第23話 白雪さんは夢を見る
やっと、今日の仕事が終わった。もう色々と限界だな、筋肉も悲鳴を上げているし。転職したいなあ。今の仕事は漫画の編集者意外の仕事には全く興味がないから適当に決めただけだし。とは言っても、適当すぎた。どうして僕は、一番向いていない肉体労働を選んだのだろう。よほど精神的に参っていたのが分かる。
そんなことを考えながら、家路につく。
アパートが見えてきたところで、部屋の明かりがついていることを確認。今日も白雪さんが来てくれているみたいだ。
彼女が来てくれるようになってから、僕は救われた。生活が一変した。
まさに、僕にとっての癒やしの女神様だ。
家に帰ると、その日の食事の用意されている。これはとても幸せなこと。でも、僕にとって一番幸せに感じることは、白雪さんが帰りを待ってくれているということなんだ。笑顔で出迎えてくれることなんだ。
僕は、彼女の笑顔に救われているんだ。
「ただいまー」
「あ、響さん! お帰りなさい。今日も一日、お仕事本当にお疲れさまでした。ちょうど今、お味噌汁ができたところですよ」
白雪さんはとてとてと歩いて、僕を笑顔で玄関まで出迎えてくれた。僕の心が一気に潤う。それを如実に感じた。鼻腔に、お味噌汁の匂いが広がる。
「白雪さん、いつも本当にありがとうね」
「いえいえ、そんな。お礼を言うのは私の方ですよ。お仕事で疲れているのに、いつも漫画作りについて教えてくれて。本当に感謝しています」
今日はどうやら学校が終わってそのままやって来たらしく、白雪さんはブレザーの制服の上からピンクのエプロンをまとっていた。
ああ、可愛い。ずっと見ていたい。でも、できれば裸エプ――ごほんごほん。馬鹿か僕は。なんてことを考えているんだ。白雪さんに対して失礼すぎるだろ。デリカシーなさすぎ。漫画だったら都条例に引っかかるって。
「どうしました? 考え事ですか?」
「い、いや、なんでもないよ。気にしないでね」
「もし悩み事があったら言ってくださいね。話を聞くことしかできないかもしれないですけど、言えばスッキリすることもありますし」
「う、うん、ありがとうね」
言えるわけがない! 言ったら白雪さんが家に来てくれなくなってしまう!
「それじゃあ、今すぐご飯の用意しますね。その間に響さんはシャワー浴びてきてください。きっと汗でベタベタしてるはずですし」
笑顔の白雪さんが眩しく映る。この子、本当に天使だ。寂しいオジサンの元に舞い降りた天使。救いの女神様。今時、漫画でもなかなかないベタな展開ではあるけど、僕にはそう思えて仕方がなかった。
* * *
「「いただきまーす」」
手を合わせ、声を合わせて、僕達は食事、食材、その他諸々に感謝の言葉を述べる。今晩のおかずは肉じゃがだった。じゃがいもを一口食べると、味がしっかりと染み込んでいてとても美味しい。次に味噌汁に口をつける。具は、あれ? こちらもじゃがいもだった。見ると、小鉢にはポテトサラダ。じゃがいも多すぎない?
「あ、バレちゃいました? 今日、じゃがいもがすっごく安かったんです。それでちょっと買いすぎまして、えへへ」
そう言って笑いながら、白雪さんは顔をほころばせて肉じゃがをぱくぱくと食べていった。女の子が美味しそうにご飯を食べてるところを見ていると、なんだか嬉しい。たくさん食べる女子は最高だ。ダイエット? 若い子がそんなの気にすることはない。どんどん食べて、どんどん大きく育てばいい。
「どうしたんですか響さん? なんか嬉しそう」
「嬉しそうなんじゃなくて、嬉しいんだよ。今まで僕は、ずっと一人きりで食事を取ってきたからね。だからこうして白雪さんと一緒にご飯を食べられて、本当に幸せなんだ。それに、白雪さんが作ってくれる食事はいつも美味しい」
「本当ですか! そう言ってもらえると私も作り甲斐があります。それに私も、響さんと一緒にご飯が食べられてすごく嬉しいです」
白雪さんは幸せそうに頬を緩ませる。やっぱり彼女の笑顔は素敵だ。僕の心の癒やし。毎日荒んだ職場で働いているから余計にそう思う。あの皆川さんからは休憩室で顔を合わすたびにものすごく怖い目で睨まれるしな!
「ちなみに白雪さん、ネームの調子はどう? いい感じで描けてる?」
「あ、はい。実はもうほとんど描き終わりまして。ご飯が終わって少し休んだら、ネームを見てもらっていいですか?」
「もちろん、ぜひ見させてもらうよ」
「も、もしかしたら、怒られるかもしれないですが……」
言って、急に小さく縮こまる白雪さん。
その理由はこの後すぐに分かった。
* * *
「こ、これ、僕!!?」
ネームを見てビックリした。鉛筆でさらさらと描いただけとはいえ、そこにいたキャラクターが僕にそっくりなのだ。僕だけではない、そこには白雪さんもいた。
「は、はい……響さんに怒られちゃうかもとは思ったんですけど、キャラのモデルにさせてもらっちゃいました」
「も、モデル? いやいや、怒りはしないけど……」
ちょっとビックリした。よく特徴を捉えている。僕の骨格、眉の具合、目の形、それに頬にあるホクロまで。『特徴のないところが特徴』と言われてきた無個性な僕の顔を、まさかここまで忠実に再現してしまうとは。
ただ、ひとつ。どうしても気になるところがあった。
「ねえ白雪さん。それにしても僕のことカッコ良く描きすぎじゃない? 僕ってこんなに美形じゃないし。これじゃまるで王子様だよ」
「そ、それは、ほら! 少女漫画ですから。やっぱりヒロインが恋する相手はカッコ良く描かないと、読者さんにウケませんし」
「まあ、それもそうか。うん、とりあえず読ませてもらうね」
「はい! お、お願いします!」
白雪さんのネームをペラペラと捲る。全部で32ページ。この前よりもページ数が増えている。今までは16ページだったのに。
「あれ? これって」
「あ、気付きました? 私が響さんと出会ってからの出来事を漫画にしてみました」
僕はネームを読み進める。一人の漫画家を目指す主人公の女子高生が、ファミレスで偶然、元漫画編集者の男性と出会うところから物語は始まる。おお、小林もいる。似てるなあ、ふてぶてしいところとかそっくりだよ。
押しかける形で、女子高生は元編集者――男性主人公の家で漫画を教えてもらうことになる。そして一緒に買物に行ったり、一緒にご飯を食べたり、取材という名のデートをしたりする。そして次第に、女子高生は男性主人公の優しさに惹かれて恋に落ちる。いわゆる年の差恋愛漫画だ。
「よ、読んでてちょっと恥ずかしくなるんですけど」
「わ、私も描いてて顔がポッポしてきました。で、でも! こ、これはあくまで漫画で、私の妄想ですから! フィクションです!」
「それは分かってるけど」
「……分かってないですよ」
小さく、白雪さんが何かを呟いた。
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何も」
再び、僕は読み進める。白雪さん渾身のネームを。
そして驚いた。白雪さんの中で、一体何があったんだ。
そのネームは今までのものとは全く違った。まるで、別人が描いたように感じる程。
キャラクターの感情が僕の中に流れ込んでくる。
漫画家は時として、何かをキッカケにして急激に伸びることがある。そのほとんどが、精神。それが起因する。元々、白雪さんは吸収力が高く、伸びる要素はたくさんあった。だけれど、ここまでの急激な伸び方は今までなかった。
彼女の中で、何かが『変化』したんだ。
「ど、どうでしょうか……」
不安げな表情を見せるものだから、安心させよう。そして、僕が感じたことを全て伝えよう。また、何かしらの『変化』が起こるかもしれない。
「すごい」
「え? す、すごい?」
「うん、すごいよ。今までのネームとはまるで違う。まるでキャラクターが意思を持っているみたいだ。自然と引き込まれる。あと、僕の中にキャラクターの感情が流れてきて、伝わってくる。その感情の細かな部分まで。ここまで変わるには何かキッカケがあったはず。思い当たる節はある?」
この時、本当は気付いていた。だけれど、彼女の言葉でそれを聞きたかった。
「えへへ、ありがとうございます。褒められ慣れてないから、なんだかくすぐったいですね。キッカケははっきりしています。響さんと一緒に行った取材です」
やっぱりそうか。それがキッカケだったか。でも取材という名のあのデート。あれだけでここまで変わるか? 他にも何かあったはずだ。でも、今はそれを訊くのはやめておこう。僕が彼女の伸びしろを壊しかねない。
「そっか、取材か。うん、まだ読み進めているけど内容も面白いよ。感情が揺さぶられる感じがするよ。作品から魂を感じるんだ。……ん? あれ?」
ネームが途中で終わっていた。32ページ中、28ページ目のところで。それ以降はまだ真っ白。つまり、最後の4ページが存在しないのだ。
「どういうこと、白雪さん? ラスト目前のところで終わっちゃってるけど」
「そ、それはですね。ラストで悩んでいるんです。二パターン用意してあるんですけど、どちらを選ぶべきなのか、まだ悩んでいて」
「二パターン? どんなラストを考えているの?」
「幸せな結末と、悲しい結末です」
悲しい結末、か。少女漫画ではあまりウケが良くないんだよな。でも、今まで見せてもらった白雪さんのネームは、全てハッピーエンドだった。なのに、何故だ?
「僕は幸せな結末をお勧めするよ。やっぱり漫画はハッピーエンドじゃないと。確かに悲しい結末で読者さんの気持ちをごっそり持っていって余韻に浸させるのも手法のひとつかもしれない。でも、白雪さん。いや、風花うららの作風はそれじゃない」
「……考えます」
どうしたのだろう。白雪さんに先程までの元気がない。小さな絶望すら感じるほどに。確かに、どういうラストに持っていくか悩む気持ちはよく分かる。今まで担当してきた漫画家もラストを決める時にうんうん唸っていたし。
悩んでいるから元気がないのかな。
「ど、どうですかね響さん。ラストは追々考えるとして」
「ラストがカチッと決まっていないんじゃ、なんとも言えない。でも」
僕はネームの束を白雪さんに返す。そして彼女を安心させるために、自信を持たせるために、僕なりの笑顔を彼女に贈った。
「いいんじゃないかな、このネーム。ラストはまだ読んでいないけど、そこまでは最高だったよ。この原稿、大切に描いてあげてね」
「え!? そ、それじゃ」
「うん、とりあえずはネームオーケー。ラストが決まっていないのはちょっと気がかりだけど、原稿に取り掛かってください、風花先生」
白雪さんは目を大きく開き、それから顔いっぱいに宝石を散りばめて喜びを表現した。今まで見てきた彼女の笑顔の中で一番、輝いた笑顔だった。
「やったーー!!!! 響さんからネームのオーケーもらえましたーー!! ありがとうございます響さん! 全部響さんのおかげです!」
言って、白雪さんはぴょんぴょん飛び跳ねて喜びを爆発させた。ここまで長かったもんね。白雪さん、本当に頑張ってたもんね。君のその努力を知っているから、僕も本当に嬉しいよ。担当編集冥利につきる瞬間だ。
「この漫画、完成したらちゃんと出版社か編プロに持ち込みに行くんだよ? チャンスを掴むんだ、白雪さん。せめて担当がついてくれれば、叶うかもしれない」
「か、叶うって、何がですか」
「プロの漫画家だよ」
ぺたん、と白雪さんは床に膝をついた。そしてポーッとした笑顔を浮かべて、天井を見上げて、すっかり夢の世界に行ってしまたようだ。頭の上でたくさんの花がポンポン咲いていくのが目に見えるようだった。
「漫画家、プロの漫画家かあ。えへへへへ」
『第23話 白雪さんは夢を見る』
終わり