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いまはまだ、白でも黒でもなく…….1


 深く根をはる種類の草木(異物)をうけつけない野原に、ぽってりと、とり残されたように形成されている(うずたか)いしげみ。

 ——《空白(くうはく)(えん)》——

 それは、うっそうとした森に(かこ)われて存在する《千魔封じの丘》にあって。
 《神鎮め》の本拠地を遠隔的にとりまくようにして、ぽとぽとと(まば)らに散らばっている。

 青磁色の髪の少年は、一五〇歩ほどで外周をひと(めぐ)りできる最小規模の樹林のてっぺんにどっかり仰臥(ぎょうが)して、まっさおな空を見あげていた。

 目を地表に向ければ、なだらかなようでも起伏の少なくない緑色の原っぱの中央。
 なだらかな小山のようなせり上がりを見せる丘の(いただき)に、蘇芳(すおう)色の屋根が組まれた白っぽい家屋の(つら)なりを見いだすことができる。

 その家なみと遠く外側をとりまく森林地帯——

 最終的に、どっちへ行くべきなのかを彼は迷っていた。

 逃げるなら、いまのうちだった。

 あれこれ探られて(あば)かれてしまう前に、行方を眩ましてしまうのが最良の策。
 現状からの解放、身の安泰にして勝利…——逃げるが勝ちというものだ。

 けれども…、

 彼。セレグレーシュは、その蘇芳色の屋根。朱鷺色の壁面を備えた家なみに未練があった。

 法印技術を学べなくなってもいいから、あの場所にいたい。あの屋根の下にいないと会いたい友人に会えなくなる…。

 やり残したことがたくさんある気がしていたし、その人を捜しに外にくりだしても見つけられないまま、結局はそこに戻ってくるような……そんな予感がしているのだ。

 ヴェルダには(きび)しい一面もあった。

 技術と知識を身につけて大成できたら、ひょっこり姿を現したりするのかもしれない…——そんな思いつき……望み(きぼう)が思考を掠める。

 法印技術を学べなくなり家にも居られなくなったら、いったい自分になにが残るというのだろう?

 ヴェルダはどこに住んでいるとも、どこの生まれだとも教えてくれなかった。
 だから他にあてなどない。
 それなのに――。

 いまそこに留まれば苦難に満ちた暗い未来しかない気がするのだ。

 先があるとも限らない。

 生きようと思うなら出るしかない。
 生きていてこそ、会いたい人にも会える。

 理性はその組織から離脱することを選択しているのに、セレグレーシュの心は、まだ迷いを抱えていた。

 わしゃわしゃ……ちくちく…。

 どこからどこまでが、ひとつの植物かもわからない深緑。

 (みつ)(から)みあう枝と葉と(つた)の重なりが作りあげる天然の絨毯(じゅうたん)()もれながら、彼は重苦(おもくる)しくも(にが)いため息をつく。

 強すぎる生気が吹きだし半球状に循環しているので、その内部は鳥どころか虫さえも寄せつけない。

 生態系の枠組みから外れて存在する《空白の円》。

 奇怪な力を備えながら、法の家に居つづけようとする自分も排除(はいじょ)されるもの。

 害虫同然の存在なのかもしれない…——

 そんな、らちもない考えがよぎって…、
 うだうだ思い悩んでいると、感慨をよびおこす(なつ)かしい響きが右下から届いた。

〔そんなところにいて、気が狂わないか?〕

 よく、似ている。

 同一(どういつ)に思える。
 大切な友人がどんな声をしていたのか、まぎれてわからなくなるほどに……。

 しかしそれは、闇人が使う言葉だ。

 セレグレーシュは、むっつりと口を(とが)らせて上半身を起こした。

 予測したとおり。
 眼下には、緑の小山を見あげる金茶色の髪の少年の姿があった。

〔おまえこそ…。そんな地面によく平気でいられるな〕

〔異物をとり込んだ氷のようなものだ。(くだ)かなければ、うるさいこともない。むしろ静かなくらいだ〕

 そこで用心深く周辺に視線をはせたセレグレーシュは、ほっと肩の力をぬいた。

 緑のしげみのそばで草を食んでいる葦毛(あしげ)牝馬(ひんば)がいるが、それは自分が乗ってきたものだ。
 稜威祇(いつぎ)の少年のほかに、人の気配はない。

〔そんなところで、なにをしている?〕

 改めて、ここにいる理由をたずねられた。

〔なに、って……〕

〔家にもどらないのか?〕

(こいつは…。オレを追いだしたいのか、家に置いておきたいのか、どっちなんだ?)

 知られれば抹殺されかねない作業を示唆(しさ)したかと思えば、家に残ってほしいようなようすも見せる。

(やっぱりオレ、こいつがわからない…)

 再認識したセレグレーシュは、そこで、ぼそぼそと相手の追及を無視して独りごちた。

「馬は…帰さないとな――」

 いずれにせよ、一度は家に戻るつもりだった。

 できるなら着替えやこまごまとした生活用品を持ちだしたいと考えていたし…。
 そのうえで後腐れないよう、《法具》と名のつくものはすべておいてゆく。

 出て行くしかないのなら後追いされたくないので、一般に流通しているレベルのものまで、きっちりと。

 もたもたしていたら待ち伏せされかねないのに、足を止めている。
 セレグレーシュがいまこうしていられるのは、法印を構築しているだろうアントイーヴたちが家にもどり、事情が知れて判断が下されるまで幾許(いくばく)かの猶予(ゆうよ)があるからだ。

 彼らが、さっさと仕事を済ませ、急いで帰還しないとも限らない。
 稜威祇(いつぎ)の少年が、そこにいる事実から考えても時間の問題なのかもしれなかったが、それでもここにいたのは、現実を冷静に見つめて考える時間が欲しかったから。
 未練を断ち切り、行動する覚悟を確かにしたかったからなのだ。

 どんなに気が進まなくても、そうする以外に道はない。

 結論は、すでに出ていたのだ。

〔まだ情勢は決していない。危うい(きざ)しを見たら、われが逃がしてやろう。しばらく静観してみたらどうだ?〕

 セレグレーシュは、重々しいため息をついて相手を見おろした。

〔おまえ、なんで、そうオレにかまう? 呼んでほしい仲間でもいるのか? 悪いけど、オレ。いちいち相手を選ぶことなんかできないぞ?〕

 彼を見あげていた稜威祇(いつぎ)の少年は、ふと、その視線を《空白の円》のはじまりの(ふち)の緑におとした。

〔君は……あの場所がどのようにあるのか(を)知っているか?〕

(…あの場所?)

 どこを示して言っているのか、とっさに予測つけられなかったセレグレーシュが、もの問い顔で相手を見おろす。

〔闇人とは、闇から来た人型のものをいうのだろう? いつからか人は、そう呼ぶようになっていた――…〕

 相手がうつむきがちに話しているからだろうか? 
 そのしめやかな物言いには、短くはない歳月を感じさせるところがあった。

〔あの場所には濃密な闇しかない。時の流れもないのかも知れない…。そこにある者は、身動きひとつ出来ぬまま永劫の闇に閉ざされて存在し、時に変貌しながら、心だけが時を刻む。…――いつからそうあったのか、わからなくなる。いつまでそのように存在するのかも……。あれは漆黒の無慈悲な監獄だ〕

〔…そう、なのか?〕

〔そうだ〕

〔でも…。そうだとしても……〕

 どこまでも憶測の議論だ。

 セレグレーシュがその種を呼びこむ時、かいま見るのは、その空間の部分部分……見いだした闇人の近辺に過ぎなかったし、(じか)に足を踏み入れたこともない。

 実態など知らないから把握できてはいなかったし…――その場所がどうあろうと肯定も否定もしえないはずだった。
 …――それなのに、

 傷つく理由なんてないし、思いあたるような(いわ)れもないのに、どうしたわけかセレグレーシュは、相手の言葉……その評価にひどく衝撃(ショック)を受けていた。

〔それは…――別の世界のものだろ。人間の側からすれば無差別に呼ぶわけにもいかない。むこうのやつらだって……〕

 意気消沈しながらに繰りだされた(セレグレーシュ)の反論は、歯切れが悪く、力がなかった。

〔変容することがわかっていようと、あの空間にいるよりは、マシだろう。こちらに味方した闇人の恩義の宿根は、そのあたりにあるのだと思うが…。…――〕

 稜威祇(いつぎ)の少年は、暗く、感情をおし殺すような目をして、後の言葉をのみこんだ。

〔おまえも、むこうで生まれたのか?〕

〔あの闇がそれなら……。いたことはある〕

〔おまえを呼んだのも、オレなのか?〕

〔それは違うが……〕

 紫色だった少年の目に、一瞬、飴茶色の光がよぎった。

〔われは人に呼ばれてここにあるわけではない――…〕

 静かに告げたその口から、さらに、ぽつりぽつりと。疑問の提起ともつかない彼の所懐(しょかい)がこぼれだす。

〔闇人が……。出てくる者すべてが、純粋に向こうのものとは限らないだろう…。その昔、《人神(ひとがみ)》と呼ばれた存在とも…。《シル・シャエト》は失われ、((シル・シャエト)が)あったとされる土地は、白い氷壁に囲まれ極寒に凍ることのないあの湖だというけれど……実際は、どっちがどっちなのか…。事実、そこにあったのか…。現実に街が消えたのかだって……〕

 唐突に生じたわずかな静寂。

(……しる、しゃえと……? 極寒……凍ることのない湖……消えた街…?)

 沈黙の中にセレグレーシュは、その人の言葉の意味を考えた。

 そこに芽生えた複数の疑問・情報が、彼の中で明確な形をとる前に、次の提案がくりだされる。

〔もどらないか? この件で君が追われるようなことがあれば、われが逃がしてやろう。身の安全を約束する。われの名にかけても〕

〔…。鎮めになれってか?〕

〔そのようなことは、どうでもよい〕

(よくないぞ! まぎらわしい)

 セレグレーシュがぷっくりと頬に空気をふくんで睨みつけると、それを上方(じょうほう)に見た稜威祇(いつぎ)の少年は、くすっと相好(そうごう)をくずした。

 以前頻繁に目にした愛想過剰な作り笑いなどではなく、とても自然で、その裏にどんなものだろうとすべてを許し認めようというような穏和な諦観(ていかん)……大人びたやさしい思いがありそうな…――。

 錯覚に違いないのに、そのありかた、態度(姿勢)は、とても、セレグレーシュが知っているヴェルダ(存在)に似ていて…。

 懐かしさをおぼえる光景……雰囲気(空気)、印象でもあって……。
 逆らい難い感慨を呼びこされた彼は、おのれ自身の精神(こころ)を死守するために、命いっぱい意固地さを発揮した。
 間違えたくないのに、間違えてしまいそうなのだ。

〔不服そうだな〕

〔あたりまえだろう!〕

〔では()くが、われが〝成れ〟といえば、成るのか? そんなことはないだろう。君は自身のことを、自分で決めてゆく人間だ〕

 それと決めつけた稜威祇(いつぎ)の少年の声には、冷厳ななかにも、おもしろがっているような響きがある。

 そして、そこに見たその少年の表情は、またもや。セレグレーシュの記憶のなかに()もれている人物の面影を思い起こさせたのだ。

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