バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

愁傷 そして…….3


〔ここで退()いておけ。退()かぬなら覚悟しろ〕

 鋭くも冷めた表情とは裏腹に、やたら悠揚(ゆうよう)と響いた警告のもと、ふっつ……と。
 セレグレーシュを包囲していた炎のカーテンが一息(ひといき)(ちぢ)んで()せた。

 ぐるりと周囲の地面から立ちのぼった黒煙が、セレグレーシュを()けるような動きをみせながら広がり散っ(拡散し)てゆく。

 いっぽうでは、不意をつくようなタイミングで稜威祇(いつぎ)の少年を見舞ったものがあった。

 スュサッ……。
 それは鋭く空を裂くもの——

 どこからともなく出現すると瞬間的に渦を巻き、四方八方から少年稜威祇(いつぎ)に襲いかかったのは無数の水の刃だ。

〔…――っ〕

 稜威祇(いつぎ)の少年は、思わぬ方面から加えられた攻勢に瞬間的に眉を寄せ目を(すが)めたが、冷静さを(うしな)うことなくそれに対処した。

 これと大きな動作をみせることもなく、その部分を視覚でとらえるだけの所作だったが……。
 水の刃が自身に届くより先に、ことごとくうち(くだ)く。

 さらには霧のようになるまでばらばらにした水の粒子を白く耀(かがや)く高熱で(あっ)して押し返す要領で瞬時に気化する。

 じゅぅっという、不穏な音を聞きつけたセレグレーシュが、その方面を正視すると、液体が熱に散らされ気体に変化する音がしたあたり。白い光にさらされた蒸気が、もくもくと立ち昇っていた。

 セレグレーシュには、そこに立っている人物()がなにを見ているのかわからなかったが…――。
 光るもやの中にいる稜威祇(いつぎ)の少年の注意は、その身の右手後方。
 少年()自身が動かないよう、その意欲(能動性)(くら)まし、(とど)めおいていたはずの存在へ向けられていた。

 距離にして、七〇メートルほども離れているだろうか……
 稜威祇の(~その~)少年が視界の外に意識し、捕縛している人影。
 それはいま、うっすらと伏目かげんにまぶたを(ひら)き、ふるふると小刻みに身体を震わせている。

 芒洋(ぼうよう)とした意識状態のなかに干渉されている兆候気配(ちょうこう・けはい)をさとり、自身に(さわ)っている気脈をたどるようにして、なけなしの攻勢に出たのは女稜威祇(いつぎ)ではなく、そっちの男だったのだ。

 こちらへと駆けだして()もないアントイーヴが足を止め、変化の感じとれた男の状態をふり返り見ている——それを肩越しに一瞥した稜威祇(いつぎ)の少年は、つぎにセレグレーシュの無事を視界の端に確認するともなく、女稜威祇(いつぎ)に注意をもどした。

 彼がセレグレーシュと女稜威祇(いつぎ)(ほう)へ向きなおった時には、その右——はるか後背にいる人影がみせていた微妙なゆれが、ぴたりとおさまっていた。

 そんな最中に(なか)。少年稜威祇(いつぎ)のまわりで、じゅうじゅういっていた熱い蒸気が霧散(むさん)してゆく。

 夜闇の中に太陽を(いだ)く白雲のごとく飽和して見えたその気化熱(きかねつ)は、わずかながら、統制の(ゆる)んだ法印の中にいるセレグレーシュの近くまで流れ届いていて……。
 あやうくも思える光景を目撃したセレグレーシュは、熱の残存する地面を蹴って、走りだしていた。

 光る(モヤ)の消失とともに、そこにいた少年の姿も闇にしずみ、見えなくなってしまった。
 とり乱すでもなく、しっかり立っているようでもあったが無事なのだろうかと。

 暗くて、ほとんど視界がきかないので、いっそう不安になる。

 セレグレーシュの動きに()黒い玉(法具)が、その足もとや周辺の空中を行き()う。
 そんなふうに駆けて行く彼の左側面――わずかに距離をおいたあたりで。
 突如(とつじょ)
 いずこからともなく生じたまっさおな火焔(かえん)が、爆発的な勢いでふくれあがった。

 セレグレーシュに襲いかかりそうに見えたその奔流(ほんりゅう)は、彼まで、あと二歩というあたりで高く立ちのぼる火柱と化し、彼のはるか頭上へ流れ、追いぬいて、発光するシルクの(おび)のようにたなびいた。

 あたりが一瞬にして青白く染まる。

 まばゆい光がふりそそぐなか。
 稜威祇(いつぎ)の少年は微動だにすることなくセレグレーシュの左に立ちあがった炎を見ていて、
 光源でもあるその青白い(ほのお)が流れゆく先端のほうをうかがい見れば、森のはじまりに届きそうなところで、たち消えている。

 真夜中の闇をはらって、一帯(いったい)をさらしだす青白い火焔(かえん)のヴェール。

 頭上をぐるりとあおぎ見たセレグレーシュは見なれない光景に、あぜんと口をあいた。

 ついさっきまで彼を包囲していたものとおなじ(ほのお)のようなのに熱くはなかった。

 石碑(せきひ)の地の一区域――彼の頭上に断熱性(だんねつ)の高い半球の遮蔽物(しゃへいぶつ)――ドーム状の高い屋根でも存在しているような感覚だ。

 セレグレーシュが天上にゆれるかがやきを見あげていると、それは発生している根もとの方から薄れはじめ、前後左右から勢いを失うように縮小して消失した。
 とたんに、あたりが暗くなる。

 強い光を見た両目に白っぽい|残映(ざんえい)がはりついている――セレグレーシュは、なかなか暗さになれない目をぱちぱちさせた。

 経験から闇人や妖威に関わると、非常識な現象を見るという認識はある。
 なにがどうだったのか……。
 彼は理解できていなかったし、理解しようとも思わなかった。

 とにもかくにも、それと定め見た少年のもとをめざす。

 暗がりに立っていた相手に、あやうく衝突しそうになりながら彼は足をとめた。

 ほんの短い距離で息がきれたが、現実にほんろうされ目と感覚が冴えきっているセレグレーシュにそこまで疲労している自覚はない。

 彼が自分についてきていた黒い玉をひとつ持ちなおすと、つかず離れず奔放(ほんぽう)な動きををみせていた残りの球体もその手の周辺に(むら)がってきた。
 そこには、セレグレーシュの心力を活力として空間に作用する法具と呼ばれるものの不思議な力関係があった。

〔もつかどうか……ぅくほっ…。わからな……けど…、なか、入るか?〕

〔いや。自己防衛して休んでいてくれれば、(たす)かる〕

〔……そうか?〕

 過去には接触を(はか)ろうとして逃げられたことがあった。無視される覚悟だったが、答えは返ってきた。

 ほっとしながらセレグレーシュは、変に(かわ)いてひりつく(のど)と、指輪をなくして、すかすかする右手中指を意識しつつ自分のまわりの空間に探りをいれた。

 次いで後ろに残してきた女稜威祇(いつぎ)のことを思いだして、彼女がいると思われる(ほう)をふり仰ぐ。

 強い光を見た直後なので、眩惑(げんわく)された目が本来の機能をとりもどしていない。
 視線を向けたポイントは、なかば以上が直感——(かん)だった。

〔おい、君も来いよ〕

〔あれを入れてはならない〕

〔…。なんで?〕

(ほのお)を生みだしているのは、あの女だ。入れるくらいなら築かぬほうがよい〕

〔え……、でも…〕

 女稜威祇(いつぎ)が加害者に対向しようと(はな)ったのは青白い火炎——そんなことはセレグレーシュにもわかっていた。

 同質の炎を彼女が(もち)いるのを過去にも見ている。

 けれども今は、はた迷惑な妖威が気流で圧倒し、彼女が生みだした炎を(うば)いとって、あやつっているのだと思いこんでいた。

 大気の流動は、もう髪の毛の先にも感じられないのだけれども……。

 いったん法印を形成する手を(やす)めたセレグレーシュは、これと思う(ひと)がいる方へと向きなおる。

しおり