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第112話 老人と古戦場

 遼州星系第二惑星。

 太陽系なら金星に当たる星はここ遼州星系では『甲武星(こうぶせい)』の名で呼ばれていた。

 そこは伝統に基づく復古主義的方針により、大正期以前の『日本』が再現された国として、他国の人はこの国を『大正ロマンあふれる国』と呼んでいた。

 そんな甲武国軍第六艦隊分岐艦隊旗艦『那珂(なか)』。

 その貴賓室の窓の外には、宇宙船の残骸と思われる『デブリ』が浮かんでいた。

 そこは二十年ほど前の『第二次遼州大戦』の古戦場だった。『祖国同盟』加盟国の甲武国攻略を目指す遼北人民国軍を主力とする『連合軍』が甲武国軍との激闘が戦われた宙域である。

 この宙域は長く連合軍の占領下にあったが、甲武国に返還された後も手が加えられずそのままの状態で甲武国海軍の演習場として使用されている。

 深い椅子に腰掛けた老人は、静かに手にしたブランデーグラスを眺めながら、流れる交響曲に身を任せていた。その強い意思を象徴するかのような青い瞳は、彼が目の前に広がる光景の生まれた瞬間を幾つとなく見つめてきたことを示していた。

 そして、その満足げな表情は残骸と廃墟の中で生きることを決意した意思表示のようにも見えた。

 曲は佳境に入り、ティンパニーの低音がブランデーグラスの中の液体をかすかに震わせた。

「閣下。近藤です」 

 管楽器の雄叫びが始まろうとしたその瞬間、音楽をさえぎるようにスピーカーから低い声が響いた。

 老人は眉をしかめながら吐き捨てるようにつぶやいた。

「入りたまえ」

 彼は外の胡州帝国軍の駆逐艦の残骸に眠る天上の都にたどり着いたであろう兵士達との語らいを中座させられて、不機嫌になっていた。

だが老人はそのことで相手を責めるほど狭量な男ではなかった。

 貴賓室の自動ドアが開くと、甲武国海軍中佐の制服を着た、近藤と名乗った神経質そうな、丸刈りの中年の男が部屋の中に入ってきた。彼はあの嵯峨が持っていた写真の男だった。彼は不愉快そうな老人の様子を気にするわけでもなく、言葉を切り出すタイミングを計っていた。

 ここで無遠慮に実務的な話をしてくるような人間ならば、老人はとっくの昔に近藤に愛想を尽かしていただろう。だが、静かに老人の気持ちの整理がつくのを待つ程度の礼儀を近藤は心得ていた。

「近藤君。この曲が何か分かるかね?」 

 高らかな管楽器の雄叫びに合わせるように管楽器の高音がその存在を明らかにするような調子で旋律を奏で始める。老人はこの部分に至る過程に闖入者があったことは残念に思ってはいたが、手にしたグラスを傾けることでそんな気持ちをどうにか落ち着けるすべを心得ていた。

そして老人は曲に合わせるように目を閉じる。

「クラッシックですね……私はクラッシックは『ワーグナー』ぐらいしか聞かないもので……閣下に比べると不勉強なもので申し訳ございません」

 老人は再び目を開き近藤と言う甲武国海軍の士官を見つめた。

 正直であることが、美徳であるということは、老人の七十年近い人生で学び取った一つの価値観だった。理論を語る者、特に軍の参謀を務めるものは、正直であるべきだと老人は経験から理解していた。

 希望的観測で上官の機嫌を取り繕う虚構の夢想家が、どれほどの敗北を老人に味あわせたかを数えて語り始めれば、その語りの道連れにはグラス一杯のブランデーでは足りない。

 老人は静かに口を開いた。 

「リヒャルト・シュトラウスだ。『ツァラトストラはかく語りき』だよ、憶えておきたまえ。教養は人の大小を左右する重要な要素だ。君も少しは勉強が必要のようだね」 

 閣下と呼ばれた老人は静かにブランデーグラスに口をつけた。老人の機嫌が直ったことに少し安堵した近藤は流れる交響曲に耳を傾けた。かつての老人のルーツにも当たるドイツで生まれた一人の哲学者と、その思想を音楽にするという試みを行った音楽家に敬意を表するように近藤はしばらく沈黙した。

 そして老人がブランデーグラスを紫檀(したん)の組細工をあしらった貴賓室の執務机に置いたのを確認して話を切り出した。


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