなくなるわけですし。それで、どうだったんですか? その作家さんは」
「うん、駄目だった。それも使いこなすことが出来なかった。しかも、より人物パースを気にしすぎるようになっちゃって。人物パースから逃げるように描くようになって。そうなるとさ、漫画が平面的になるじゃん」
「平面的……私でもなんとなく分かります。確かに引きや大コマを使ったアップとかをバランス良く描いても、それだけでは限界がありますよね」
「そう、まさにその通り」
せめて他の武器、例えば、飛び抜けた発想力や独特の絵柄を持ち合わせていれば、話はまた違っていただろう。しかし、その作家さんにはそれもない。武器がない。それがなければどうなるか、容易に想像はできた。
「あの、それで、その作家さんはどうなってしまったんですか?」
「うん、打ち切りが決まった。その時は僕も編集者になって五年くらい経っていたからよく分かった。その作家さん、よく持った方だと思う。読者アンケートでもいつも最下位だったし」
編集長に呼ばれて、言われた。この漫画を一ヶ月以内に畳む用意をしろと。それを伝えておけと。いわゆるクビ宣告だ。
その事実を電話で済ませるのはさすがに失礼だと思い、僕はその作家さんの所まで行った。そして、伝えた。辺り前なことだけれど、その作家さんは深く落ち込んだ。実際のところ、僕も落ち込んでいた。思い入れが強い分。でも担当編集者としての責務を果たすにも、落ち込んでいるところは見せなかった。
でも、今考えると当然のことだ。商業漫画は結果が命。ボランティアではない。どんなに努力しようが頑張ろうが、人気が出なければ、単行本が売れなければ、それらは全く意味を成さない。
でもその時、僕は初めてその作家さんの事情を把握した。
「ご家庭を持っていたんだ。ご結婚されていて、子供も二人いて。僕はあまり作家さんのプライベートには触れないようにしていてさ。情に流されやすいからね。プライベートを知ったら知ったで、一線を超えてしまう恐れがあると自分でも理解していて。だから、その時に初めて知ったんだ。ご家族を支えていかなければならない立場にあることを。連載打ち切りは、それこそ死活問題だった」
「原稿料がなければ、生活できなくなっちゃいますもんね」
「そう。漫画家は当然、漫画を描かなければお金がもらえない。お金がもらえなければどうするか。別の仕事をするしかないよね」
「家族を養うためだから、当然そうなりますよね」
「で、その作家さんは肉体労働を始めたんだ。毎日毎日、キツイ仕事をして、なんとか生活をしていた。でも、その作家さんはやっぱり漫画を描くのが大好きで、諦めきれなかったみたい。一生、漫画で食べていきたいと。でね、とある日、相談されてさ。『響さん、どうにかしてもらえませんか』って」
そう、今でも鮮明に覚えている。ファミレスで向かい合った僕に、一生懸命、頭を下げる作家さんの姿を。
「だから、僕は動いたんだ。必死になって編集長に掛け合ったり、他の編集部にまで行って、どうにか仕事をもらえないかと頭を下げてお願いして。それで、単発ではあるけど、なんとか仕事はもらうことができたんだ」
「単発って、つまり読み切り漫画ってことですか?」
「そう、読み切り。でもさ、それってただの一時凌ぎにしかならなくて。今なら冷静に考えることが出来るから分かるけど、僕がしてたことはただの延命治療でしかなかったんだよね。結局、その作家さんはたまにもらえる読み切り漫画の仕事と、肉体労働のダブルワークにならざるを得なくなっちゃって」
「でも、響さんがどうしてそんなに必死にならなきゃいけなかったんですか? 漫画家は自分で仕事をもらってくるものだと思ってたんですけど」
「まあ、そうなんだけどね。白雪さんの言う通り。だから、やっぱり僕は作家さんのプライベートには触れない方が良かったんだ。その作家さんが生活に困るようにならないようにしなきゃって、毎日悩むようになっちゃった」
「響さん、優しすぎますよ……」
そう言って、白雪さんは膝の上に置いた拳を力強くギュッと握った。
「長くなりすぎちゃったね。結果を話すよ。その作家さん、精神を病んでしまったんだ。それで、信じられないかもしれないけど、まるで小学生が描いたような絵になってしまったんだ。ハッキリ言って、僕は最低な編集者だったと思う。生きがいだった漫画すら描けないようにしちゃったわけだから。壊しちゃったんだよ、僕がその人を。その人の人生を。生きがいを。持っているものを、全部を」
そう。僕は一人の作家さんを壊してしまった。そして、僕は入社した時から編集長に何度も言われていた言葉を思い出した。
『編集者はいつだって作家をクビにすることが出来る。だからお前も、常に自分をクビにする覚悟をしておけ。じゃないと、あまりに不公平だ。だからこそ、命を賭けろ。命を賭けて、漫画編集に全力で打ち込め』
「だから、僕は僕自身をクビにした。皆んなからは止められたよ、辞めるべきではないって。でも、それでは筋が通らないと思ってさ。ケジメをつけるためにも、僕は辞めるべきだと。辞めなければならないと。だから僕は、二度と漫画編集に携わるようにしないことにしたんだ」
全てを話し終えた。伝えることができた。いつか、白雪さんにはこの話をした方が良いと思っていたからスッキリした。
しかし、話し終えたその時だった。勢いよく、白雪さんは立ち上がった。
そして叫んだ。
それは、白雪さんの心の底からの叫びだった。
『第25話 白雪さんの新しい夢【1】』
終わり