第二話 目覚めた先は
遡ること八日前、才吉は見知らぬベッドの上で目を覚ました。そこはついさっきまでいた学校の保健室でもなければ、自分の家でもない。
まだ覚め切らない身体を無理に起こすと、額から湿った布がパサリと落ちた。見ればベッド脇の木製の台には、水を張った木桶が置かれている。どうやら熱を出して寝込んでいたらしい。
部屋の中を見渡すが、人の姿は見当たらない。窓辺にはカーテンが静かに揺れ、射し込む光が室内を照らしている。どこからか水の流れる音が聞こえた。
ふと、壁に掛かった室内灯に目が留まる。ガラスと思しき透明な筒の中で、石のような形状の物体が淡い光を放っている。普通なら見たこともない作りの電灯と考えるところだが、才吉にはそれが電気を使ったものでないことがすぐにわかった。
「あれは
そう呟く才吉は、意外なほど落ち着きを払っていた。気が付けば突然見知らぬ部屋のベッドの上という、普通なら気が動転してもおかしくない状況。それにもかかわらず彼がこのような反応を示すのは、幼い時分より自分が異世界に転移することを知っていたからであった。
その訳は遺伝にある。彼の母は転移経験者であり、かつて異世界において
才吉はしばらく痣を見つめた後で、拳をギュッと握り締めた。これまでにない力が溢れてくるのがはっきりと自覚できる。実のところ、彼が転移を確信したのは決して魔光石のせいだけではなかった。
何より確実な理由として挙げられるのは、体に生じた異変。実は地球人がこの世界に転移すると、身体構造にある変化が起こる。それはこの世界の生き物同様、体内に
ただ地球人と異世界人の魔法器系には、一つだけ大きな違いがある。それは性質が反転してしまうこと。生成は消費に、放出は吸収へと変化するため、転移者は体内でマナを生成することができない。その代わりに外部からマナを取り込み、それを燃焼させて身体機能を高めるという特殊な能力を持つ。才吉が拳に感じた力や、彼の母が拳聖と呼ばれるに至った理由はまさにこの強化能力にあった。
「これが魔法器系の感覚か……。聞いていた通りだ」
才吉はこの新たな感覚に、新鮮な喜びと興奮を覚えた。マナが作り出せないはずの彼が転移早々に能力を使える理由は、母から譲り受け肌身離さず持ち歩いているペンダントにある。それは
マナが流れ込み胸の中に溜め込まれていく感覚を、才吉は呼吸に近いものだと感じた。意識せずに自発的に作用させることもできるが、意図的に強弱をつけることや止めることもできる。それはマナの燃焼も同じ。魔臓器に溜まったマナは留め置くことも燃焼させることも自由自在で、ひとたび燃焼させれば全身に力がみなぎり、視覚や聴覚といった感覚までもが冴え渡る。
そのとき、部屋の外からギッギッと廊下の床材が軋む音が聞こえた。一瞬、才吉の身体が強張る。さらにノックの音が続く。
「は、はい!」
緊張した面持ちで才吉が答えると、入ってきたのは金髪碧眼の青年であった。その整った顔立ちに、同性の才吉でさえも思わず息を飲む。
才吉が安易に返事をしたのは、もちろん言葉が通じることを知っていたからに他ならない。はっきりとした理由は不明だが、転移に伴う身体構造の変化が言語中枢に及ぶというのが彼の母の持論であった。
「やあ、気が付かれたようですね」
男は穏やかにそう話す。凛としながらも優しい響きの声質は、聞く者に安らぎを与える。そう才吉は感じた。
「あの、助けていただきありがとうございました」
そう言って才吉は頭を下げる。
「いやぁ、驚きましたよ。行き倒れなんて、この辺りでは珍しい。ご病気ですかね? 熱もありましたし」
「え、ええ、ちょっと無理をしたもので。風邪を引いたのかも」
「それはそうでしょう。あの雨の中、外套もなしに出歩くのは感心しません」
才吉は迷ったが、いきさつを誤魔化すことにした。魔法が当たり前のこの世界でも、転移などという現象はさすがにオカルトの類。下手に真実を告げようものなら、どんな目で見られるかわかったものではない。
「それで、具合の方はどうですか?」
「おかげ様で回復しました。もう大丈夫です」
才吉が立ち上がろうとすると、青年は慌ててそれを止めた。
「おっと、まだ無理をしてはいけない。お腹も空いているはずです。すぐに食事をお持ちしますので」
「いえ、そこまでお世話になるわけには」
「服装から察するに、異国の方とお見受けします。残念ながら、荷物は気を失っている間に誰かに持ち去られたようだ。お金がなければ宿には泊まれませんよ」
「それは、そうですが……」
本当は荷物など持っていなかったのだが、才吉はそのことを黙っていた。旅先で手荷物一つもないとなれば、怪しいことこの上ない。
「遠慮はいりません。これも仕事の内ですから」
「仕事?」
「ええ。こう見えても私、この村の領主なんですよ。余所者を嫌う領主は多いが、うちは外との交流を重視する主義でしてね。とにかく今日のところは身体を休めて、荷物の件は明日にでも守備隊長に相談してみましょう」
才吉にとって、この申し出は有り難いものであった。いくら予測していたとはいえ、日本で生まれ育った高校生がいきなり異世界で自立して生きていくなど不可能に近い。やはり誰かの手助けは必要で、そんな状況の中これほど親切な人に巡り合えたのは不幸中の幸いといえた。
「確かに今の僕は無一文で、他に頼れる人もいません。図々しいとは思いますが、お言葉に甘えさせていただきます」
すると青年はニッコリと笑ってこう答えた。
「うん、それがいい。申し遅れましたが、私は
「僕は才吉。
煉と名乗った青年は才吉の名を聞くと、何やら考えるような素振りを見せた。
「間違っていたらすみません。ひょっとして、あなたは拳聖の血を引いているのでは?」
そう尋ねる彼の目は、どこか期待に満ちている。才吉は予想外な問い掛けに、驚きを隠せなかった。
「どうしてそれを?」
「はは、やっぱり! 実は濡れた服を脱がせる際、手首の入墨に気が付きましてね。あれは拳聖の紋だ。最初はただの盗賊避けかと思いましたが、苗字まで同じだったもので」
煉はさらにこう続ける。
「それに、首のペンダントは魔生石でしょう? かつて拳聖は、そうやって魔生石を首から下げていたといいます。普通の人は、その高価な魔石をそんな風には持ち歩かない」
「なるほど、そういうことでしたか」
観察力の鋭い人だと才吉は感じた。
「しかし、間抜けな盗賊もいたものです。荷物だけ奪って、魔生石を見逃すとは」
「え、ええ。本当ですね」
「ところで拳聖の子孫となると、その特徴や技も継承しているのですか? 彼女は魔法を吸収できる特異体質で、他に類を見ない強化魔法の使い手だったと聞き及んでいます」
「それはまあ、一応……」
「素晴らしい……。これはきっと神の思し召しだ。私は信仰心が強いわけではないが、この件に関してはそう感じざるを得ない」
目を伏せ独り言のように話す煉の真意を、このときの才吉はまだ見抜けなかった。