逃げるとは
「すまない。ちょっと抑えられなかった」
握り込んだ拳を急いで解いて、軽く手を振る。ルーイがそれを見て、へへっと笑った。
ようやくたどり着いた食堂に入り、二人で座席に座る。それぞれに食べたいものを注文すると、ルーイは先程の話を続けた。
「アイシュタルトといれば、旅も楽そうだな」
「ん? どういうことだ?」
「道案内ってカミュート中じゃねぇの?」
「あ? あぁ。それほど隅々までとは思っていないが、ある程度は見てまわりたい」
「だろ? 街と街の間には森も砂漠もある。そこは獣が暮らす土地だ。無駄に殺す必要はなくても、襲われれば倒さなきゃいけない。そんな時は強い方が有利だからな」
「ククッ。私に倒せというのか?」
「えぇ?! 俺がやるの? いいけど、アイシュタルト、逃げるの得意?」
「逃げろというのか?!」
ガタン! と興奮して声を荒げると同時に立ち上がってしまった。椅子が大きな音を立てる。周りが私たちを伺う様な視線を投げる。
「お、おい。興奮するなって」
「す、すまない」
ガタガタと私が椅子に座り直すと、数秒の後、店内はまた通常の状態を取り戻す。
「逃げろとは言ってないだろう? どこにそんなに興奮した?」
「ルーイが逃げるのが得意か聞くからだろう? 私に逃げろと言っているのかと思ったのだ」
大きな音を立てたことで、周りの注目を集めてしまった私たちは、先ほどよりも少し小さな声で話をする。
「だって、俺が倒せるわけねぇだろ?」
「この街へ別のところから来たのだろう? 森も砂漠もあると言ったではないか」
「言った。だけど、そこで俺が獣を倒したとは言っていない」
「たしかに。それで?」
「俺、逃げ足速いんだよね」
ルーイが得意げにふふん。と鼻を鳴らしてそう言った。
「やはり、逃げるのか!」
「落ちつけって。俺は逃げる。アイシュタルトは戦えばいいだろ?」
「な、なんだそれは」
「俺は逃げることに抵抗ない。アイシュタルトは倒せるぐらい強い。それなら、そうするしかないよな」
「私が倒してやる。だから、目の届くところにいてくれ。守れなくなる」
「おぉ! やりぃ」
ルーイが運ばれてきたパンとスープを口に運びながらニヤッと笑った。
「はぁ」
私はため息をついて、口に入れようとしたパンを皿に戻した。
「何? いらねぇの?」
「そんなこと言っておらぬ」
「アイシュタルトは逃げるの嫌なの?」
「普通嫌だろう。そもそも、騎士に逃げるなどと言ってくれるな」
「騎士?! って、アイシュタルトが?!」
「あぁ」
「うわ、まさか、騎士様だなんて」
ルーイが頭を抱えて、机に伏せた。騎士ではダメだというのか? カミュートではあまり歓迎されない職なのか?
「おい、どうした? 何か問題だったのか?」
「い、いや。話し方から城の関係者だとは思ってたさ。でも騎士様だなんて思ってなかった。せいぜい門番ぐらいのことだと」
「騎士ではよくないということか? 門番の方が良ければそれでも良い。どうせもう関係のないことだ」
「良すぎるんだ……で、ですよ?」
「は? 何だ?」
「そん、そのように、城の中心にいる、いらっしゃる方が、こん、このような……」
「よくわからぬ。きちんと話してくれ」
「あー! だから、そんな城の中心にいるような人が、こんな所でメシ食ってて良いのかよ!」
「良いだろう?どこで食事をしようが、私の自由だ」
ルーイが目を見開いて私を見る。驚かせてしまったようだが、何に驚いたのかがわからない。
どうやらシャーノ国とカミュート国の間、もしくは騎士であった私と平民であるルーイとの間には常識のズレがあるようだ。