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第17話 白雪さんと買い物【3】

 スーパーを出ると、秋空が茜色に染まり始めていた。

 僕と白雪さんの目の前を赤とんぼが飛ぶ。漫画編集を辞めてからだろうか、僕はあまり周りの景色だったり四季だったり、そういったものを意識しなくなった。いや、しなくなったと言うよりも、出来なくなった。それだけ、心に余裕がなくなってしまっていたのだろう。

 だけども、何故だろう。今日はやけに感じる。今が秋であることを。

「小林さんって面白い人ですね」

「そうだね、ウザいとも言えるんだけどね」

 僕が両手に食材の入ったスーバーのビニール袋を持ち、その隣を白雪さんが歩く。彼女の歩幅は小さい。僕はそれに合わせて少しだけゆっくりと歩く。

 今まで、僕はこの道を一人きりで歩いてきた。でも、今は違う。それをとても嬉しく感じながら、そして白雪さんが僕の日常に溶け込んでいくことを感じながら、アパートに向かって伸びる道を真っ直ぐに歩いていく。

「響さん、私も荷物ひとつ持ちますよ」

「いいよ、重いから。まあ、荷物持ちなら任せておいてよ。毎日仕事でもっと重い物を持ったり運んだりしてるからさ。これくらいはなんてことないんだ」

「うーん、でもそれじゃなんか悪いなあ」

 そう言うと、白雪さんは僕が左手に持つ袋の持ち手の片方を、その小さな手で掴んだ。そして僕に笑顔を投げかける。彼女が夕日でオレンジ色に染まって見えた。

「じゃあ半分こ。一緒に持ちましょう」

「そっか。うん、じゃあお願いするよ」

 ひとつの荷物の重みを二人で分け合いながら、僕達は歩く。こういうなんでもない日常が、僕にはとても新鮮だった。今までのささくれた生活の中にはなかった、潤い。それを肌で感じていた。

「でもビックリしました。私達って、他の人からすると新婚さんだったりカップルに見えるんですね」

「そうだね、僕も意外だったよ。こんなオジサンとカップルに間違われて、白雪さんは迷惑だろうけど」

「そんなことないですよ。私、これでも結構嬉しかったりするんです」

 それを聞いて、僕は少し気恥ずかしくなる。今まで女性と付き合ったことがない僕にとって、白雪さんの言葉は僕の胸に温かく染み渡った。

「ところで響さん。明日は日曜日で、しかもお天気がいいそうですよ?」

「そうなんだ。白雪さんどこか出かけたい所でもあるの?」

「もーう、忘れちゃったんですか? 取材ですよ、取材。秋晴れの公園を一緒に歩くって、デートの取材としては打って付けだと思うんです」

 取材、か。なんだか、ちょっと寂しいな。生まれて初めてのデートが取材という形になるなんて。最初に言われた時はそんなこと微塵も感じなかったのに。

「そうだなあ、じゃあ明日決行しようか」

「そうですね、明日決行しましょう」

 あのファミリーレストランで白雪さんに偶然出会わなかったら、僕達の今も、そして明日も存在しなかった。そう考えると、少し運命めいたものを感じてしまう。これでも僕は、運命だとか縁だとか、そういうものを大事にしてきた。白雪さんとの出会いは、ある意味、運命だったのかもしれない。

「じゃあ明日の取材が終わったら、またネームを作ってみようか。取材の成果を生かしてもう一度描いてみよう。きっと、良いネームが作れると思うよ」

「そうですね、頑張ります。ちなみに響さん、私のネームの切り方でまだ直した方がいいところとかありますか? 遠慮なくどんどん言ってください」

「鞭ばかりでごめんね。本当はさ、白雪さんのネーム、コマ割りだとかはだいぶ良くなってきてるんだ。本当に飲み込みが早いよ。どんどん上手くなっていく」

 白雪さんは恥ずかしそうに、でも、とても嬉しそうにして頬を朱に染めた。考えてみたら、僕が白雪さんを褒めたのはこれが初めてだったかもしれない。

「褒められ慣れてないから、なんかくすぐったいですね」

「大丈夫、これから色んな人にたくさん褒めてもらえるから。今の内に褒められ慣れておきなさい、白雪麗先生」

「先生って。あ、響さん、ちょうど良かった。私、ペンネームを考えなきゃって思ってたんです。白雪麗じゃなくて、漫画家としてもうひとつ名前が欲しいんです」

 ペンネームか。まあ、女子高生が本名で活動するのは確かに色々危険かもしれないな。プロになるならないは別として、ちょっと変わった人がファンになったりした時、人物を特定するために色々調べてきたりするかもしれないし。

 でも僕は、それに関して若干気になることがあった。

「でもさ、白雪さんが漫画を描く理由って、お母さんに読んで気付いてもらうためでしょ? ペンネームにしちゃって、お母さん気付いてくれるかな?」

「あ、それは大丈夫だと思います。お母さん、私の絵柄をよく知ってますし。漫画を読んでくれたらそれだけで気付いてくれると思います」

 そう自信満々に言う白雪さんだったけど、そんなものかな。絵柄が似ているな、くらいにしか思ってもらえなかったら意味がないわけだし。

「大丈夫です。お母さんはきっと気付いてくれます」

 どうしてそこまで言い切れるんだろう。でも、今の白雪さんは真っ直ぐ伸びる道の先をしっかりと見つめていた。道の先――未来を。その目を見ていたら、不思議と僕も彼女の言葉を信じようと思えたのだ。

「じゃあ考えなきゃね、ペンネーム」

「それでですね、実は響さんにお願いがありまして」

「僕にお願い? うん、なんでも言って」

「あの、響さんがペンネームを付けてくれませんか?」

「ペンネームを、僕が?」

「はい、ぜひお願いしたいんです」

 漫画家にとって、ペンネームはとても大切なものだ。ブランドになるのだから。それを僕が決めていいのだろうか。産まれた子供に名前をつけるようなものだし。それに、僕が考えたペンネームを、果たして彼女は気に入ってくれるのだろうか。

「いいんです、響さんがつけてくれるのならなんでも。なんだったら『響うらら』にしちゃいます?」

「それじゃ僕と結婚したみたいになっちゃうじゃん」

「あはは、それはそうですね」

 言って、白雪さんは楽しそうに笑っている。けれど、僕は僕なりに悩んでしまう。通常、ペンネームは作家さん自身が付けるものだ。新人作家さんを発掘してスカウトする時も、皆んなすでにペンネームを持っていたから僕にとっても未経験なのだ。

「ペンネーム、ねえ」

 僕は真剣に、そして真面目に考える。彼女が描くのは少女漫画だから、女性の名前でも問題ないんだよな。少年誌だったら性別を分からなくするために、わざと男性っぽいものにすることもあるけれど。

『白雪』という苗字にかけたものにできないかな。すごく綺麗な名前だと思うんだ、『白雪』って。白雪、つまりは雪か。雪を連想できるペンネームにしたい。

 そういえば確か、あの言葉って雪のことだったな。それに白雪さんの性格って、まさに『晴天』って感じだし。晴天に舞い散る雪、か。

「風花《かざはな》……」

「え? 風花、ですか?」

「うん、僕なりに考えてみた。風花。『風花うらら』っていうのはどうかなと思って。うららは平仮名で」

 白雪さんには言わないけれど、意図的に『うらら』は残しておいた。お母さんがより娘が描いた作品だと気付いてくれるように。

「風花って初めて聞きました。どういう意味ですか?」

「晴天に舞い散る雪、だったかな。それを『風花』って言うんだ。僕にとって、白雪さんはそんな存在だったりするからさ。いつも明るい性格で、天気でいうと晴天って感じで。それに僕としては雪のイメージは外したくなくて。だから風花。どう?」

「風花、風花――」

 そう、白雪さんは何度も繰り返し呟いた。

「それにさ、綺麗な名前だし、なんか可愛らしいし。可愛い白雪さんにピッタリなんじゃないかなって」

「ちょ、ちょっと響さん! わ、私って可愛くなんかありませんから!」

「いいや? 僕が知る女の子の中で三本の指に入る可愛さだけど?」

「残り二本が気になりますけど……。風花、風花うらら」

 白雪さんは確認するように、再度『風花』と繰り返し呟く。そして「うん」と一人頷き、僕の目を真っ直ぐに見つめた。あまりにキラキラと綺麗なその瞳に、僕はつい見惚れてしまった。

「響さん! 私、今日から風花うららになります!」

「本当にいいの? そんなに急いで決める必要もないし、もう少し考えてみたらどうかな? それに嫌だったら言っていいんだよ? そしたら別のを考えるから」

「いいんです! 風花うらら、すっごく気に入りました! それに響さんが考えてくれた名前ですから。私、嬉しいんです!」

「そっか。気に入ってもらえて良かったよ。じゃあ家に帰ったらサイン考えなきゃいけないね、風花うらら先生」

「先生はくすぐったいですよ。あ、普段はちゃんと白雪って呼んでくださいね」

「はい、分かりましたよ。風花先生」

「もーう、全然分かってないじゃないですかー」

 僕と白雪さんは荷物の重みと、そして色んなものを共有しながら家路につく。その間、白雪さん嬉しそうに「かっざはなー、かっざはなー」と、鼻歌のように何度も繰り返し声にした。

 彼女の歩幅が、ちょっとだけ大きくなったような気がした。


 『第17話 白雪さんと買い物【3】』
 第一章 章末

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