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三日目④ ネガティブ、ネガティブ

 カチャリと音を立てて、玄関の扉を開く。

 扉を開いたその先にいたのは、予想通り、お裾分けが入っているだろう紙袋を持った、幼馴染の少女であった。

「こんばんは、太郎君」
「こ、こんばんは、妃奈子ちゃん……」
「はい、これ。今日の夕ご飯のお裾分け」
「あ、ありがとう……」

 はい、と渡された紙袋を受け取ると、中からほんのりと良い匂いが漂って来る。
 今日のおかずは何だろうか。

「……」

 妃奈子の訪問も、彼女の笑顔も、そしてこの気遣いの紙袋も、いつもは全部嬉しいハズなのに。

 それなのに何故だろう。
 今日に限って、こんなにも苦しく、切なく感じるのは。

(どうしよう……)

 それが妃奈子や樹が隠し事をしているせいなのか、妃奈子が土田と付き合っているせいなのか、はたまたフリーパスを渡さなきゃいけない緊張のせいなのかは分からない。

 でも……。

(このフリーパス、妃奈子ちゃんに渡したら迷惑じゃないのかな……)

 ずっしりと重い紙袋を見つめながら、太郎は不安に眉を寄せた。

(土田と付き合っているのに、幼馴染とは言え、他の男と出掛けるのは妃奈子ちゃんにとって迷惑なんじゃないのかな。それに明日は折角のお休みだから、土田と出掛ける約束があるのかもしれない……)

 これはデートじゃない。
 樹とタロと四人で、ただ遊びに行くだけのお誘いだ。
 だから土田との関係にさえ気付かなければ、「妃奈子ちゃんと遊びに行けるなんてラッキー」と、まだ軽い気持ちで彼女を誘う事が出来ただろう。

 しかし、太郎は不運にも妃奈子と土田の関係に気付いてしまった。
 だから彼は軽い気持ちで、彼女を誘う事が出来なくなってしまったのだ。

 幼馴染とは言え、他の男と遊びに行った事が土田にバレれば、妃奈子は土田に嫌われてしまうかもしれない。
 明日は休みだから、土田とデートの約束が入っているかもしれない。

 だから太郎は、妃奈子を誘うに誘えなくなってしまったのだ。
 自分が彼女を誘う事で、彼女の迷惑になってしまうのではないかと、罪悪感が生まれてしまったのだから……。

(罪悪感? ははっ、何、キレイ事を言っているんだよ。違うよ。僕は妃奈子ちゃんの迷惑になるから誘いたくないわけじゃない。彼氏のいる好きな子と遊びに行ったって、自分が虚しくなるだけだから、妃奈子ちゃんを誘いたくないんだよ)

 ああ、そうだ。
 この際、妃奈子の気持ちなんて関係ない。
 結局は、自分が辛い思いをしたくないから、彼女を誘えないだけなんだ。

 ああ、何て醜い心の持ち主なんだろうか!

(仕方ないだろ、人間なんだから)

 なんて、誰かに言い訳をしながら。
 太郎は不安に寄せた眉を、更に苦しそうに深く顰めた。

「太郎君?」
「え?」

 不意に掛けられた声にハッとする。

 紙袋を見つめたまま、眉を顰めている彼に不安になったのだろう。
 顔を上げれば、不安そうにこちらを見つめている妃奈子の姿があった。

「どうしたの? さっきから何だか元気がないみたいだけど……?」

 どうやら妃奈子は、太郎の様子がおかしい事に、最初から気が付いていたらしい。
 いつもより元気がなく、どこか暗い雰囲気を漂わせる太郎の異変に、妃奈子は心配そうに眉を顰めた。

「何かあった? もしかして、今日も葵東の人達に虐められちゃったの?」

 何だか、心配されている点が若干ずれている気もするのだが。

 それでも心配そうに自分を見つめる妃奈子に首を横に振ると、太郎はニコリと笑顔を象った。

「何でもないよ。今日は葵東の人達にも会わずに帰れたしね」
「嘘」
「え?」

 しかし、意外にも太郎の嘘は通用しなかったらしい。
 見破られた事により、太郎の瞳が動揺に揺れ動く。

 そんな彼に対して、妃奈子は心配そうな表情を崩さず、それでいて真剣な眼差しを改めて太郎へと向けた。

「葵東の人達は関係ないかもしれないけど。でも、何かあったんでしょ? だって太郎君は昔からそうだもの。何かあると、そうやって一人で抱え込んで、元気がなくなって、しゅんとしちゃって。それで最後は、一生懸命に笑顔を作りながら「何でもない」って言うの」
「……」

 妃奈子の言葉に、太郎は何も言い返せなかった。
 だってそれは、彼女の言う通りだったのだから。

 何か悲しい事や辛い事があっても、太郎は誰にも何も言わない。
 一人で落ち込んで、疲れるまで悶々と考え込んでしまう。
 そして彼の異変に気付いた誰かが声を掛けてくれたとしても、彼は笑顔を作りながら「何でもない」と言うのだ。

 そう、太郎が自覚している程、全てが妃奈子の言う通りだったのである。

「何か、悲しい事があったんでしょ?」

 ピッと人差し指を立てながら、妃奈子がそう指摘する。

 すると太郎はしばらくポカンとした後、困ったような苦笑を浮かべた。

「すごいね、妃奈子ちゃんは。よく見てくれているんだ」
「太郎君の事だもん。それくらい知っているよ」
「そっか。幼馴染だもんね」
「うん……そうだね」

 気のせいだろうか。
 妃奈子の大きな瞳が、一瞬だけ悲しそうに揺れたのは。

 しかし次の瞬間には、他人を安心させるような柔らかい笑みを浮かべていて。

 そしてその笑みを太郎へと向け直すと、妃奈子は再度彼へと問い掛けた。

「それで、何があったの?」
「……」

 何があったかなんて、そんなの……そんなの彼女に言えるわけがない。
 
 だって彼の悩みは、目の前にいる彼女が原因なのだから。
 彼女が彼を苦しめていると言っても、過言ではないのだから。

「あ、えっと……本当に何でもないんだ」

 その原因である彼女に本当の事など言えるわけがなくて。

 それでも心配そうに尋ねてくれる彼女に作った笑顔でそう返せば、妃奈子は今度こそ、明らかに悲しそうに瞳を揺らした。

「そっか。太郎君がそう言うんなら、大丈夫だね……」

 本当は、少しで良いから彼の力になりたかった。
 でも彼が「何でもない」と言うのであれば、それ以上自分に出来る事は何もない。

「あのね、今日のおかずはハンバーグなんだよ。太郎君、昔から好きだったよね」
「え? あ、うん。覚えていてくれたんだ。嬉しいな」
「主にお母さんが作ったんだけど……でも、私もちょっとだけ手伝ったんだよ? だからそれ食べて、元気出してくれたら嬉しいな」

 とにかく今日はもう帰ろう。
 本当は、もう少しだけお話したかったけど。
 でも、今日はそっとしておいてあげた方が良いのかもしれない。
 だって彼が、そう望んでいるのだから。

 それに何より、自分には何も話したくないようなのだから。

「妃奈子ちゃんも作ってくれたんだね。ありがとう」
「うん。じゃあまた明日。明日も夕方また来るね」

 ハンバーグの話を少しだけしてから、妃奈子は玄関のドアノブに手を掛けた。

 また明日。
 明日またこの家を訪ねた時、今度は彼が笑顔で出迎えてくれたら良いな、とそう思いながら。

「こらっ、太郎ちゃん!」
「っ!?」

 しかしその時、背後から第三者の声が響いた。

 何かと思い振り返れば、そこでは仁王立ちをしたもう一人の幼馴染が、怒りの表情を太郎へと向けていた。

「あれっ、樹お姉ちゃん!? え、お姉ちゃんも太郎君の家にいたの?」
「そうよ。私も一人で留守番している太郎ちゃんが心配で、たまに様子を見に来ているのよ」
「へぇ、そうなんだ……」

 ニコリと微笑みながら妃奈子に事情を説明すると、樹は再度太郎を睨み付けた。

「それよりも太郎ちゃん! 妃奈子ちゃんが来たら、ちゃんと誘ってねって言ったじゃない! 何やってんのよ!」
「え、誘う?」

 何の事だろう?

 そう言わんばかりに妃奈子が首を傾げれば、樹は明るい笑みを彼女へと向けた。

「実はね、デパートの福引きでドリームワールドのフリーパス券を当てたのよ。だから明日、もし暇だったら一緒に行かない?」
「えっ、ドリームワールド!? え、それって、開園したばかりの遊園地だよね!?」
「ええ、そうよ」
「えと、樹お姉ちゃんと……太郎君も行くんだよね?」
「もちろんよ。あと、親戚の子供も来るんだけど……。どう? 妃奈子ちゃんも一緒に行かない? それとももう予定入ってる?」
「う、ううん! 何もない、何もないよ! 明日だよね! うん、私も一緒に行きたい!」
「良かったわ、久しぶりにみんなで遊びに行きたいと思っていたから。じゃあ明日、ドリームワールドの入り口にある時計台の下に、十時集合で」
「うん、分かった! あ、もしかして太郎君の様子がおかしかったのって……」
「おかしい? ああ、妃奈子ちゃんに声を掛けるタイミングを探していただけじゃないかな?」
「あ、そうなんだ。そっか、良かった。悩んでいるわけじゃないのなら良いの!」

 ホッと安堵の息を吐くと、妃奈子はウキウキと楽しそうな笑みを二人へと向けた。

「ふふっ、急に明日が楽しみになっちゃった。じゃあ、太郎君、お姉ちゃん、また明日ね!」

 心底楽しそうな笑顔で手を振ると、妃奈子は今度こそ、太郎の家から立ち去って行った。

「……」

 たった数分で妃奈子を遊びに誘い、その上太郎のフォローまできっちりと済ませると、樹は妃奈子が完全に立ち去ったのを確認してから、ギロリと太郎を睨み付けた。

「たあぁぁぁろぉぉぉお?」
「ひぎぃッ!?」

 自分の名を呼ぶ樹の表情が、あまりにも悍ましくって。

 太郎は思わず変な悲鳴を上げてしまった。

「もーう! 何でちゃんと妃奈子ちゃんを誘ってくれないのよぉッ!」
「だっ、だって……っ!」
「だってじゃないわよ! 私が来なかったら太郎ちゃん、本当に妃奈子ちゃんを誘わなかったでしょーっ!?」
「うぐっ」

 太郎だって、樹にチケットを押し付けられた時は、頑張って誘ってみようとは思った。

 けれども妃奈子の笑顔を見ていたら、何も言えなくなってしまったのだ。

 妃奈子はこの笑顔をいつも土田に向けているのかと、お裾分けに持って来てくれるような手料理を弁当箱に詰めて、いつも土田にあげているのかと思ったら、辛くなってしまったのだ。

 妃奈子と一緒にいたくない。
 いつもは土田に向けている笑顔を、自分には向けて欲しくない。
 儚く消える、たった一日の幸せな時間なんかいらない。

 胸の奥から湧き出る黒い感情に、彼はたった一言の言葉が言えなくなった。

 ――明日、みんなで遊びに行こうよ。

 その言葉が喉の奥に貼り付いて、出て来なくなってしまったのだ。

「だって妃奈子ちゃんだって、予定があるかもしれないし……」
「は?」
「それなのに、誘ったら迷惑だったかもしれないじゃないか!」
「迷惑って……あのねぇ……」

 咄嗟に出た言い訳の言葉。

 それを聞いた樹は一瞬呆気に取られたが、すぐに深い溜め息を吐くと、呆れたようにして頭を抱えた。

「迷惑とかって、それは太郎ちゃんが決める事じゃないでしょ? 本当に迷惑だとしたら、誘っても妃奈子ちゃんの方から断って来るわよ。だって迷惑かどうかなんて、妃奈子ちゃんが決める事なんだから」
「でも妃奈子ちゃんって優しいから、嫌でも誘われたら断れないかもしれないし……」
「優しいと言いなりは違うでしょ? 妃奈子ちゃんは優しい子だけど、嫌なモノは嫌だってちゃんと言える子よ? 太郎ちゃん、妃奈子ちゃんの事が好きなクセに、そんな事も知らないの?」
「で、でも! でも、誤解されたら大変じゃないか!」
「は? 誤解? 何の?」
「何のって、それは……」

 樹の言う事は正論だろう。
 しかし彼女は、土田と妃奈子の関係だって知っているハズなのだ。
 それなのに、彼女はいつまでしらばっくれる気なのだろう。
 ここは、もう自分は知っていると、ハッキリと樹に言ってしまった方が良さそうだ。

 しかしそう考えた太郎が、ああだこうだと言い訳をしながらも、その事実を口にしようとした時だった。

「何、心配する事はない!」
「え?」

 ハッキリと響く、自信満々の彼の声。

 ハッとして見れば、いつの間にか立ち直ったらしいタロが、腕を組みながらドンと胸を張って立っていた。

「まだだ……まだ勝負は付いていないぞ、タロー! 何の努力もなしに、その結果を受け入れるつもりなのか!? そんなのは御免だ! 例え玉砕しようとも、ボクは全力で抗ってやる! だから大丈夫だ、タロー、キミにはこのボクが付いている! 喧嘩上等! 必ず勝利を掴みに行くぞ!」
「???」

 一体彼は何の話をしているのだろうか。
 そして何を決意したのだろうか。

 詳しい事は分からないが、何か元気になったみたいだし……。
 まあ、いいか。

「任せろ、イツキ隊長! ボクが責任を持って、戦場にタローを連れて行く! そして必ず、この戦の勝鬨を上げるのだ!」
「タロちゃん……っ!」

 いつの間にか樹の呼び名が隊長になっているが、それは気にしない事にして。

 タロの力強い言葉に励まされた樹は、その瞳に浮かんだ感動の涙を、人差し指でそっと拭い取った。

「何て頼もしいのかしら、タロちゃん! もう一人の太郎ちゃんとは思えないくらいにカッコイイわ! ありがとう、タロちゃん! ええ、明日は二人で頑張りましょうね!」
「もちろんだとも! 明日は二人で頑張ろうぞ、隊長ッ!」
「……」

 当人を差し置いて、頑張るも何もないだろうに。

 ギュッと手を握り合いながら意気投合する二人に溜め息を吐くと、太郎は悲しそうに視線を下へと落とした。

(土田に恋している妃奈子ちゃんと遊びに行ったって、僕が虚しいだけじゃないか)

 辛い。
 悲しい。
 苦しい。

 そんな負の感情をこらえるようにして。
 太郎はギュッと、固く瞳を閉ざした。











「お母さん、ただいま!」
「ああ、妃奈子、お帰りなさい。どう? 太郎君喜んでくれた?」

 夕食の準備のため、テーブルに皿を並べていた手を止めると、母は上機嫌で帰って来た娘に、その結果を尋ねた。

「うんと、何か思い詰めていたみたいだったから、ハンバーグの反応はイマイチだったんだけど……。でも良いの、その理由も分かったから!」
「理由って……。いや、それよりもあんた、何かテンション高くない? 反応はイマイチだったんでしょう?」

 娘の報告では、彼は持参したハンバーグを喜んではくれなかったらしい。
 しかし、それにしては娘の機嫌があまりにも良ろしすぎる。
 一体何があったのだろうか……?

 不審に思った母が訝し気に眉を顰めれば、娘は幸せそうな笑顔を振りまきながら、その理由を口にした。

「ふふっ、明日ね、太郎君と樹お姉ちゃんと一緒にドリームワールドに行く事になったんだー!」
「どりーむわーるど? 何それ?」
「出来たばっかりの遊園地だよ。久しぶりにみんなで遊びに行くの!」

 どうやら娘は、彼と遊園地に行く事になったのが、よっぽど嬉しかったらしい。
 だからこんなに上機嫌なんだと説明すれば、母は「そう言う事か」と苦笑を浮かべた。

「でも出来たばっかりの遊園地なんでしょ? それに明日は土曜日だし……。かなり混んでいるんじゃないの?」

 だからそこは人混みの中にわざわざ行くようなモノで、アトラクションになんかほとんど乗れないんじゃないだろうか。

 しかしそう言いたげな母の言葉に首を横に振ると、娘は幸せそうな微笑みを浮かべた。

「いいの! アトラクションに乗るのが目的じゃないんだもの。一日中太郎君と一緒にいられるのが嬉しいんだから!」
「ああ、そうですか。あんたって本当に太郎君が好きなのねぇ」
「うん、大好き!」

 恥ずかしがる様子もなくハッキリと。
 そう断言した娘にもう一度苦笑を浮かべると、母は配膳の手を再び動かし始めた。

「とりあえず、手洗いうがいをして来なさい。もうすぐ夕ご飯だから」
「はーい!」

 母の声に大きく返事をすると、娘は洗面所へと向かう。

(一日中太郎君と一緒にいられるなんて嬉しいな。明日は何着て行こう? センスないって思われそうな服は着れないし、お裾分けに着て行った服なんて着て行ったら、それしか持っていないのかって思われちゃうし……。あ、そうだ。この前恵美ちゃんと買い物に行った時に買った服があったんだった。うん、あれにしよう、そうしよう!)

 彼は自分の事なんて、ただの幼馴染にしか思っていないし、別にデートと言うわけでもないのだけれど。
 でも片想い中の男の子と同じ時間を過ごせるなんて、何て幸せなんだろう。
 そりゃ、もっと積極的な人から見れば、「何でそんな些細な事で喜べるの?」と不思議に思われるかもしれないけれど。
 でも内気な自分にとっては、これはとても特別なイベントなのだ。
 バカにしたい人はバカにしていれば良い。
 それでも私は、命一杯楽しんでみせる!

「早く明日にならないかなー?」

 とにかく楽しいイベントを企画してくれたお姉ちゃんには感謝しなくっちゃ!

 明日の期待と緊張を胸に秘め、娘こと妃奈子は手を洗うべく、水道の蛇口をキュッと捻った。





 ――少年と少女の不安と期待が織り成す遊園地にて。
 そこで小さな事件が起こってしまう事を、まだ誰も知らない。

しおり