食い逃げ男
私の横を通り抜けようとした時、その男の足が私の右足に引っかかった。
ズシャアア! 男は盛大に、まるで芝居の一場面のように転んだ。こうも見事に引っかかってくれると、引っかけたこちらもやった甲斐がある。
「ってぇ! 何するんだよ!」
男が座ったままその青い目でこちらを睨んだ。転んだ瞬間にナイフはどこかに飛んでいってしまったのだろう。男の手にはもう何も握られていない。
「何もしていない。君が勝手に転んだのではないか。ほら、立てよ」
私は転ばされた男に手を貸そうとした。私が差し出した手を素直に受け入れ、手を取り立ち上がろうとした男の手を、捻り上げた。
「痛! いてててて! 痛えよ! 何? 何?」
「お前を捕まえて欲しいって声が聞こえてきたんだ。捕まえぬわけにはいかぬだろう?」
私が男の腕を背中の方へ捻り固めた頃、捕まえてと叫んだ声の主が駆け寄ってきた。
「お兄さん、ありがとう!」
「いや、何のことはない。何かあったのか?」
その男の両手を掴んだまま、私は駆け寄ってきた女性へ尋ねる。その女性はすらっとした美しい女性ではあるが、姫と違い日に焼けた健康的な肌の色をしていた。
「その男、食い逃げしたの」
「食い逃げ?」
「えぇ。うちの大事な商品を手に取って、口に入れた。私が呆気にとられてたら、すぐに逃げ出して。立派な食い逃げでしょう?」
女性はその男のことを厳しい顔で睨みつける。
「たしかに。ところで何を食べられたんだ?」
「果物を一個」
「一個?」
「えぇ」
私は果物一個を食い逃げする男も信じられないが、果物一個のために髪を振り乱して男を追いかける女性のことも信じられなかった。
こんな女性もいるのだと、城内の女性たちを普通だと思っていた私はかなり驚いた。
「その代金、私が払う。だから、貴女はもう店に戻ると良い。女性がそのような顔をしていてはいけない」
「へ?や、やぁだ。代金払ってくれるなら、こっちはそれで良いのよ」
女性はそう言うと、私から品物の代金、銅貨一枚を手にして、店へと戻っていった。
「じ、じゃあ、俺もそろそろ……」
「お前を逃すはずがないだろう? お前は銅貨一枚で俺に買われた。せいぜい私の役に立ってくれ」
「銅貨……一枚」
「あぁ。それがお前の値段だろう?」
逃げ出そうと抗うも、私の手から逃げ出せるわけもなく、そのうちに男は不服そうにうな垂れた。ただの食い逃げがこんな事態を引き起こすなどと思ってもなかったようだ。
「ちぃっ! それで?! 俺に何させようって?」
「お前、カミュート国の地理に詳しいか?」
「地理ぃ?」
「お前、この街の者じゃないだろう?」
先ほどこの小さな街で店屋で働いている女性が、まるでこの男のことを知らないようだった。年齢もほど近そうに見える二人が同じ街に住み、全くの見ず知らずということはないだろう。この男が他所からこの街にきたのであろうことは容易に予想がつく。私がこの男に頼みたいのは道案内だ。
「ま、まぁ」
「だから、地理を、道を教えて欲しい」
「道って……何でしらねぇの? それに、地図があるだろ?」
「地図ではわからないものを知りたいからだ。カミュート国の情勢、文化、生活。そういったものは地図ではわからぬ。だが、知らねば困るからな」
この国で生活するのであれば、兵としてこの国を守ろうとするのであれば、表面だけではなく、この国のことを知らねばならない。さもないと私はシャーノ国と比べてしまうだろう。私が生まれ育ち、最愛の人と出会えたあの国と。そしてその心はこの国を守るための私の剣を鈍らせるに違いない。