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季節はずれの花.2


 少年のようすを見ながらに移動してゆくのは、知性と年季を感じさせる鳶色(とびいろ)の瞳。

 思いだしたように、ちらと視線をくれるのだが、すぐ目を(うつ)して通りすぎてゆく。

 それなりの面積がある実技講習場のフローリングに散らばり、思い思いの間隔を維持して立っている学童の間をひとりの男性師範が行ったり来たりしていた。

 通称ライオこと、本名はアリオラム。

 くすんだ金色の髪にかなりまで白髪の混ざりこんだ初老の男で、その頭部が小さく見えるほど、がっしりした体躯(たいく)をしている。

 彼が手にしているのは、両方の先端に三つ又(ミツマタ)(かぎ)がみられるずんぐりとした合金の杖…――三鈷杵(さんこしょ)をいくらか太くしたような形状の物体。
 三十センチほどの長さをそなえた銅色の法具だ。

「薄い。これでは不十分。築く意味がない。配置に(とら)われて、力を()めるのを忘れてはいないか?」

 ライオ師範が手の中の法具をひとりの生徒のほうへ差し向けると、パムっと小さな音がして、黒っぽい球体が十九個。その生徒の周辺の空中や床面などから、突然噴出(ふんしゅつ)したかように現れて転がり落ちた。

 かつん、かつっと。床をはじいて躍動(やくどう)する。

 さらに歩いた師範がひとりの少女の前で足を止め、彼女の方に法具をさしむけた。

「これはなんだ? 玉石()がこちらから見えている。
 領域の把握制御が甘いか……いや、《(てん)》でまとめる時、(りき)むか(ひる)むかして、ぶれ(・・)が……差異(さい)が生じたのかも知れないな。
 癖を修正(しゅうせい)できるに越したことはないが、どうしてもそうなるなら、その癖も式に組みこみ、差し引く方向に計算し直してみろ。問題の程度・差異が明確になる。
 どうしてそうなるのか自分で気づくのが改善への一歩、最良の道だ。
 ヒントは聞いていたな? 二度は言わないぞ」

 キュイィ……。金属的な音がして、現れた黒い球体が少女の周辺から外へと(はじ)け飛ぶ。

「君のも読みが甘いな。
 しっかりと確実に! 支障なく()と空間にかませろ。
 浮いたりしたら、型が確立したとしても認めんぞ。
 遊ぶのはかまわないが、やれと言われた時は真面目にやるように」

 そう指摘した師範の視線の先にあるのは、床より三センチほど浮きながらしゃがみこんで、がっくり肩をおとしている十三、四の少年だ。
 その彼が身を()した姿勢のまま顔をあげ、そそがれている師範の視線を受けとめる。

「いえ(遊んでるわけじゃなく…)! 足場のかませ方が、よくわからなくなって……」

「そうか。それはすまなかった。
 構成の理解からかだな。後で見てやるから、少し待っていろ。構成は()かずにな…(――解除制御の程度が心配だ…)」

 嘆息するとともに立ち位置を変えた師範が、皆のほうに向き直る。

「――空間は、存在と環境の影響をうけて、(つね)にゆらいでいる。
 おなじ部屋にあっても一定ではない。
 くり返すようだが、実技では応用力が(ため)される。
 この技においては、おおよそのレベルでよいが、(たが)いの間合い、状態の変化・力関係の推移(すいい)も計算に入れねばならん。
 その上で、その場の地気空調を見極(みきわ)め、(もち)いた法具による構造が成立する範囲内に固定する――より迅速(じんそく)に築けた者が有利で……楽といえば楽だが…、周囲の者があらかた完了してしまった後も、おなじことが言える。
 いずれにせよ、(となり)真似(まね)では通らないのは、わかっているな?」

 ギュンッ……キュゥ……パシッ…バシ…

 師範がこれと目をつけた者に法具をつきつけるたび、大気がゆれ、黒色の玉が転がり出る。

 パュ…。

「数が足りない。
 独自の配置を創造するのは基礎的な布陣(ふじん)をひと(とお)り確実にしてからだ。
 否定まではしないが、本職がすることだぞ」

「その…、どこかいっちゃって……」

そういう(そうゆう)ことは、とりかかる前に言いなさい」

 築いた構成を破棄(はき)されず、維持し続けている者は残り(あと)六名。

 近くを通るたび、師範が視線を投げていた少年の布陣も残されている。

 じっと。そこに立ちつくしているのは、贅肉(ぜいにく)をあまり感じさせない、すっきりした物腰の男子。
 十代(なか)ばほどの歳で、こころもち長めに整えられているその頭髪は、清涼感のある青磁色だ。

 生徒の間を一巡(いちじゅん)し終えた師範は、いささか不可解なものを見るように、その少年のもとへ足をもどした。

 不思議そうにしているのは、彼の髪が()けそうで透けてはいない、ふうがわりな光沢をはなつ(みやび)な色相だったからではない。

 例によって、手にしていた法具をさしむける。

 すると、つきつけられた銅色の法具がその対象人物から八メートルほど手前の空中で、ヒタと静止した。

 人の肉眼()では見てとれない壁があるような感覚だ。

「ふむ。やはりな」

 師範は手応えを確認するように、こんこんと、そのあたりを数度ノックした。

 一度、ずんぐりした形の法具を手もとにひき戻し、構成の中にいる少年をちらと見る。

「玉石だけの布陣で、これだけのものを築けるとは、たいしたものだ。
 空間の癖をよくつかんで巧妙(こうみょう)誤魔化(ごまか)し、補強(ほきょう)し維持してはいるが、誰よりも速く()を築いたにしても、ここに……。
 人が寄り集まって()を構築している場所で形成するには、()める範囲が広すぎる。
 バランスも奇妙だ(おかしい)
 そうありながら、よく(くら)ましてもいる。
 どんな(どうゆう)解答(かい)が導き出されるとこうなるのか……」

 ゆるり、ゆるりと一定の距離をおいて。
 目をつけた対象の周囲をめぐり歩いた師範は、少年()の正面で足を止めると、すっと手のうちの法具をさしむけ、さらにそれを補助するように右の手のひらをそえた。

 バファアッ……ッ

 他の生徒の法印(陣形)が破れた時とは、比べものにならない音がした。

 ざざざっと。放射状の突風が講堂内をかけぬけてゆく。

「わわ…」

「すげぇ……」

 まともに風をあびた生徒たちがどよめいた。

 完成した法印の内にあって気のままに時間を潰していた生徒らも、《可》をいただいた障壁に風圧を受けて注意をこちらに向けている。
 その内部まで波動がおよばないのは、彼らが正確に場をとらえ守備を確かにしているからだ――形成の不安定さを指摘された三センチ浮きの少年などは、構成ごと壁の近くまで、すいすいぃっと押しやられている。
 いちど成りたってしまえばそれは、周囲の力関係に変化が生じようと個別の性能に応じた強度を示す構成なのだ。

「単純な計算間違いとも思えない。式を見てみよう」

 師範がそのへんにちらばった法具のひとつ——青磁色の髪の少年が(もち)いた黒い玉をひろいあげた。

 いっけん、なんの変哲(へんてつ)もない球体だったが、教材として配付(はいふ)される法具には、ひと手間(てま)かけられていて、投資(とうし)された心力が完全に散らされるまで、そう成るにいたった痕跡(こんせき)残存(ざんぞん)するようになっている。

 ひとつふたつと手にとって法具の状態を確認した師範は、こころもち下唇をつきだしながら双眸を細くした。

「なぜ(くず)されたか、わかるか?」

触媒(しょくばい)が予定より外にずれて(さらに)前方へ流れたから……」

 うつむきがちに答えた少年の赤ワイン色の瞳は、ころころと安定をなくして床に転がる黒い球体を(とら)えていた。

 直径五センチほどの天然磁石の法具。

 他人のものと()ざっても、自分が心気を注いだ玉は〝それ〟と見わけがつく。

「うん……端的に言えばそうだ…。
 厳密には、背後の玉だけが、正位置と支配範囲の中間に(とど)まり、さらに拡大しようとする()を引き留めていたな?
 (くず)れる時、最後に動いただろう?
 仕上げは手順通り《天》で固めろ」

「そうしようと思ったんですが、固定しようとしたら、支点が(うし)ろの触媒(しょくばい)に移行してしまって……」

「闇雲なのか強引なのか……。集中力を欠いたにせよ、器用に抑えこんだものだ。
 (まぐれなのかもわからないが、構築(こうちく)研究者向きかもしれないな……。それとしても…。
 当初目指した(かい)痕跡(こんせき)として残り、後の経過の大部分が記録から欠漏(けつろ)するとは……この道具(法具)(おさ)えられる情報量…――容積を超えたのだな。
 急場の応用力・対処力・道具の理解(りかい)、識別力・心力の強さを()めてやりたいくらいだが、そうもいかないか……)」

 あきれを多量にふくんだ感想(感嘆)と、表面(おもて)には出されない師範の腹の内をよそに——。
 青白い髪の彼は、口を堅く結び、黙りこむ。

 どうにか形にしたものが可点(かてん)とされなかったので、落ち込んでいた。

 制御しきれていない自覚があったなかにも、うまく誤魔化せた感はあり……。
 視線が向けられる(たび)、後回しにされたので、最後まで残れるのではないかと期待してしまったのだ。

玉石(ぎょくせき)だけの配置でよくここまで抑え(くら)ましたと褒めたくもなるが、これでは固定されずに遠からず暴走する。
 長びくほど補填(ほてん)を強いられ、休むことも出来ない――計算で導き出される数値は、法具の特性を()かした過去の法印使いの集大成だ。
 自分を無にし、空域の状態をよく観て、法具にこめられる力とつりあう位置を意識し、それが成立()るまでは気を抜くな。
 バランスに狂いがあると形成がもろく不安定になる。
 余力があっても力で抑えこもうとは思わないことだ。道具に負荷がかかり、君自身も不必要に疲れるぞ」

「ん…」

 青磁色の頭の少年が、こくっとうなずくと、ライオ師範のとび色の瞳が柔和(にゅうわ)に細められた。

「君は、心力だけは玄人(くろうと)以上のようだな。
 精進(しょうじん)すれば、歴史に名を刻むような《鎮め》、あるいは《法印士》になれるやもしれん。ただ……。
 何度も言うように、法印はあつかいを間違えれば凶器になる。
 防御印だからよかったものの、君の場合は()められる力が半端でないだけに危険だ。
 おなじことを繰りかえすようなら、(ほか)の法則は教えられないぞ。心しろ」

 教え子の強みを認めながら、苦言(くげん)()めくくった師範の注意が(ほか)の多数へと()れる。

「では残りの者は、()の解除にはいれ。
 端折(はしょ)ることなく、手順通りにな。
 手順を省略するにもコツがある。
 下手に端折(はしょ)ると法具に振り回されるぞ。
 破られた者は、もう一度、試みるように。一度理解してしまえば、後が楽だ。
 自身の生得(せいとく)といまいる環境、不都合な条件があるならそれと、どう折り合いをつけ、配分し、安定させるか――そこがポイントだ」

 🌐🌐🌐

 講習時間が過ぎ()ると、がっしりした体つきの師範、アリオラムは、頭ひとつあまりも低い生徒たちに囲まれていた。

 指導者の対応・接し方も十色(といろ)

 授業中しか質問を受けつけない者がいれば、ひねくれたヒントしかくれない者もあり、子煩悩(こぼんのう)にも時間を忘れて、いっしょにふざけて遊んでしまう者もいる。

 この師範の場合は、時間がゆるせば通りすがりにも受けつける方針で、たまに「質問があれば聞くぞ」と。自分から言いだす。

 師範と呼ばれるのは、知識と実力と人柄に《稜威祇(いつぎ)の信頼》という折り紙がつく、講師より数段上の少数派だ。

 個人の趣向や道楽、金策などを理由に手掛ける、わけありの常任(最たるところとしては、白髪赤目のスタンオージェ)がないこともないが、だいたいにおいて、修士課程の生徒を指導していることが多く、彼らのような(なら)いはじめの生徒の授業をみることは滅多にあることではない。

 日常的にはない好機に、その場はこみあっていた。

「…――情報を探してるのか。
 ならば、目的がかぶる部分を、もう一度、調べ直してみるといい。
 ここの法印に関するの書物の大半は、簡単な心力行使で表記以上の情報・手がかりが呼びおこせる。
 気づくことができれば開示される要項もある。
 試してみたか?」

「シスさんが、ないと……(ほかの管理人(人たち)も、みんな同じ答えで…)」

 十二、三歳くらいの生徒が多いなか。

 師範の言葉に答えたのは、最年長と思われる十四、五(歳)の青白い髪の少年である。

「ふむ。彼にたずねるのは必ずしも得策と限らないが……。どんな本を探している?」

「闇人……稜威祇(いつぎ)をもとの場所に帰す方法がないかと…――」
「師範、見てください! 指輪の模様が変化したんです!」

 青白い髪をした少年の応答に、横合いであがった少年の声が重なった。

「いま、なんといった?」

「指輪の模様が……」

「…そうか。うん。成長の(あかし)だな。だが、いまは、こっちと話しているからな」

 師範の注意が会話にわりこんできた者にそれた時。書籍のことをたずねていたセレグレーシュは、なにげに流した視野のはしに若い《稜威祇(いつぎ)》の姿を見つけた。

 視線が出会うと、その《稜威祇(いつぎ)》が、にっこり微笑む。

 いつからか、講堂の壁ぎわに来ていた異種族の少年。

 男の子っぽい片鱗が、明確になりはじめる年頃で…——人間の年齢にあてはめれば、十二、三歳くらいの子供に見えるが、その外見、様相は出会ったころからほとんど変わっていない。

 いっぽう。

 《法の家》に身をおくようになってから、二年と数日(あまり)
 そのへんにはまず見ない特異な髪色の少年――セレグレーシュは、ぐんと背が伸び、着実に大人に近づいていた。

「君は、なにを考えているんだ」

 師範の言及をより近いところに聞いたセレグレーシュは、表情を変えることなく視線をもどした。
 直前に見た子供の稜威祇(いつぎ)の姿など、そこになかったかのように無視する。

稜威祇(いつぎ)と妖威を、もといた世界へ戻す方法があれば知りたいと」

 そうしてなされたセレグレーシュの解答に、師範が「むぅ」と唸った。

「それは、稜威祇(いつぎ)を知らぬ者の発想だぞ。
 妖威だけと限定しようと、大半の稜威祇(いつぎ)は反発する。
 妖威は、狂い、思考や常識がゆがみ、人の社会と相いれぬ存在とはいえ、稜威祇(いつぎ)とさほど遠くもない遠戚・類縁だ。
 それを為そうと(こころざ)せば、稜威祇(いつぎ)との約定も崩れる。
 なにゆえの魔封じの技か、考えてみたか?」

「けど、彼らはもともと、そちらのもので……。いなくなれば静かになる。そうあるべきでは?」

「まぁ、そういう(そうゆう)考えもあるのだろう。
 だが、世の混乱のもとは、彼らだけではないな?
 おかしな者は人にも少なくないし、この世界は人だけのものではない。
 《神鎮め》に成れば、その意見も変わるだろう」

「知るために《鎮め》になる必要があると……いうことですか?」

「《鎮め》は成ろうと(こころざ)したからといって、成れるものではない。認められなければな。
 まぁ、君の場合は、そっちの心配はないのかもしれないが、未熟なうちに稜威祇(いつぎ)を得ることは、必ずしも好ましいことではない。
 なにも若年(じゃくねん)に限られたことではないが、大きな力を正くあつかうには、それに足る思量・経験が必要になってくる。
 (ぎょ)()ない幼稚(ようち)さ、狭量(きょうりょう)さ、考えの甘さ、経験の無さは、問題と失策(しっさく)を生むものだ。
 働く力が大きいと、犯した間違いを正せる域を超えてしまうこともあるだろう。
 稜威祇(いつぎ)(わきま)えた個体であるならまだしも、聞くところではたしか例の子は、まだ…」

 がっしりした体つきの師範は、遠まきにこちらを見てにこにこしている稜威祇(いつぎ)の少年に気づくと、なにか言いたくても言えないような顔をして語尾をにごした。

 ライオ師範がなにを告げなかったのか予測もつかなかったが、そっちの心配はないという発言は、明らかに、そこに出てきている子供の闇人……稜威祇(いつぎ)を示している。

 (いら)っとしたセレグレーシュは、にわかに表情をゆがめた。
 より近い位置にあるやり取りに集中しようと、意識する方向性を(ただ)す。

(ほか)に調べられそうなところは、ありませんか?」

「先導師陣が管理している図書……史料庫もあるが、あれは君たちが手にするようなものではない。
 許可はおりないだろう」

「じゃぁ、そちらに聞いてみます」

「言いだしたら聞かなくなる子だな。
 まぁいい。それより君はたしか、十五になっていなかったか?
 適性考査の準備は進んでいるのか?
 入門も浅く、筆記から学んだのなら、がんばっている方なのだろうが……」

 セレグレーシュは、すっとまなざしを伏せて断言した。

「実技で減点されないというのが事実なら、問題ありません」

 適性考査——

 それは、《神鎮め》を目指す者に課せられる行動傾向を観る試験で、(ぞく)に《月流(つきなが)し》ともいわれる。

 (おこな)われるのは、十五の誕生日のひと月後。

 ひと月ていどで帰還(きかん)可能な距離の人里や森、機関などに学生を派遣して、単独で行動する時の対応や判断傾向を観察し、《神鎮め》をはじめ《法印士》としてやっていけるかどうかを精査(せいさ)するというもの。

 一次考査。成人の儀式ともいわれる試練だった。

 二年前、この家にまぎれ込んだ日を仮の誕生日としている彼は、今月の八日で十五になった……と、されている。

 三日後には、現地へ発つ予定だ。

「その方面の筆記(ペーパー)試験の傾向は、悪くないと聞いたが……法具・法印の存在を無視しすぎる、ともな。
 まだ課題をのこし、使いなれないからだとは思うが、あの種のテストでは、そういった現実を必要以上に意識しなくていいのだ。
 実力のおよばない構想ばかり記入するのも問題だが、基礎的なところ、必要目的に沿()うていどのものならばな」

 どの提出物を言われたのかわからなかったセレグレーシュは、納得いかないようすで師範を見返した。

 だが、そうして考えみると、思いあたるものがないこともなかった。

 ひと月ほど前、適性考査の一環として記入を求められたアンケートのことかも知れないと。

 たしか一般常識や思考パターン……考え方や対応力を試すような内容で、仮想例題のような項目がかなりあった。

「使わなくては慣れないぞ。
 無闇に行使するものではなくとも、まわりになにが(ひそ)んでいるかわからない状況であれば、休む前に構成()を築いておくのは基本だ。
 危険な状況にさいして、眠らず休まずやり過ごすにも限界はある。
 現実にどう行動し、対処するかは別としても、頭には入れておけ」

「法印に頼らなくても、回避する方法はいくらでも…――」

「後ろ向きなのか前向きなのか…。…おかしな子だ」

 ふふっと相好(そうごう)をくずした師範の鳶色(とびいろ)の瞳に、からかいとも愛情ともつかない表情が見えかくれしている。

「未熟なうちから、そういう(そうゆう)ことを言っていると、腕試しの稜威祇(いつぎ)が送られるぞ」

「そんなのって…」

 セレグレーシュが困惑のまなざしを師範にむける。

 頼りすぎれば減点される審査・監査役が同行することは耳にしていたが、実技能力を試すような干渉があるとは聞いていない。

「まぁそれは、これからなんとでもなるだろうが……。わたしの意見も聞きなさい」

 筋骨逞(きんこつたくま)しく、大きな身体を持てあましがちにも見えるライオ師範は、おだやかな目をして彼を諭した。

稜威祇(いつぎ)、魔神――闇人はいいとしても、変容したものはどうするのだ? 
 彼らは、稜威祇(いつぎ)とこっちの世界の合いの子だ。向こうで生きてゆけるとは限らない。
 亜人には、ほとんど人間のようなものもいる。
 そういったものをひとまとめに向こうへ追い出してしまおうなど、乱暴だと思わないか?」

 言われるまでもない指摘にセレグレーシュの目がすわった。その頬と口角が(こわ)ばっている。

 そのような白黒つけがたい問題は、おいおい考えることであって、手段を探さない理由にはならない――というのが彼の所懐(しょかい)だ。

「いずれにせよ、《神鎮め》になれば、そんな考えは浮ばなくなる。
 稜威祇(いつぎ)というものがおのずと見えてくるからな。
 へたに角突(つのつ)きだせば、戦乱にもなる。
 存在永続のコツは、加減をわきまえた持ちつ持たれつだよ」

 熟年の師範は、うっすらと笑いをたたえたまま、「今日は、ここまでにしてくれ」と指輪の異変を主張した男子の頭をひと()でしてから、教え子たちから離れていった。


しおり