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旨意錯綜.5


 日が(かたむ)き、あたりの明度が落ちてきた。
 薄闇の中にとりのこされた女稜威祇(いつぎ)は、連れの少年が使っていた道具のひとつを手にしてみる。

 白濁(はくだく)した半透明な真ん丸。

 暗くなると、あるのがあたりまえだった球形の照明は、彼女が持ち上げても少しも反応しない。

 おもしろくなかったので、その場立ちに手放すと、それは、ぼてっと地面に着地した。

 目障りなので、軽く足先で小突く。すると白い球体は、ころころと雑草が群生する地上を移動し、木の根にゆく手を(さえぎ)られたところで、ようやく動きを止めた。

(――明かりくらい(とも)して行きなさいよ…――)

 役にたたない法具を横目に。

 言いあらわしようのない不安に駆られた女稜威祇(いつぎ)は、自分のテリトリー(地面に広げられている敷物の上)に逃げ込むと、周囲に青白い炎を(はな)った。

 ぐるりと。

 彼女を中心とする中空……膝ほどの高さに、半径一メートル半あまりの青白い火焔の円が息づき、消えることなく維持される。

 彼女がいるあたりだけが明るく(さら)しだされたが、それより外側は、いまも(はら)いのけようのない闇に支配されていた。

 解放的すぎて、つかみどころがない。

 どこまでも続いて把握しきれない果てが、いまの彼女には、ことさら遠く感じられた。

 朝、昇った太陽が、夕方には大地の裏手に移動して沈み、日が暮れると闇がおりてきて、遙か遠方(えんぽう)に散らばる星々がまたたいて見える世界。

 遠いむかし…――たしか、闇に覆われる以前。
 夢うつつに眺めていたものと同じようなのに、比較しようがないほど距離を感じる天空……。――かつては、どこまでもあいまいで、そんなふうに奥まで見ようとも、見えるとも知らなかったもの。

 ここほど明るく鮮明にも、暗くなることもなくて、時季によっては、ほとんど灯りが絶えることがなかった街の賑わいと静寂……。

 めくるめく変化をみせた人がおりなす人里の情景。

 こっちでは、手も足も動かせる。
 移動もできて、(かが)もうと思えば屈めるし、声も出せる。

 見ようと思えば、遠くや壁の向こう側も見えてくる。生みだそうと空間を刺激すれば、青白くひらめく灼熱(しゃくねつ)(ほのお)だって……。

 思うように動ける現実はことのほか安楽で、特に抵抗を覚えることもなく順応し、受けいれることができていた。その筈なのに……。
 ここに感じられる世界はあまりにも希薄で…――。

 自由過ぎて、どうにも心許(こころもと)なくなる。

 法の家にあれば、ひとりで行動していても、敷地内を行き来する多くの人の気配があった。

 道中は、常に連れの憎たらしい少年がそのへんにいた。

 その少年が出かけた後しばらくは、置いていかれた不満と不服をうったえるおなかの減り具合に気をとられて気づけずにいたのだ。けれども……。
 あたりの明度が落ちるとともに、実感してしまったのだ。

 知らない場所で、いま、彼女はひとりだ。

(わたし…ひとりは嫌い……)

 それまでは、そんなふうに自覚したこともなく…――。

 心細さに(さいな)まれた女稜威祇(いつぎ)は、逃げ込んだ敷物に腰をおろして両膝を抱えた。
 得体の知れない脅威から自分を守ろうと、身をまるめこむ。
 自前の青白い炎で自身を(かこ)い、(かば)われるままに。

 永遠に終わらないようにも思える静寂の中。
 じっと耐え忍んでいると、馬蹄が土壌を蹴る鈍い音が聞こえてきた。

 動くものが発する振動やけはいを意識しつつ……。
 心を閉ざし、身を縮めて無視を決めこむ。

 ほどほど気がすんだところ(ほとぼりが冷めたところ)で、おもてをあげる。

 そうして気づけば、青い火焔のむこう。

 いつの間にかそのへんに来ていた青白い髪の少年が、木の根元に転がっていた球形の法具を見いだし、ひろいあげていた。

 定位置に置いていたものが、草むらにあったからだろう。
 おもむろにチラと彼女を見た、そのしぐさが、こころなしか不可解そうだ。

 特にこれといった動作をしたわけではないのに、彼の手にある法具が、ほんわりと。熱をともなわぬ、やわらかな光を放ちはじめる。

 彼がもどって、安堵した。
 けれども、いま目にした現実。光景が彼女をいっそう不快にした。

 その少年は、彼女が手にしてもなんの反応も示さなかった球体をこともなげに(あやつ)れるのだ。

 その種類の道具を活かせる能……資質があるかないかの違いだが、そんなことはわかっていたことで問題ではなかった。

(はじめから()けていきなさいよ)

 彼が出かけた時は明るかったので、そうする必要などなかったのだが、そんな事実は、心細さにふるえていた彼女の頭にはなかった。

 今更ながら置いて行かれたことに対する怒りが再燃焼する。

 並行して、
 そのなじみある光があれば、少しはその孤独をまぎらわせたのにという強がりと不平も。

 つまるところ、やつあたり。癇癪(かんしゃく)なのだが。

 そんなこんなで、瞬時に必要を感じなくなった青い炎をうち消した女稜威祇(いつぎ)は、天の邪鬼にも屁理屈を口にした。

〔べつに。役にたたないからって、投げたわけじゃないわ〕

〔投げたの?〕

〔おなかが空いて、いらついてたのよ。目についたから捨ててやったの。待たせすぎなのよ〕

 攻撃的に言いはなった彼女の態度をどう解釈してか……。

 少年は球体を透過性のある厚手の固定皿に配置すると、(ともな)った二頭の方に足を向けた。

 そして、彼女のもとに戻ってくる。

〔…。食う?〕

 差しだされた紙袋は、大きいのがひとつと小さいのがひとつ。

 先に受けとった大きい方をのぞいてみると、甘そうな匂いが、ほわっと広がった。

 (ふと)()(なわ)状にねじられたパンが四本、はいっている。

 ふわふわに焼きあげられていて、あまり日保ちしない種類のものだ。

 いまはまだ相手の手にある小さい袋の中を透視(すかし見)してみると、二種類のクリームをふくむ、どこか(いびつ)なシュー菓子がふたつ、はいっているのがわかった。

〔いただく〕

〔ん。青じゃないけど、ユスラウメのジャムも(もら)ってきたよ? あと、蕎麦(そば)茶とたんぽぽ茶。珈琲も少し〕

 親切なようでいながら、ただの事後報告ともとれる気のない対応。

 不可解そうにしていて、にこりともしない。

 無言のうちに茶をとりだし、淹れて、女稜威祇(いつぎ)のそばに置くと、少年は、もう彼女のことなどどうでもいいような顔をして、購入してきたものを整理しはじめた。

 まとめ分けして、虫がつかないよう保護している。

 いま下手にかまわれても、あたりちらしてしまう自覚があったから、それはそれでいいのだが…。女稜威祇(いつぎ)は、そんな彼の態度に対し、心の内で不満を形にした。

(…無愛想な男…——)

 始終仏頂面(ぶっちょうづら)をしているわけではなかったが、第一印象からして、そうだった。

 すべてには応じてくれなくとも、話しかければ耳を傾けてくれる――…。
 すぐに動くともかぎらないなかにも、とり計らってくれる。

 気のままなようでも素朴で優しそうにも思えるのに、彼女()に対して過去になした(おこな)いは、横暴で身勝手だ。

 けれども……。

 彼女は、パンが入っている袋を見おろした。

(…。メル……。わたしは間違っているの?)

 静寂のなかに重なりあい、とぎれることのない虫の声。

 ざわめく緑。

 とおい羽ばたき……。

 生物の気配が、そこかしこに感じられる暗い野外。
 ひとつ。水晶合金の厚皿にすえ置かれている、まんまるの球体が、真夜中の野外に穏和な光をふりまいている。

 木立の手前に敷かれた湿気を(さえぎ)るシート。その三分の二を占領している模様あみのカーペットの上——。

 旅の過程で購入したクッションと上掛けにかばわれ(くつろ)ぐなかに彼女は、憎たらしい連れの男の動きを、そう遠くない場所に強く意識して…――ふいと、目を(そむ)けた。

 甘い結晶のくっついたパンをむしって、もくもくと口に運ぶ。

 あっさりとした甘さが、その口の中でひろがった。

 ふわふわしておいしいと。そうも思うのに、不思議と味気なく感じた。

(……この世界は、こんなに(にぎ)やかで、生きものであふれて……自由で明るいのに…。このパンだって、味わい(コク)があっておいしいはずなのに…。……)

 自分用のシートのはしにすわって、ひと息ついている少年の背中を視界に、彼女が思いおこしたのは別のおもかげだ。

(この現実を誰よりも喜んでいたあなたは……)

 腰までおりる黒髪を軽快にひらめかせながらほほ笑む、ひとりの少女。



 ——見て、プルー…。きれい……。
   ねえ、あなたも、そう思うでしょう? ここは明るいわ…。
   ね? こんなに眩しい…——



 …それは——
 光のさしこむ窓ぎわで、
 淡い紅色の壁にかこまれた花壇で、
 冒険に出かけた街外れの野原で…——
 その少女が、幾度となく口にした言葉だ。

 あえかなその白いおもてに輝いていた明朗な彼女の瞳は、艶やかな黒と黄金。

 右と左に、変化することなく存在した不動の配色。

 その少女は、この世界へ来て、笑い、はしゃいで、思うぞんぶん、かけまわった。

 むこうで枯れそうになっていた繊細な蕾が、こっちへ来て黒と白と黄金の華を咲かせたようだった。



 ——彼には感謝しているの…。だから……、…——



 青い瞳の闇人…――寂しい目をした女稜威祇(いつぎ)は、パンをかじりながら、うつむいた。

 やわらかな金色の髪が、左右からかぶさってくる。

(…でもあいつは、気づいてもいないのよ。その思いも。きっと、あなたがいたということさえ……)

 彼女は、ぼーっと、解読中の法印をながめている少年の背中を睨みすえた。

(いけないかしら? そうすれば、なにも起こらなかった……。きっと、これからだって、おなじ思いをする人がいるの。魅力的で力があるのに、使い熟せもしていなくて、罪つくり。存在するだけで迷惑な男だもの。いけないことは、ないわよね?
 だって、そうでしょう? …メル……。暗くて終りのない闇でも、あなたがいないよりは、マシだったのだから…。……) 

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