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魔神招来.4


 逃げこんだ森は、ここへ来るときに使った道と一二〇度ほども方向が違っていた。不安もよびおこされたが、いまさらで……。

 とにかくいまは、あれから逃れられさえすればいい——結果がどうなろうと、後のことは、その時になってからだと。
 そういった判断のもとに体を動かす。

 そうして、あたりを意識してみれば、いつかしら不自然なひずみを()びて地に沈殿しているようでもあった大気が、重々しく、ゆっくりと対流をはじめていた。

 ひゅぅひゅうと、気流がおこす口笛のような音が遠くや近場から聞こえ……、

 流れだした空気が一帯の木々をゆすり、突風があちこちにうまれてうなりだす。

 静かな星の夜だったのに、天候が急変したのだ。

 夜闇の中。

 足もとの危うさに(つまづ)いたり、よろめくのは(まぬが)れなくとも、(ころ)げて負傷したりしないよう感覚を研ぎ澄ませ、目を見ひらき暴風にめげることなく移動をつづけ……。
 先へ進むほどに速度をおとしていたセレグレーシュの足が、にわかに歩調を乱して止まった。

 その場立ちに自分が来た方角をふりあおいだ彼は、そこに見える範囲のさらに先を意識した。

 周囲の空気が、怪しくざわめいている。

 前後左右。対流する風が騒音をしぼりだすなか、ぎしぎし、めきめき……

 さらには、ばきっ、ばしゅっ、ぺき…と。翻弄される木々の悲痛な音が、いたる方面から聞こえている。

 無秩序に衝突しては絡みあう大気。
 発生と消失をくり返す気流のうずが、木の葉をあおり、ひきちぎり、ばらまいていた。

 自然現象でないことは明らかで、彼がいる場所もまだ安全とはいえない。けれども……。

 文化にうといところを見せていた連れがどうしているのか――。

 遅ればせながらその人のありようが想起されて、このまま置き去りにして逃亡する行為にためらいをおぼえたのだ。

 敷物のそばには、いなかったと思う。

 異変に気づいて逃げた後なのかもしれないが、あの、おっとりした行動パターンを考えると、そうとわりきることもできない。

 おそらく…――。
 審査官としてついてきた女性は、誰かに呼び出された闇人——

 さほど親しいわけでもない。

 生きるだけでいっぱいいっぱいだった以前の彼なら、迷わず放置してゆくところだ。

 けれども、

 処世術を知らない幼子を彷彿(ほうふつ)とさせるその人のつたなさ、頼りなさがセレグレーシュの心を騒がせ、そこに留まらせた。

 必要からともにあっただけとはいえ、彼女も法の家の関係者である。

 暫定的ながら無自覚の仲間意識——さんざん面倒をかけられたことで生じた保護意識のようなものがないわけでもない。

 ほんの駆けだしでも心力だけなら玄人以上という評価をいただいて、《法具》という得物を手にするようになった彼には、まわりをより広く見るゆとりが芽生えていたし、

 法具がなければ、ほとんどただの人(・・・・)で……。
 前線に立つには多くの課題をのこし、力ある者の補助を必要とする法印使いだが、無力ということもないのだ。

 性質的にその圧倒的な力に対抗する(わざ)……(すべ)を備えている。

 《法の家》では、こう教えている。



 ——闇人は、異郷からの渡り人にして人が招いた客人…——
   その力の一端は、その種がこの地におりたことによる負荷や摩擦、変容によって生じるものと予想される。
   その只人ならざる彼らが持ちうる能力・容量、可能性、性質に個体差はあれど、具象化する技・表現が、この世界()の素材を(もち)い、それに制限されるものであるかぎり、
 ――《坤與(こんよ)摂理(せつり)》には説き伏せられる…。



 法の家がいう《坤與(こんよ)の摂理》とは…、

 《カナイ》と呼ばれる一族を主な起源・(にな)い手として、古くから人間が解き明かそうと手がけてきたこの世界や物質の性質。

 ここに生をうけた者が干渉し得る近接次元——三次元を基軸に展開する多次元における基礎構造。
 闇人をこちらに招いた技術にも通じるという、法印技術の基盤となるものだ。

 人は、生まれたこの世界のありよう、規則性・構造・物資を味方につけて、その圧倒的な力に対抗している。

 彼が使える初歩の技がどのていどまで有効なのかはわからない。

 知識には不明がつきものなので、現実はきっと家が教えている理解の限りでもないことだろう。

 この選択は、自殺行為といってもいい無謀なのかもしれなかった。
 けれども――

 彼が編めるのは、内にあるものを保護する防御系の法印だ。
 多少の攻撃なら耐えるし、このくらいの風なら容易(たやす)遮断(しゃだん)できる。

 いざとなったら法印を組みあげれば——…

(なんとかなるかもしれない……そうだ。とにかく、逃げるタイミングを間違えさえしなければ…――)

 気になって仕方ないならば、こうして足を鈍らせているよりは一度もどる――それで連れを見つけられなかったら、そういう(そうゆう)めぐり合わせだったのだと割りきって、再び逃げに転じればいいだけのことだ。

 くるりと方向転換したセレグレーシュは、暴風が吹きすさぶなか、こそこそと木立の合間を小走りに駆けぬけ、もといた空き地付近まで歩みもどった。

 森が途切れる直前でその足をとめ、木々の狭間(はざま)から石碑がある空き地の様子を注意深くうかがう。

 彼が心配している相手は、稜威祇(いつぎ)…——闇人である。

 ふってわいた類縁に対処できる能を備えているかもしれない。

 しかし、
 どっちが(まさ)るのか。優勢を勝ち取れるかとなると、わからなくなる。

 暴れている存在がどんな性格なのかも、どうして(たけ)っているのかも不明なのだ。

 目をつけられれば、逃げることもかなわなくなってしまうのかもしれない…——

 まだ逃げきれたわけではないので、それは、いまの自分にもあてはまることであったが……。

 やけくそになっているつもりはなくても、気分的には〝(まま)よ〟という場面だった。

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