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第8話 白雪さんの気遣い

「……あれ、白雪さん?」

 どうやら僕は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝ぼけ眼で周りを見渡しても白雪さんの姿はなかった。掛け時計で時間を確認する。夜中の四時半を回ったところだった。きっと、終電に間に合うように帰っていったのだろう。

「毛布……」

 たぶん白雪さんだろう、テーブルに突っ伏して寝ていた僕に毛布が掛けられていた。エアコンは稼働しているとはいえ、秋の夜中はやはり冷える。白雪さんの心遣いに感謝しなければいけない。

「寝落ちする前に、白雪さんのラフについてなんて言ったんだっけ」

 僕は記憶を手繰り寄せ、そして朧げながら少しずつ思い出す。記憶のかけらを集めるようにして。

 確か食事をとった後、すぐに白雪さんのネームを読ませてもらったんだった。先日僕が教えたことを参考にしてネームを切ったらしいけれど、でも、それでもまだまだ粗が目立ったと記憶している。

 やはり彼女の一番の問題点はコマ割りについてだった。一応、どのようにすれば良いのか説明はしたんだけれど、一体どこまで理解できたのか若干の不安が残る。今度、資料としてコマ割りの上手な作家さんの作品を手渡そう。もちろん僕も補足的に言葉で説明はする。だけど彼女にとっては実際に読んで理解する方が早いかも。白雪さんはそういうタイプの作家さんなのかもしれない。

「とりあえず、何か冷たいものでも飲もう」

 しょぼしょぼする目を擦りながら台所へと向かう。半分、まどろみの中。するとダイニングテーブルの上に何か置かれているのが目に入った。

 ふんわりとした卵焼きとハムエッグ、それと置き手紙だった。ピンク色の便箋に、可愛らしい文字で書かれた僕への置き手紙。便箋の端っこには、愛らしいウサギのイラストが添えられていた。僕はそれを手に取った。

『今日はお疲れの中、無理を言ってすみませんでした。でも、色々教えてもらえて本当に嬉しかったです。簡単ですが朝ご飯を作っておきました。お米は朝六時に炊けるように、炊飯器をセットしてあります。良かったら食べてください。それと、家の鍵はドアポストの中に入れておきますね』

 そして、ウサギのイラストはフキダシの中で僕にエールを送ってくれていた。

『明日もお仕事頑張ってね!』

 ほっこりと、僕の心が温かくなる。そして卵焼きをひとつ手でつまみ、それを口の中でゆっくりと咀嚼した。

 甘くて優しい、家庭的な味がした。

 *   *   *

 死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ!!!!

 まだ午前中が終わったばかりだというのに、僕の体力ゲージはすでに底をつきかけていた。倉庫内作業。それが今の僕の仕事だ。倉庫に横付けされた大型トラックの中、午前中はずっと重いダンボールを運び込む作業をしていたのだ。

 華奢な体に鞭打ってなんとかこなしたものの、もう瀕死。疲労困憊。なので昼休みに入るや否や、体を引きずるようにして真っ直ぐ休憩所に向かった。そして現在、少しでも体力を回復させるためにテーブルに突っ伏している。

「もう駄目だ……女神様、救いの女神様はどこだ……」

 そう、独りごちる。分かってるよ、そんな人に出逢うことなんかないってことは。でも夢くらい見たっていいだろ、こんなに頑張ってるんだから。とにかくお給料。お給料をもらわなければ。じゃないと生活ができない。だから上司に命じられた通りに働いているんだ。生活苦だけはごめんだ。

「転職、転職……早く転職しないと本当に死んじゃう……」

 一度席から立ち上がり、ふらふらしながら自動販売機に向かった。小銭を投入し、500ミリのスポーツドリンクを購入。それを一気飲みした。でも全然足りん! 二本目、三本目と連続で購入し、これまた連続で一気に飲み干した。よし、なんとか水分の補給はできた。なんとか午後も耐えてやる!

「あ、響くん。お疲れさまー」

 自販機の前で死んだ顔をして突っ立っていると、シルクのような柔らかな優しい声が僕を呼んだ。そして振り向く。神様はまだ僕を見捨ててはいないようだ。

皆川(みながわ)さん……」

 皆川優子(みながわゆうこ)さん。この職場における、僕の唯一の癒やしの存在。いや、癒やしを通り越してもう女神。だってめちゃくちゃ可愛いし優しいんだもん。

 大学を卒業したばかりの二十三歳。今日も緩くウエーブがかった髪がとても美しい。顔も本当に可愛い。童顔で超好み。それでいて大人の色気はムンムン。恐らく一般女性の1.5倍のフェロモンを放出しているはず。魅力が溢れに溢れている。

「男性は本当に大変だね、力仕事に回されちゃって。響くん、体大丈夫? そんなに体力ある方じゃないでしょ、華奢だし」

「あはは、大丈夫大丈夫! なんていうか、余裕って感じ? 華奢に見えるかもしれないけど結構筋肉はあるんだよ? だから力仕事どんと来いって感じだよ」

「うふふ、そうなんだ。それにしてはさっき目が死んだけどね」

 う、バレてる。皆川さんの前ではカッコ悪いところを見せたくないのに。

 皆川さんとは同期なのだ。派遣の登録説明会で一緒になり、そこで喋って以来、少しずつ仲良くなっていった。なので、こうして休憩中にたまに会話をしたりしている。皆川さんは女性なので僕のような力仕事ではなく、違う部署でダンボールに商品を詰めるピッキングなどの軽作業をしている。僕もそっちに行きたいよ。

「ねえ響くん、もうすぐお給料日だね」

 皆川さんは、エンジェルと見紛うほどの太陽スマイルを僕に向ける。ああ、僕は今、とても幸せだ。こうして今日も皆川さんと会話をすることができた。もう、それだけで幸せだ。それほどまでに、僕の心は荒んでいるのだ。

「お給料出たら、一緒にお食事でも行きませんか?」

 一緒にお食事か。そういえば白雪さんが、今日はカレーにしてくれるって言ってたっけ。楽しみだなあ。でもそうかあ、皆川さんと一緒にお食事かあ。

 ……ん? 一緒にお食事?

「み、み、皆川さん? 今なんて……」

 あまりに突然のことに、僕は動揺しまくった。なんだって? 聞き間違いじゃなければ、皆川天使様が今、僕を食事に誘ってくれたような。

「うふふ、やだなあ、ボーッとしないでよ。じゃあもう一回言うよ? お給料出たら一緒にお食事でも行こうよ。たまにはお互いリフレッシュしなきゃ。それともあれかな? 私と一緒じゃ嫌? もしかして響くんって彼女いるの?」

「い、い、い、いません!! 彼女なんているわけないじゃないですか!!」

「それじゃお食事のお誘い、オッケーしてくれる?」

「も、もちろんです! オッケー! オールオッケー!」

 なんということだ。信じられないことが起こってしまった。この職場内で隠れファンも多い皆川さんから食事に誘ってもらえるだなんて。驚天動地だ。

「それじゃ決まりね。あ、私が誘ったことは他の皆んなには内緒にしててね。変に噂されると恥ずかしいから」

「い、言いません! どんなことがあろうとも他言にしません! 自慢したいのはやまやまだけど、この心の中にとどめておきます!」

「うふふっ、響くんって面白いよね。あ、それじゃ私、他の皆んなと一緒にお昼食べる約束してるから行くね。また今度ゆっくり話そう」

 そう言い残し、皆川さんは笑顔を残して去っていった。コロンの香りだろうか。皆川さんがくるりと背中を向けたときに、ふわりと甘い匂いがした。

 一人になってから、皆川さんの言葉を頭の中で冷静に整理する。もしかしてこれ、デートというやつじゃないのか? 

 響政宗、二十七才。ついに今、僕にも遅い春が訪れようとしている。そうだ、そうに違いない。僕にとって人生初のデートだ、ニヤケ顔が止まらない。

「よっしゃー! 午後も全力で仕事頑張るぞー!」

 我ながらに思う。僕って本当に単純だよなあって。でも仕方がないじゃないか、皆川さんに誘われて喜ぶなと言う方が無理。

 待ち遠しいぜ、次の給料日が!


 『第8話 気遣いの白雪さん』
 終わり

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