二日目⑤ それは吉と出るか、凶と出るか
ああ、何だろう、この解放感は!
実に清々しい。
こんなの久しぶりじゃないだろうか。
まだ一日しかタロとともにいないにも関わらず、一人になるのが数か月ぶりのように感じた太郎は、茜色の光が差す窓の前で、うーんと大きく伸びをした。
「さて、と……」
今日はこれからどうしよう?
本屋にでも寄って帰ろうか?
いや、でも昨日寄り道していたらチンピラに絡まれちゃったし、パラレルワールドの自分とか言う変なヤツにも会っちゃったし……。
うん、今日は寄り道は止めておこう。真っ直ぐに、さっさと帰ろう。
いや、でもこのままタロを置いて帰ったら、またギャンギャンと喚くだろうか。
まあ、いいか。樹姉ちゃんと一緒だし。そこまで怒りはしないだろう。
などと、タロを置き去りにして帰る算段を立てていた時だった。
「太郎君?」
「え?」
昼と同じようにして、背後から名前を呼ばれたのは。
「あ、妃奈子、ちゃん……?」
窓から差し込む茜色の光のせいだろう。
その光の中に立つ彼女は昼の時よりもキレイに見え、太郎はその姿に一瞬ドキリとした。
「珍しいね。太郎君がこんな時間まで残っているなんて」
「え? あ、うん……」
「もしかして、残って勉強していたの?」
「え!? い、いや、違うよ! そんなんじゃなくって、その……と、友達と遊んでいたんだ」
太郎が帰宅部である事も、放課後になれば残らずさっさと帰ってしまう事も、妃奈子はもちろん知っている。
だからこそ、こんな時間に学校で彼と鉢遭わせた事に、妃奈子は少しばかり驚いたらしい。
しかし太郎がその理由を説明すれば(まあ、その理由も嘘なんですけど)、妃奈子は「そっかあ」と笑顔で納得してくれた。
「えと……妃奈子ちゃんは、今終わり?」
「うん。今、丁度終わったところなの」
「家庭科部、だったよね?」
「うん、そう。覚えていてくれたの? ふふっ、嬉しいなあ」
「そ、そりゃ覚えているよ! だって幼馴染じゃないか!」
「幼馴染……、うん、そう……そうだったね」
帰宅部である太郎とは違い、妃奈子は部活に所属している。
その部活の名は家庭科部。通称、花嫁花婿修業部。
総員五十名と言う、割と大規模なその部活では、お菓子作りをメインとした活動をしている。
因みに木曜日が実習日であり、他の日はお菓子作りの計画を立てたり、華道茶道書道などと、他の実習を行っているようだ。
「今日は何を作ったの?」
「クッキーだよ。最初はね、ちゃんと型を使って生地を抜いていたんだけど、その内に型なんか使わなくなっちゃって、みんなで好きな形を適当に作って焼いたの。そしたら|恵美<<えみ
>>ちゃんがすごく大きなクッキーを作って焼いたんだけど、やっぱり中まで火が通らなくって……ふふっ、楽しかったなあ!」
「そっか」
クスクスと楽しそうに笑う妃奈子に、太郎は優しく目を細める。
妃奈子とこんなにゆっくりと話すのは、何だか久しぶりな気がした。
幼い頃は毎日のように一緒に登校して、下校して、その後は一緒に遊ぶのが当たり前だったハズなのに。
それなのに、いつの間にか別々に登校するようになって、下校するのも別の時間になって、違う友達と遊ぶようになって……。
そして大人になるにつれて、段々と一緒にいる時間がなくなってしまった。
だから尚更なのだろう。
こうして彼女と会話が出来る事に、小さな幸せを感じるのは。
「ねぇ、太郎君、久しぶりに一緒に帰らない?」
「えっ!?」
妃奈子からのその誘いに、太郎は思わず驚いて声を上げてしまった。
そりゃ驚くだろう。だって妃奈子からそんな誘いが来るなんて、夢にも思っていなかったのだから。
「あ、もしかして、もう違うお友達と約束していた?」
しかし太郎のその驚いた表情は、妃奈子にとっては困惑の表情に見えてしまったらしい。
困らせてしまったのではないかと、申し訳なさそうに眉を寄せる妃奈子に、太郎は慌ててブンブンと首を左右に振った。
「あ、ち、違うんだよ! そんなんじゃないんだ! ただ驚いただけなんだって!」
「驚いた?」
「あ、えっと……ひ、妃奈子ちゃんこそ、その、友達と帰る約束をしていたんじゃないかなーって……」
もちろん本当は、「好きな女の子から、思いも寄らないお誘いを頂いて驚いた」のだが、そんな本当の事など言えるわけがない。
「ううん、私は帰る時、いつも一人だよ。部活の友達、みんな帰る方向が違うんだもん」
「え、あ、そうなんだ……」
適当に作った太郎の驚いた理由に、妃奈子は納得してくれたらしい……いや、ただ単に流してくれただけなのかもしれないが。
それにしてもまさか妃奈子が、いつも一人で帰っていただなんて驚きだ。
事前に言ってくれれば、毎日妃奈子の部活動が終わるのを待って、毎日毎日一緒に帰っていたのに……って、嘘です、ごめんなさい。自分にはそんなお誘いを申し込む勇気はございませんでした。
「あれ? ねぇ、そう言えば太郎君?」
「えっ!? あ、う、うん、何?」
そんな、太郎が一人で悔しがったり、落ち込んだり、謝ったりしている時であった。
昼との違いを見付けた妃奈子が、太郎をじっと見つめながら首を傾げたのは。
「ほっぺの絆創膏どうしたの?」
「え? 絆創膏?」
真っ直ぐに見つめられているせいもあるのだろう。
ドキドキと心臓が激しく高鳴っているせいもあり、妃奈子が何を言いたいのか瞬時には理解出来なかった太郎が不思議そうに目を丸くすれば、妃奈子は首を傾げながら今度は眉を顰めた。
「夕焼けのせいでよく見えなかったけど……。太郎君、昼はほっぺに絆創膏貼っていたよね? でもそれが今はなくなっているから。だからどうしたのかなって」
「絆創膏……あっ!」
その言葉をもう一度繰り返して、そして考えて……。
そこで、太郎はようやく気が付いた。
妃奈子が指摘しているのは、変身魔法で絆創膏に姿を変えた、タロの事だと言う事に。
「え、妃奈子ちゃん、気付いていたの?」
「うん、誰だって気付くと思うよ。だって顔に絆創膏貼っている人って、あんまりいないもの」
「そ、そうだよね……」
出来れば気付いて欲しくなかったなあ……。
でも妃奈子の言う通り、顔にそんなモノ貼っていたら、嫌でも気が付くか。
「大丈夫? 怪我していたんでしょ? もう剥がしちゃって大丈夫なの?」
「あ、う、うん、大丈夫だよ! 大した怪我じゃなかったから!」
「え? でも、猫に引っ掛かれたって……」
「え?」
「土田君が言っていたよ?」
「……」
土田とは、今朝、太郎の隣の席で樹がどうのこうのと言っていた友人Aの事である。
「あ、えっと……で、でももう塞がったみたいでさ! だから剥がしちゃったんだよね!」
「そうなの? でも引っ掛かれたのって、昨日の夜か今日の朝だよね? それにしては治るの早くない?」
「えっ!? あ、ぼ、僕、傷の治りって、人よりかなり早いからッ!」
「そうなの? うん、太郎君がそう言うんなら良いんだけど……」
不思議そうに首を傾げながらも納得してくれる妃奈子に、太郎はもう一度「大丈夫」とぎこちない笑みを浮かべた。
「でも気を付けてね、太郎君。今回はほっぺだったからまだ良かったけど、目とかだったら危ないんだからね」
「う、うん、ありがとう、妃奈子ちゃん。気を付けるよ」
「うん。じゃあ、校門のところで待っててね。教室に鞄取りに行ってからすぐに行くから!」
ニッコリと微笑み掛けると、妃奈子はそれだけを言い残して、パタパタとその場から走り去って行った。
「すぐ行くって……。あ、そっか。僕、これから妃奈子ちゃんと一緒に帰るんだった」
走り去る妃奈子の背中を見送ってから、太郎は現状を整理した。
「えっと、僕……」
妃奈子と帰る。
誰と?
だから妃奈子と。
誰が?
僕が、
久しぶりに、
妃奈子と帰る。
妃奈子と一緒に、久しぶりに帰る。
二人で。
……えっ!?
「えっ、ちょっと待って! 僕、これから妃奈子ちゃんと一緒に帰るの!? 二人でッ!?」
その瞬間、太郎の全身の血が沸騰した(もちろん比喩表現である)。
話の流れで何となくそんな話になってしまったが、今思えば、自分はとんでもない約束をしてしまったのではないだろうか。
もちろん、妃奈子と一緒に帰れるのは嬉しい。
でも二人っきりだなんて、そんなの緊張するに決まっているじゃないか。
ドキドキしてまともに話せないかもしれないし……。
そりゃ、妃奈子は昔から一緒にいる幼馴染だ。
でもそれ以上に、彼女は好きな女の子なのだぞ?
一緒に遊んだとか、登下校したとか言っても、それはもう遥か昔の話で……。
と、とにかくどうしよう? 何を話そう? 何だか嬉しいって感情よりも、不安で逃げたいって気持ちの方が大きくなって来た気がする……っ!
「とっ、ととととにかく、おちっおちっつかなくちゃッ!」
バクバクする心臓を抑えて深呼吸。
ついでに人の字も飲み込んで……って、あれ? 人の字って三回だっけ? いや、もっとデカくて多い方が良いな。よし、巨人を五回くらい飲み込んでおこう。
巨人巨人巨人巨人巨人……。
「よ、よしッッ!!」
気合いを入れるべく、頬を両手で挟むようにして五回叩くと、太郎は鞄を持ち直した。
「が、がんばるんだっ!」
向かうは校門。
いざ、決戦の舞台へ……!