三日目③ 敵か味方か
「たあぁぁぁろぉぉぉお?」
「ひぃっ!? ちょ、姉ちゃん、苦しいッ! ギブッ! ギブだって……っ!」
昼休みに見せられた空き教室での光景と、昼休み明けから何故か大人しくなってしまったタロのせいで忘れていたが。
そう言えば妃奈子に遊園地のフリーパス券を渡して来るようにと、樹に命じられていたんだった。
まあ、それを思い出したのは、残念ながらちょっと遅かったのだが。
「あんた、これ、一体どう言うつもりぃ?」
「ごだッ! ごめんっ! いだいっ、ねぇちゃ……ッ!」
首と肋骨がギチギチと悲鳴を上げる。
背後から締め上げられているために顔はよく見えないが、耳元で唸る樹の低音ボイスから察するに、物凄い怒りの形相で睨み付けられているのだろう。
樹にコブラツイストを掛けられ、胴体を折られ掛けている太郎は、涙ながらに悲鳴を上げた。
「あんた、私の好意無駄にするつもりぃ!?」
「ぎゃああああああああッッ!」
今、テーブルの上に置かれているのは、妃奈子に渡せなかったばかりか、グッチャグチャに握り潰された遊園地のフリーパス券。
よくよく見れば、ところどころ切れている。
「か、帰ったら! 帰ったら渡そうと思っていたんだよッ!」
「じゃあ、何でチケットがこんなにグチャグチャになっているのかなあ!?」
「いだいいだいいだいだい……ッ!」
放課後、帰宅した太郎を訪ねて来た樹。
「妃奈子ちゃんにフリーパス渡してくれた?」と尋ねる樹に、太郎は「あ、忘れていた」と返した。
まあ、そこまでは樹も想定の範囲内であった。
太郎の事だ。どうせ何だかんだ言い訳付けて渡せていないんだろうな、とは思っていた。
だから例えチケットを渡せていなくとも、ここまで怒るつもりはなかった。
しかし、忘れていた、と太郎が取り出したのは、グッチャグチャに握りつぶされた、フリーパスのなれの果て。
確かにチケットを渡せなかっただけだったら、それは仕方がない。まだ許せる。
けれども出て来たのは、何故かグッチャグチャにされた自分の好意。
確かにその好意も太郎にとっては迷惑だったかもしれないが……。
でも、それを握り潰す必要、ある?
「い、一日中ポケットに入れていたら、分かんないうちにグチャグチャになっちゃったんですっ!」
「へぇ? それにしては明らかに手で握りつぶされた跡があるんだけど!?」
「いだだだだだだだだっ!!」
そしてそのチケットを見た瞬間、樹がキレて……冒頭に至ったのである。
「ごごごごごごめんなさいっ! 妃奈子ちゃんに渡すからッ! 絶対に渡すから! だから許してッ!」
とにかく謝らないと!
そして渡すと誓わないと!
じゃないと、今回ばかりは絶対に許してくれなさそうだ!
「……」
その言葉に疑わしそうな目を向けた樹であったが、彼女は溜め息を吐くと、ようやく太郎を解放してくれた。
「ふん、何よ。人の好意グッチャグチャにして……」
ようやく解放され、ゴホゴホと咳き込む太郎を尻目に、樹はグッチャグチャのフリーパスを悲しそうに手に取った。
「だいたい太郎ちゃんは勢いがないって言うか、ネガティブすぎって言うか……。少しは自分に自信を持ってあげたら良いのに……。ねぇ、そう思わない? タロちゃん?」
ブツブツと小言を呟きながら、樹はタロへと視線を移す。
「タロちゃん?」
しかしどうしたと言うのだろう。
視線の先ではタロが、部屋の隅で小さく三角座りをしていたのだ。
その上、タロの周りに浮かぶのは、これでもかと言う程のネガティブオーラ。
このオーラは……気のせいだろうか。
「ど、どうしたの、タロちゃん?」
「どうも……」
「何かあったの?」
「スランプです」
「???」
タロの頭上に『ずーん』と言う文字が浮かんで見えるのは、幻だろうか。
何があったのかは知らないが、一人で静かに落ち込んでいるタロは一先ず置いておく事にすると、樹は手の中にあるフリーパスの皺を、丁寧に伸ばし始めた。
「……」
そんな樹を、太郎は先程からじっと見つめていた。
彼の頭に浮かぶのは、昼休みのあの光景。
そして、土田のあの言葉……。
『でも、枯野会長は知っているんだろ?』
あの時、土田は確かにそう言っていた。
(樹姉ちゃんは知っていたんだろうか。土田と妃奈子ちゃんが付き合っている事……)
昼休みの会話から、妃奈子が土田と付き合っている可能性は高い。
そうでなくとも、何らかの秘密を共有しているハズだ。
だとしたら、土田のあの言葉は、『樹は二人の仲を知っている』と言う事ではないのだろうか。
しかしもしも二人が付き合っていて、樹がそれを知っているのであれば、何故樹はタロに協力しているのだろうか。
樹が二人の仲を知っているのであれば、彼女は、太郎と妃奈子を恋仲にする事は不可能であると知っているハズなのに。
それなのに何故、樹はタロに協力しているのだろうか?
それはただ単に、この状況を楽しんでいるからなのだろうか。
それとも土田と妃奈子の仲が気に入らないから、これを機に、二人を別れさせようとしているからなのだろうか。
(でも、もしかしたら二人が付き合っているって言うのは、僕の勘違いなのかもしれない。でも……)
しかしどちらにしろ、樹が何かを知っているのは間違いない。
それが『土田と妃奈子が付き合っている』と言う事実を知っているのか、『土田と妃奈子が共有している秘密』を知っているのかは分からないのだが。
「何よ、太郎ちゃん。人の顔じっと見て」
「えっ!?」
太郎のその視線に気が付いていたのだろう。
樹に訝しそうに名を呼ばれれば、太郎はハッとして我に返った。
「あ、えっと……」
「やっぱり渡せないーとか、情けない事言うんじゃないでしょうね?」
「えっ!? い、いや、そうじゃなくって……っ!」
まあ、渡せないと言うよりは、渡したくないと言うのが本音なのだが。
とにかく、訝しそうに睨んで来る樹の言葉を慌てて否定すると、太郎は言いにくそうにしながらも、思い切ってその疑問を口にした。
「あの……姉ちゃんはどうしてタロに協力するのかな、って思って……」
「は?」
樹にとっては、太郎の疑問は予想外のモノだったのだろう。
今更何を聞いているのかと、樹はそれこそ訝し気に眉を顰めた。
「何でって……だって、太郎ちゃんは妃奈子ちゃんが好きなんでしょ? だったら協力してあげたいって思うのは、当然じゃない? 私にとって、あなたは可愛い弟みたいなモノなんだし」
何でそんな事を今更疑問に思うんだ、とでも言いたげな樹のその表情。
けれどもその言葉は、果たして彼女の本心なのだろうか。
「あのさ、樹姉ちゃん……」
それを聞くには少し抵抗がある。
けれども確認せずにはいられない。
太郎はじっと樹を見つめ直すと、ストレートにその疑問を口にした。
「姉ちゃんさ、僕に何か隠し事していない?」
「隠し事?」
「妃奈子ちゃんについて、何か僕に隠している事ない?」
それは、本当に彼女が彼には言えない何かを隠しているせいか、それとも突然の太郎の疑問にただ驚いただけなのか。
ほんの一瞬だけ。樹は驚いたように目を泳がせた。
「何を言い出すの? そんな隠し事なんかしているわけないじゃない」
たった一瞬だった。だからほとんどの者は、樹が狼狽えた事にすら気が付かないだろう。
しかし太郎は違う。これでも樹とは、幼い頃からずっと一緒だった、長年の付き合いの仲なのだ。
樹が狼狽えた事くらい、嫌でもすぐに分かる。
そしてその一瞬だけでも十分だったのだ。
樹は嘘を吐いている。
その事実を見抜くのには……。
(何で姉ちゃんは嘘を吐くんだろう。やっぱり妃奈子ちゃんが土田と付き合っている事を知っているの? だから僕を傷付けないように、そうやって嘘を吐いてくれているの? だったらそうだっと言ってくれれば良いじゃないか。真実を教えてくれれば良いじゃないか。隠す事なんて、何もないのに)
呆れたように苦笑を浮かべる樹のその笑顔が、ツキンと心を痛める。
握り締める拳に更に力を入れると、太郎は視線を下へと落とした。
「太郎ちゃん? どうしたの?」
太郎のその様子に、いよいよ心配になったのだろう。
心配そうに顔を覗き込む樹に、太郎は静かに口を開いた。
「実は僕、聞いちゃったんだよ」
「何を?」
「昼休みに……」
しかし、太郎が見たモノ全てを話そうとした時だった。
ピンポンと、玄関の呼び鈴が家中に響いたのは。
「あ……」
どうやら誰かが訪ねて来たらしい。
いや、誰かではない。
おそらく訪ねて来たのは妃奈子だろう。
彼女はいつも(とは言っても、両親が出掛けてからだが)、晩御飯のおかずを持って訪ねて来てくれているのだから。
「妃奈子ちゃんじゃない? 太郎ちゃん?」
樹も同じ事を思ったのだろう。
彼女は妃奈子の訪問に気が付くと、太郎がグッチャグチャにしてしまった遊園地のフリーパス券を、グイッと太郎に押し付けた。
「はいこれ太郎ちゃん。頑張って渡して来てね」
「……」
「絶対に渡すって、約束したでしょ?」
「うん」
有無を言わせない樹の口調。そして懸命に皺の伸ばされたフリーパス。
樹を問い詰めるタイミングを完全に逃した太郎は、小さく溜め息を吐くと、仕方なくそのフリーパス券を受け取った。