第十一話 永遠の夏休みは泡沫に
「ミツミさん。そろそろ終わらせましょう」
「何を?」
「初めて潜らせる人は、子供の頃を夢想する方が多いんです。ミツミさん、あなたは、もうここへは戻れない」
「……何言ってるの? 私、まだここに居るよ。お母さんもお父さんも、じいちゃんもばあちゃんも、にいちゃんも居るし子供が出れるわけないじゃん。学校ももうすぐ始まるよ」
「あなたは、ここには戻れない。懐かしい故郷には」
頭の中に警鐘が鳴っている。この人の言葉を信じてはならない。と誰かが言っている。大人の女の人の声。夏の夕焼け、ひぐらしの声に掻き消されそうな弱い声。
「ミツミさん。……起きてください。ずっと自分が居ますから」
大丈夫ですから。そう虎は言う。けれど信じるなと誰かが言っている。
腕を振り払って距離を取った。虎は立ち上がって私に近づいてきた。それを見ながらも、私の体は動かなかった。逃げろと誰かが言っているのに。ひぐらしの声、川のせせらぎ。何もおかしくはない。ただ目の前の虎だけが異質だった。
「宇宙人は誘拐に来たの?」
「いいえ。ただ、戻ってほしいだけです」
「私の戻る場所はここ以外ないよ! だって子供が親から離れるなんてできないでしょ」
「あなたは子供ではない」
私はまだ小学生で、どこに逃げるなんてできっこない。田舎の小学生だ。ただの子供だ。どこにも行けない。けれど目の前の虎は私を子供ではないと言うのだ。その言葉に違和感を抱かなければいけないのに、何故か心の片隅では納得している。
「私家に帰る」
「もう帰れない。あなたは」
「なんでそんなこと言うの。悪い人だから?」
「……違います」
虎は私の目の前に手を差し出した。じゃり、と小石の擦れる音を聞いて体が動いた。私は背を向けて駆け出した。
家へと向かって走り続ける。所々立つ民家には明かりが灯ってはいなかった。もう夕暮れなのに、帰り道を歩く子供や大人を見かけない。車だってひとつも通らない。違和感と走り続けているために心臓がばくばくと早鐘を打った。
家に辿り着く。明かりはやはり灯っていない。玄関から家の中に入るが、何の音もしない。
「お母さん! じいちゃん! ばあちゃん!」
居間に向かうが誰もいない。昼間あった兄の姿も縁側には無かった。家中探し回っても誰も居ない。廊下を歩きながらぶつぶつと家族の名前を呼んだが、返事はない。
「なんで、なんで」
「ミツミさん」
「ひ」
思い切り振り返る。あの虎の姿があった。後ずさると目を細めて寂しそうな表情をした。けれど、今は気にしている場合では無かった。怖くてたまらなかった。
「帰りましょう」
「私の家はここ!」
「あなたの家ではもうないんです」
距離を詰められぎゅっと抱きしめられる。逃れようともがくが子供の力では意味を成さない。叫びながらじたばたと動くが、虎は離してはくれなかった。
「ミツミ、あなたはもう帰れない。あの惑星には、アースには」
「やだ! 離してよ! 離せ馬鹿!」
「ミツミ、あなたにはもうヒューノバー・マルチネスしか居ないんだ。諦めるんだ」
うえええ、と弱々しく泣き声を上げると、ゆっくりと虎が離れていった。しゃくり上げながら立ちすくんでいると、虎は左手を差し出した。黒い石の着いた指輪を嵌めていた。ばしりと払い除けたが再び手を差し出される。
その手を取ってはならないと叫びが聞こえるのに、泣きじゃくりながらもう縋るものはない私は、その手に手をゆっくりと重ねた。手が震えていた。怖いもの見たさもあったのかもしれない。
瞬間、全て思い出してしまった。私は子供じゃあないこと。ここは、夢想の世界だと言うことを。
「ヒューノバー……」
「はい、ヒューノバーです」
先ほどよりも視界が高くなった。ひぐらしの声がうるさい。窓から入り込む夕焼け空の色がヒューノバーを照り付けている。
私はもうここへは帰っては来れないんだ。それを思い出して、片目からぽろ、と一筋だけ涙が溢れた。泣き喚いた今、もう意味も成さないが。
「私の内なんだね。ここは」
「はい。……酷なことを言ってしまい、申し訳ありません」
「仕方ないよ」
だって私は喚びビトなんだから。使命を果たさなきゃいけないんだから。
周り全てが懐かしい風景で、二度と戻れないそこから目を背けるように俯いて言い訳をした。
「……多分、次以降は意識を保ったまま受け入れられるでしょう。喚びビトの方は力が強いですから」
「そう……」
「思い出すのがつらいですか」
「うん……」
しゃがみ込んで手に持っていた糸を手繰って蜻蛉を捕まえた。糸をちぎると蜻蛉は空高く飛んで行った。
私も、故郷との縁を切るべきだ。進むべきだ。
「泣いてばかりでごめんなさい。私、ちゃんと務めを果たすよ」
床を見つめながら、ヒューノバーにそう告げる。ヒューノバーの動く気配がしたと思えば、背にヒューノバーの腕が回った。
「忘れられる訳がないんです。だから、思い出したって悪いことではない。あなたはきっと大丈夫。自分も、俺も居ます。ずっと居ますから」
「うん」
「抱えたまま前に進むことだって出来ます。思い出ごと全部捨てろなんて、そんな酷なことは言いませんから。俺に話してください。ここの思い出も、今まで全部の思い出。一緒に抱えますから」
「……ありがとう」
もう大丈夫。そう告げるとヒューノバーが離れていった。少しだけ寂しさを覚える。ヒューノバーはいつもの抜けた笑顔が顔に浮かんでいる。
「私に潜ってもらえば、またここに来られるかな」
「恐らくは」
「練習がてら潜ってね、ヒューノバー。……私、諦め悪いから、まだ全部忘れられる気がしないし、挫ける時もあるかもしれないけれど、たまに一緒に思い出してほしい」
「自分で良ければ」
ヒューノバーが手を差し出す。頭の中に警鐘はもう鳴らなかった。その手を取ると、ぐん、と体が引っ張られる感覚。揺れる感覚に目を瞑れば緑色の光が見えた。
目を開ければ、潜航室だった。心理潜航する際に使う部屋。真っ白な部屋の中に私は診察台のようなベッドに横になっていた。顔を横に向ければヒューノバーが椅子に座り込んで目を瞑っていた。ゆっくりと目が開く。深い青い瞳がこちらを捉えた。
「気分はどうですか? 違和感とか」
「これと言っては」
「初めてでしたから思い出深い場所に現れたようですね。今後も訓練していきましょう」
「……うん」
診察台から起き上がり、靴を履く。立ち上がると鏡、ではなくマジックミラーに自身の姿が写った。この奥は監視用の部屋になっているとヒューノバーから心理潜航前に説明を受けた。麻酔用の医療機器もこの部屋の隅に置いてある。暴れる潜航対象者に使うことがあるらしい。
監視室に繋がる緊急時用の扉もあったが、それとは別の潜航対象者用の自動扉から廊下に出た。
「今日はこれで終えましょう。部屋まで送ります」
「はい」
「心理内のように砕けた話し方でもよろしいですよ?」
「……うん、分かった」
心理世界では気が抜けてタメ口になっていたが、まあ今更取り繕う必要も存在しないだろうと砕けた口調に変える。
「ヒューノバー、また潜ってもらうときは、私の故郷案内するね。まあ何も無いんだけれど、田舎だから」
「長閑な場所なんて首都に居るとそう触れる機会もありませんから、楽しみにしておきます」
ヒューノバーと共に私に部屋の居住区まで送ってもらい、その日は別れた。
なんでもない夏休みの思い出。私にとってあれは幸福な思い出だったのだろうか。