7.まるで野生動物。
「アーデン侯爵閣下がいらしたので、応接室に通しております」
邸宅に戻ると、レナード様が私に会いに来ていると言われた。
侯爵位を継いだばかりで忙しいはずなのに、私に会いにきたと思うと心臓の鼓動がうるさくなる。
気が少し動転していたのか、家出をしようとして纏めて持っていた荷物を持ったまま応接室に出向いてしまった。
「ご機嫌よう、レナード様。私なら爵位を継いだら必死に仕事に専念しますが、忙しい時期に私のところに通うのになんのメリットがございましょうか。そうか、父から頼まれているんですものね、仕方がないですよね。でも最低限の礼儀としてお約束はしないと。私にも予定というものがございますので」
私は持っている荷物を隣に置きながら彼の向かいに座った。
「日帰り旅行の予定があったのですね。宜しければ、今度、アーデン侯爵領をご案内させてください。きっと、気にいるとおもいますよ」
彼はツッコミどころ満載の私の大きな荷物を見ながら、微笑んで言ってくる。
付き添いのものに荷物を持たせないで、自分でこんな荷物を持っているなんて逃亡しようとしたとバレバレだろう。
「アーデン侯爵領って首都のすぐ隣ですよね。首都の雰囲気と変わらないでしょうから、わざわざ行く価値があるのでしょうか。私の時間はレナード様が思っている以上に貴重なのですよ」
私は生まれてから、今まで首都から出たことがない。
しかし、アーデン侯爵領が裕福で首都のすぐ隣に位置していることを知っている。
アーデン侯爵家は建国以来の一番の忠臣で皇帝派の首長だ。
カルマン公爵家は皇家と婚姻を重ね繋がりを深め、仄暗いことをしてのし上がって来た。
カルマン公爵家は貴族派の首長で、父は皇帝派の失墜と皇権を狙っている。
カルマン公爵領は割と南の田舎にあって、私は行ったことがない。
将来、公爵になるためにカルマン公爵領には出向きたいと思っていたが公爵領は遠いのだ。
父に言われて私に近づいているなどしたら、彼はかなりの愚か者だ。
後継者教育を受けている私は父のスパイにもなりかねないからだ。
結婚して彼のサポートをするどころか、彼を引きずりおろすリスクがあることに気がつかないのだろうか。
「アーデン侯爵領は日帰りでも行けるし、時間を大切にするミリア向けの領地だと思いますよ」
彼がすっと立ち上がり、私の隣に座って来た。
立ち居振る舞いが、王子のようで本当に美しい。
彼には近くに来ないで欲しい。
私は彼のフェロモンのような香りにあてられると、なんだかおかしくなるのだ。
「ちょうど、旅の準備もできているようですし泊まりで行きますか?」
彼が私の顔を覗き込みながら言ってくる。
彼の碧色の瞳に顔を赤くした恋する女の子のような私が映っていて嫌になった。
「私はアーデン侯爵夫人になるべく、紅茶を入れる練習や刺繍の練習をしなければならないので忙しくて行けません。後継者教育ばかりだったので、そちらの方はさっぱりですから」
私は彼から顔を背けながら言った。
「ミリアは私との結婚の準備を考えているんですね、なんといじらしい。でもね、ミリア、紅茶は私が入れるのが得意なので教えられますよ。ミリアも刺繍に興味があるのですか?令嬢たちは刺繍をしたハンカチをよく渡して来ますよね」
レナード様の嬉しそうな瞳にときめいていたら、彼のお付きの人が私に一礼し私の荷物をどこかに持って行って呆気にとられてしまった。
「今、私の荷物をどこかに持ってかれたんですが、泥棒ではなくレナード様のお付きの方ですよね?それより、レナード様は令嬢から刺繍されたハンカチを受け取っているのですか?」
情報量が多くてパンクしそうになりつつも、私は聞きたい2つのことを慌てて尋ねた。
「泥棒って。ミリアは本当に面白い人ですね。荷物を馬車に先に積み込んだだけですよ。ハンカチは渡されたら受け取るようにはしてますよ」
口に手を当てて笑いを堪える彼の仕草が本当に優雅だ。
「私、領地には行かないって言いましたよね。刺繍されたハンカチを貴族令嬢が送る意味って分かってますか?令嬢達に好意を表されて、レナード様はそれを受け取ってるんですよ。私というものがありながら、信じられない浮気者です。やはり、あなたとは結婚できません」
私は怒りを抑えながら、立ち上がった。
「待ってください。ハンカチは受け取らないと、令嬢たちに恥をかかせてしまうと思い受け取っていました。ちなみに、婚約はもう成立しています。ミリアはどうあがいても私の妻になるしかありません」
立ち上がった私を引き止めようとしたレナード様の力が思いの外強くて、私は彼に押し倒されたような形になってしまった。
幸い下が父が特注でつくらせた上質なソファーでふかふかだったから助かった。
「なんて、破廉恥なんでしょう。私の上からどいてください」
私は見上げたところに、レナードの顔があって慌ててしまった。
「申し訳ございません、ミリア。逃げられると思って慌てて捕獲しようとしてしまいました」
私を抱き起こしながら言う言葉に、少し吹き出してしまった。
「私は野生動物か何かですか? それにしても、今までハンカチを様々な令嬢から受け取り続けて、よく殺傷沙汰になりませんでしたね。誰にでも良い顔をしていることは良い結果を生まないのでやめた方がよいですよ。好きな相手から好かれれば良いではありませんか」
私は彼がトラブルに巻き込まれるのではないかと思い注意した。
すると、突然抱きしめられて彼の甘い香りに包まれた。
「心配をしてくれてるんですね、ミリア。確かに、誰にでも良い顔をして好かれるよりも、ただ一人の愛する人から好かれたいです。ミリア、あなたに愛されれば、他の全員から嫌われても構いません」
私の耳元で囁いてくる、彼の声が程よく低くて気持ちが良い。
彼は自分の魅力を熟知していて、それを最大限に生かす術を知っていそうだ。
私はこんなダイレクトに感覚を侵食するようなアプローチを受けたことがない。
いつだって、私に告白してくる相手は緊張していて余裕がなかった。
だからこそ、その告白は意を決してしてきている本気のものだと思えたところもあり、時間を割いて誠実に対応してきたのだ。
それなのに、彼の百戦錬磨のような手慣れた口説き方はなんだ。
私の為に貞操をとっておいたなどと、前回も冗談を言っていたし本当にふざけている。
こんなものに引っかかってしまえば、自分は軽いバカ女だと自己紹介しているようなものだ。
「何、勝手に抱きしめているんですか。離してください。私達まともに話すのが2回目なのに、レナード様の距離感はおかしいです」
私は彼に離れるように抗議する。
「申し訳ございません、ミリア。野生動物は私の方だったようです。あなたを前にすると理性がいつも吹っ飛んでしまいます」
理性が吹っ飛ぶと言いながら、しっかり私の耳元で良い声で囁いてくるのは計算ではないだろうか。
私の鼓膜がこの声堪らないと震えているのが分かる。
「レナード様、あなたがサイラスに圧力をかけて、私と別れさせようとしたのですか?」
私はサイラスに圧力を掛けたのが父か姉だという確信があった。
でも、私はレナードがサイラスに圧力をかけるくらい私に本気だと良いなと思ったので聞いてしまった。
「そうですよ。ミリアが欲しかったので、私が彼を脅して別れてもらいました」
彼が私の肩に手を置いて少し距離をとりながら、見つめて言ってきた。