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第十話 永遠の夏休み

 子供にとって夏とは、なんだか切ない季節なのだ。小学校の夏休みも後わずか。従兄弟たちも帰ってしまい、少々退屈だった。顔を上げると青い空が縁側から覗く。

 蝉時雨が辺りを満たしている。縁側で兄が携帯ゲーム機で遊んでいるのを隣で眺めていた。扇風機が首を振っている。横に置かれたひと口の大きさに切られたスイカをフォークで刺して方張る。汁が顎を伝って床に溢れて、近くに置いてあったティッシュ箱から一枚取り出して乱暴に拭いた。

「にいちゃん、外遊びに行こうよ」
「もう外いんじゃん」
「ここ家だよ。ねえ、蜻蛉捕まえに行こうよ」
「やだよ。お前ひとりで行けよ馬鹿」
「ばーか!」

 兄に丸めたティッシュを投げつけて自室へ走った。後ろから兄の怒声が響いたが知らぬ存ぜぬを貫いて、自室から小銭入れを取ってポケットに入れる。黒いキャップを被り、玄関に向かってサンダルを引っ掛けて物置小屋に向かった。

 古くて建て付けの悪い戸を開けて虫取り網と虫籠を取って肩にかけた。物置小屋から出て両手で力一杯に戸を閉めた。幼馴染のあやの家へ行こうと走り出す。

 途中蜻蛉を見つけたが、虫取り網をそっと動かしたつもりだったがばれて飛び立った。それを見送って、ちぇ、なんて言いながらゆっくりと歩みを再開する。
 あやの家はそこまで遠くはないが、子供の足だと十五分はかかる。暑い、暑いと呟いていると、横の柵に蜻蛉を見つけた。

 今度こそ、とゆっくりと、そうして素早く動かして蜻蛉を捕まえた。虫取り網を地面に置いて、籠からミシン糸を取り出した。長めに伸ばして歯で噛み切る。ミシン糸を籠にしまってから蜻蛉を網から取り出した。

 蜻蛉の胴体に糸を結びつけて離せば、蜻蛉が宙に飛んでゆく。しかしそれは糸があるから捕まったままである。こうしてたまに捕まえては蜻蛉に糸を括り付けて飛ばして遊ぶ。そんな遊びを繰り返していた。最後にはいつも糸を切って離してやるが、道中少しばかり蜻蛉に付き合ってもらう。あやは虫は苦手だから、どうせすぐに逃してしまうから。

「暑いなあ〜」

 自分の影を眺めながら道を進んでゆく。汗が滲み出て首元を伝う。あやの家はクーラーがあるから羨ましいな。家に着いたら涼んでやろう。と腹立たしい兄を思い出して地面の石を蹴った。

「いてっ」
「え?」

 顔を上げると、虎の顔があった。自分よりも随分と高いところにある。首が痛くなりそうだ。と思いながら口を開けて呆けた。

「……誰?」
「ミツミさん、探しましたよ」
「なんで私の名前知ってんの?」

 虎の顔の人? は、しゃがみ込んで私に目線を合わせた。何故私の名を知っているのかと不思議に思いつつも目を合わせる。深い琥珀色の瞳をしていた。毛皮が暑いのか、手で顔をあおいでいる。

「お父さんとお母さん、虎と人間?」
「自分は虎とイエネコの子ですねえ」
「ふうん。でもお母さんの故郷には、馬と結婚した人間の女の人が居るよ」
「へえ。それは興味深いですね」
「おしらさまって話なんだよ。お蚕様の神様なの」
「おかいこ?」
「蚕知らないの? 糸作ってくれる虫さんだよ」
「よく知っていますねえ」

 目の前の虎は、目を細めて笑顔を作っているらしかった。こんな辺鄙な田舎に何故こんなのが居るのだろう。と失礼なことを考えていた。

「暑そうだね」
「暑いですねえ。毛皮がありますから」
「ねえ! 川に行こうよ!」

 虎の手を取って引っ張ると、何か言いたげな目が返ってきたが知らんぷりをする。田舎の子供にとって見知らぬ大人というのは珍しく、害意がないのならばおもちゃのようなものだった。

「行こう」
「……そうですね。涼めそうですし、行きましょうか」

 虎が歩み出すと手を離して少しだけ駆けて前に出る。ちゃんと着いてきているかとたまに振り返り、笑顔が返ってくるとまた駆ける。そんなことを繰り返しながら川に辿り着く。道から小石ばかりの河原に降り蜻蛉の糸手にしたまま、サンダルを脱いで川に入った。

「冷てえ〜!」

 入りなよ! と虎に声をかけると虎はブーツをもたもたと脱ぎ、川へと足を入れた。

「うわあ。冷たいですね」
「ねえ。どこから来たの? 東京の人?」
「トウキョウ、ではないですね。すごく遠くから」
「外国とか?」
「どうでしょうか?」
「むう……あー、釣竿持って来ればよかった。ここ川魚いるからさあ」
「川魚ですか。自分の故郷では、川は人工ですし、魚も居なかったから不思議です」
「都会っこなんだねえ」

 ばしゃばしゃと足を蹴り上げて虎に向かって水を飛ばす。冷て! と声を上げる虎に笑っていると虎の方は手を使って私に水をかけてきた。水音を響かせながら逃げ回っていると空の割と近くに暗い雲が見えた。

「あーあ、夕立雲だ」
「ゆうだち?」
「夕立知らないの? 急に雨降る雲だよ」
「へえ……知りませんでした」
「本当にどこから来たの?」

 変なの。と呟いて蜻蛉を見上げる。高く飛ぼうとしているが、糸から逃れることは出来ない。そろそろ外してやったほうがいいか。と思ったが、ぽつ、と頬にぬるい水が降ってきた。虎の手を引いて橋の下に向かう。

「降ってくるよ」

 橋の下に入りしばらくするとさあざあと音を響かせながら夕立が降ってきた。涼しくなり始めた空気。しゃがみ込んで蜻蛉を手繰り寄せて糸を解こうと苦戦していた。

「お母さんに出かけるの行ってなかったから帰ったらなんか言われそうだなあ」
「お母さんはどんな方ですか」
「怒ると怖い。にいちゃんと喧嘩するときはね、心強いよ。にいちゃん私のこと殴ると怒ってくれるから」
「ご家族、好きですか」
「なんでそんなこと聞くの?」

 隣にしゃがみ込んできた虎を見上げると、何故でしょうね。と返ってくる。大して気にすることもなく手元に再び集中した。
 水音が響き続ける中で、そういえば喉が渇いたな。と意識を飛ばす。近くに自動販売機があるから、走ればそこまで濡れないだろう。

「これ持ってて」
「え?」

 虫籠と虫取り網、蜻蛉を押しつけて雨の中に出る。後ろから名を呼ぶ声が聞こえたが無視して土手を上がる。途中転んで服に泥が付いたが気にせずに自動販売機に向かった。
 小銭を三百円入れて冷たい飲み物を二つ買う。釣り銭を乱暴に取ってから駆け出し橋の下に戻ると、虎は蜻蛉を見つめながら突っついていた。

「蜻蛉も見たこと無かったの?」
「ええ……これが蜻蛉なんですね」
「宇宙人?」
「まあ、遠からずそうかと」
「へえ〜、虎の宇宙人って居るんだね」

 どっちか選んで、とペットボトルを掲げると、炭酸飲料の方を虎が手に取った。私は清涼飲料水の方の蓋を開けると飲み下す。冷たいものが食道を通って行くのがわかった。

 蜻蛉を返してもらうと虎がもたもたとペットボトルの蓋を開けて飲み始めた。それを見ながら私も飲料水を飲む。

「宇宙人はなんでこんな田舎に来たの?」
「ミツミさんを探して、ですかね」
「私攫われちゃうのかあ」
「攫う……まああながち間違いでもないですね」
「不審者は警察に通報するよ。駐在さんに言い付けてやる」
「あはは……それは困りますね」

 夕立が弱まってきた頃、夕焼け空が顔を出していた。そろそろ帰んなきゃ。と呟いて立ち上がると、虎の前に出て別れの挨拶を告げる。

「ねえ。私帰るからじゃあねえ。宇宙人も早く帰った方がいいよ。ここら辺熊出るからね」
「グリエル総督みたいなの出るんですかね」
「何それ?」

 虫籠と虫取り網を拾って、じゃあねえ。と振り返って駆け出そうとした時、手首を掴まれた。

「ミツミさん。そろそろ終わらせましょう」

 その言葉に心臓がぎゅっと嫌に大きく跳ねた。

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