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第9話 戻れない理由

 ヤバい。何がヤバいかというと、体がヤバい。皆川さんからお食事を誘ってもらったことで張り切りすぎて、いつもの二倍は頑張ってしまった。人間、やっぱり無理は絶対にしてはいけない。

「は、早く……早く家に帰りたい。か、カレーを早く食べたい……」

 そう、今日は白雪さんお手製のカレーが待っているんだ。でも、一歩一歩進むごとに体力ゲージが削られていく。果たして家まで辿り着けるのだろうか。

「張り切りすぎた……浮足立ちすぎた……」

 仕事の作業中は平気だったんだ。だけど定時の作業終了チャイムを聞いたところでそれまでの疲れが一気に僕の体を支配した。なんでそこまで張り切りすぎたのかって? 理由は単純。そして明白。僕は今まで女性とデートなどをしたことがない。学生時代も女っ気は全くなし。そりゃ張り切るでしょ、人生初デートなんだから。

 ……二十七才で初デートか。よくよく考えてみたらヤバいな。大丈夫だろうか、ちゃんと皆川さんをエスコートできるのだろうか。

 そういえば、デートするお店ってどうやって決めればいいのだろう。皆んなはどうやってお店選びをしているんだろう。今度小林に聞いて……いや、無理だな。あいつも僕と同じく女っ気のない人生だし。聞くだけ無駄か。

 と、そのとき。僕のスマートフォンの着信音が夜の静寂の中、遠慮気味の音量で鳴った。画面には「瀬谷(せや)みなみ」と表示されていた。久しぶりだな、瀬谷ちゃんか。

「もしもし、瀬谷ちゃん?」

 もう住宅街の中に入ってしまったので、僕は若干声のトーンを抑えつつ電話に出る。相変わらずの、飴玉みたいなロリロリボイスが聴こえてきた。

『久しぶりやんね、響っち。元気しとるー?』

 元気な関西弁が、秋の乾いた空気と混ざり合う。

 瀬谷ちゃんと僕は、同じ編集部で切磋琢磨していた仲間なのだ。年は二十代半ばなのだが、声だけでなく見た目も幼い、年齢不詳の女の子。

 ちなみに瀬谷ちゃんは腐女子だと先に伝えておこう。ガチの腐女子。腐女子の中の腐女子。僕が在籍していた編プロはいわゆるBL系の漫画編集も行っていた。主にそれらのジャンルの編集を担当していた。

 電話で作家さんと打ち合わせをしていた時の瀬谷ちゃんの顔は今でも忘れない。熱意に溢れ、喧嘩のような物言いで意見を叩き合わせ、一切の妥協を許さない。それが瀬谷みなみという一人の女の子だ。

「うーん、元気かと問われれば微妙だけど、なんとか仕事頑張ってるよ。でも珍しいね、瀬谷ちゃんから電話くれるなんて。なんかあった?」

『そやねん、なんかあったねん。実はウチな、編集部辞めることになってん』

「え!? 瀬谷ちゃん辞めちゃうの!? どうして? あの会社、居心地だけはいいじゃん。瀬谷ちゃんも働きやすそうにしてたじゃん」

『うん、そうなんやけどな。でもウチ、こっそり転職活動しててん。それで版元から内定をもらったんよ」

「は、版元!?」

 版元というのは、端的に言うと出版社のことだ。つまり、編プロはあくまで版元――出版社の下請けということになる。例外はあるにしても。

『そやねん、駄目元で応募したんやけどな、受かってもうて。今の所も居心地はいいかもしれへんけど、ほら、給料は安いんやんか?』

 確かに、僕や瀬谷ちゃんがいた編プロは薄給だった。だけど、それでも働く環境はしっかりと整っていて離職率も非常に低い職場だった。だから僕は、瀬谷ちゃんはずっとあの会社で働くものだと思っていた。なのでビックリである。

「内定をもらったって、ちなみにどこ?」

『それがな、暁書館なんや』

「あ、暁書館!!? 超大手じゃん!!」

 暁書館。少女漫画を主軸にしている出版社。はっきり言って超大手。そして名門。ヒット作をバンバン生み出している。そこに瀬谷ちゃんが転職だって? 一体何が起きた。枕か。枕営業でもしたのか瀬谷ちゃん。

『枕なんてしてへんわ! 失礼やなあ響っち。なんていうか、ウチの実力? まあ手持ちの作家さんも結構多かったしな。即戦力として見てくれたみたいなんや』

「そっかあ、おめでとう瀬谷ちゃん。もしかしたら人生が一変するかもね」

『大げさやなあ、響っち。でも、ありがとう。ウチ頑張るわ』

 瀬谷ちゃん、頑張ってるな。

 それに比べて、僕はどうだ。編プロを辞めてから、人生ダメな方向へ突っ走っている気がする。本当に、駄目な方向へ。早く軌道修正しなければ。皆川さんとのデートに浮かれている場合ではない。

『……なあ、響っち』

 少しだけ、瀬谷ちゃんの声のトーンが沈んだ。

『響っちはもう戻らへんの? 漫画編集に』

 その一言が、僕の気分を重くさせた。そう、瀬谷ちゃんは知っている。僕が編プロを、漫画編集を辞めた理由を。

「……戻らない」

『なんでや? まだ《《あのこと》》を気にしてるんか? あれは別に響っちが悪いわけやないやん? 気にすることなんかあらへんて』

「それじゃ駄目なんだよ。僕なりのケジメだから」

『じゃあ、もうケジメはしっかりつけたやん? 漫画編集、今でも好きなんやろ? 戻りいや、戻って来ぃや、またこの業界に』

「もう、戻れないよ。ごめん瀬谷ちゃん、電話切るね」

『あ、ちょ、響っち? まだ電話切らんとい――』

 僕は無視して通話終了のボタンを押した。瀬谷ちゃんの言葉が耳に残る。

 今でも漫画編集が好きかって? 当たり前だ。僕にとっての天職だったんだ。

 でも駄目なんだよ、好きなだけじゃ駄目なんだ。

 好きだからこそ。漫画編集が好きだからこそ。
 僕はもう、業界に戻ることはしないんだよ。

 *   *   *

「あ、響さん! お帰りなさい!」

「え!? 白雪さん!? こんなに肌寒いのに玄関の前で……て、そうか鍵か! ごめん、鍵のことすっかり忘れてた」

 アパートに帰ると、玄関の前でしゃがみ込む人影が見えた時はちょっと驚いた。白雪さんだったわけだけれど。よくよく考えると、気遣い出来ていなかった。白雪さんに鍵を渡すのをすっかり忘れていた。申し訳ないことをしてしまった。

 なのに白雪さんは嫌な顔などひとつせず、文句も言わず、とびきりの笑顔で出迎えてくれた。大きな鍋を両手に持って。

 さすがに罪悪感を覚えてしまう。こんなにも肌寒い秋の夜に、女の子を長い間待たせてしまうなんて。僕はなんてダメなやつなんだ。

 ちなみに今日の白雪さんは制服姿ではなく、スキニーデニムのパンツにマウンテンパーカーという今どき女子の私服姿だった。私服姿もやっぱり可愛い。

「ごめん、白雪さん。昨日はいつの間にか寝ちゃって、鍵のことを話すのすっかり忘れてた。だいぶ待たせちゃったでしょ?」

「いえいえ大丈夫です。あ、カレー。先に家で作っておきましたよ。お仕事が終わってお腹空いてるだろうからすぐに食べられるようにと思って。お米は炊飯器のお急ぎですぐに炊きますから。……て、響さん? なんか元気ないように見えますけど、何かありました?」

 白雪さん、結構鋭いな。瀬谷ちゃんの話を聞いていたら、昔のことを思い出して少しダウナー的になってしまっていた。

「いや、大丈夫。仕事でちょっと疲れただけだから」

「……だったらいいんですけど。もし何か悩み事があったらなんでも相談してくださいね? 誰かに話すだけでも楽になりますから」

 心の底から心配そうに、僕にそう言葉をかけてくれた。女子高生に心配かけてしまうなんて、最低な男だな。でも駄目だ、完全に気分が沈んでいる。

「……カレー、嬉しくないですか?」

「ううん、そうじゃないんだ。大丈夫」

「もしかして私、来ないほうが良かったですか? 迷惑かけちゃってますか?」

 言って白雪さんは申し訳なさそうに、しょぼんと俯いてしまった。そんなことはない。今の僕には、君のような存在はとてもありがたいんだ。こんなダメな自分を必要としてくれる人がいる。それが、僕には嬉しくて仕方がないんだ。

 でも、それを言葉にするがちょっと恥ずかしくて。だから僕はリュックのポケットを開けて、中からスペアの鍵を取り出し、それを彼女に手渡す。

「これ、家の合鍵。受け取ってもらえるかな」

 しょぼんとしていた白雪さんはそれを見て嬉しそうに、顔いっぱいに花を咲かせた。その笑顔を見ていると、不思議と元気が戻ってきた。

「合鍵、すごく嬉しいです! でもいいんですか? 私が預かっちゃって」

「いいんだよ、料理とか色々やってもらうんだから。だから受け取って。それはそうと、白雪さんの顔を見たらお腹空いてきちゃったよ。早く中に入ろう」

「ありがとうございます! では合鍵、お借りします! あ、すぐに晩ご飯の用意しますからね。私のカレー、すっごく美味しいんですよ。自信作です。美味しすぎて、食べたらすぐに元気になっちゃいますよー、なんてね。えへっ」


 『第9話 戻れない理由』
 終わり

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