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異端.1


『――セレグ…。…――レグレーシュ。来なさい。こっちよ……』

 ふわっと背中にまわされて、彼の肩をとらえた母の手。

 駄目だ……いけない。

 ――行っちゃいけない……

 思う自分がいるのに幼い彼は、言われるままに、たほたほと()を踏みだした。

 父を亡くしてから髪を()り、(まゆ)()くようになっていた…――

 ……そう。こんなことがあったのは十歳の誕生日の三日前。

 母は、あの日たしか……。

 少し早いけれど、おまえがこの世に生をうけた十度目の記念日をこの里のみんなで迎え、祝うのだと。

 そう言った。

 いまも、はっきりおぼえている——

 方々(ほうぼう)に干し草が(うずたか)()まれた納屋。
 生きた巨木(きょぼく)を中心に組まれた小屋の天井には、ぽっかりと穴が()いていて、そこから()しこむ真昼の光線が、おごそかな広がりを見せていた。

 白い腕に(みちび)かれ、中央の大木の幹に背中をむけて腰をおろした彼の横で、じゃらっと重そうな(くさり)が鳴る。

 ひとめぐり……ふためぐり…

 おなかにまわされたのは、(かた)くて(ふと)い合金製の組み合い。

 それは、ぐいっと。彼の肋骨(ろっこつ)の下に容赦(ようしゃ)なくくいこんで、その肉のうすい小さな体を背後の木肌にひき寄せた。

『いたい……。いたいよ、母さん』

『がまんするの。すぐ……、終るから……』

 二重三重(にじゅうさんじゅう)にめぐらされた鎖は、彼を硬質(こうしつ)な木の幹におしつけて身動きとれなくする。

 じゃらじゃら、じゃらっ……

 おなか、胸、(のど)を押さえてつぶす金属の(いまし)め。

 そうしている(あいだ)、投げだされていた両足と、始終、動かしていた右腕の(ひじ)から先だけが自由で……。

 彼は、自身の細い首を圧迫(あっぱく)する鎖をつかまえて、もがいた。

『かぁさん、いたいっ! …いたいよ……。どうして? ……どうして…こんなの、嫌だ……』

 懸命にうったえても、母は答えない。

 ハァ…ハァ……じゃりっ………ゴキッ……

 聞こえるのは慣れないものをあつかうことで乱れたその人の息づかいと、その人が踏みしめる土壌(どじょう)のこすれる音。

 そして……鎖どうしが、ぶつかったり、あわさったり、こすれたりする濁音(だくおん)

 かちゃかちゃ…ちゃ……かちっ。

 わずかに()があって……。立ちあがった母が、左下方(ひだりかほう)に彼を見おろした。

 恐い目だった。

 彼がよく知っている()まわしい存在を見るまなざし。
 恐怖ととなりあわせの嫌悪……

 (その人)物陰(ものかげ)で、ほの見せても――直接には注がれることがなかったもの。

 その時(それ)までは……。

『…かぁさ……?』

『平気よ……すぐにすむ。終わるのよ(・・・・・)

 震える声で告げた母が、さっと駆けだして小屋を出ていく。

 ()け放たれていた扉がガタガタ動いて、そこから入ってくる光が細くなり、ぴたっとあわさった。

 ひとり、のこされた彼は、鎖をひきはがそうとする手を止め、母が出ていった場所をまじっと見つめた。

 合わせ板のすきまから外界の光が侵入してくる粗末な扉。

 不安でも困惑でもない。
 いま見た母の表情を、この現実を信じたくなくて……、

 彼は、それを確かめることを求めた。

 そうではなかったことを目に(しか)と見て安心したかった。
 行ってしまった母が、もどってくることを期待したのだ。

 身動きがとれないという現実……

 おいていかれたかも知れない予感…――それが意識のはしっこに色濃く(くすぶ)っているのに、(ほか)のことは考えられなかった。

 そうこうしているうちに、(わら)かなにか……。燃えやすいものが火にさらされているような、甘く、こげっぽい(にお)いが(ただよ)いはじめ——…

 どこからともなく白い煙がむくむくとあふれだし、たなびいた。

 ぱちぱち、ぺちぺち……

 耳と肌が(おぼ)えている嫌な音。

 右にオレンジ色のゆらぎを見て、そのあたりの壁をなめている炎に気づいた彼は、幼い瞳をいっぱいに見ひらいた。

 いつ燃えだしたのか……、

 ぐるりと同心円状にめぐらされている木製の壁全体が、火の気をおびていた。

 母の姿が消えた入口も燃えている。

 彼は本能的に、その鎖から……。炎から逃れようと、もがきはじめた。

 ゆるいところも、きついところもある。

 幾重(いくえ)にもまかれた金属の束縛(そくばく)は、固く、ぎしぎし、しがらみ合っていて(ほど)けない。

 げほっと咳きこみながら見まわした周囲には、灰色っぽい煙がゆらめいていた。
 それがしずんでくる。

 (のど)がいたい……目がいたい…。鼻が、つんとする……。
 
 涙があふれて、視界(世界)がゆがみをおびている。

 息がつまって、うまく呼吸もできない。

 充満する熱気の中にひとり、とり残された彼は、けほけほっと(むせ)ぎ、あえいだ。

 彼を束縛している鎖が熱をもちはじめていた。

 ――知っていた…。

 彼をつかまえているこの(いまし)めは、自分の力ではほどけない。

 どんなに嫌でも、もがいても、がんばっても、かたく組みあっていて(ゆる)まない。

 でも、だいじょうぶ。

 扉や壁をなめている、あの炎が自分を襲うまえに〝()〟が来てくれるはずだから……

 前は来たのだ。

 煙がしみてか、喉が痛いのか、悲しいのか。
 思考や感覚がごちゃまぜで、原因なんて判別つけられ(わから)なかった。けれど、涙があふれて……、
 ちゃんと目をひらいてなどいられなかった。

 でも。そうしていたら、とつぜん自分を木に縛りつけていた鎖がたわみ、ずり落ち、ほどけて、自分は彼に、かかえられたのだから……。

 伸ばした両手で、必死にしがみついた。

 その後のことは覚えていない。
 だけど、たすかった。

 だから、だいじょうぶだと思っていた。

 なのに、いま、その人は来なくて……

 (うず)を巻いて(せま)るオレンジ色の火炎(かえん)が、彼の(ほお)を……肩を()がしはじめた。

 ……痛い……熱い…! 焼かれる………。

 露出している肌が、じりじり。ばちばちと無数の鞭で激しく連打されているように痛む。

 いつか……それ(・・)より、はるか過去(むかし)……

 ずっと前にも、こんなことがあったような――…

 もっと成長した大人に近い自分が、燃えるように熱い誰かに抱きつかれて身動きを封じられているような…――そんな、それまでなかったはずの不可思議な記憶も(よぎ)ってゆく。

 自分の肉が焼ける生々しい臭気。

 喉や肩の皮膚が(ただれ)れてゆく、激痛にさいなまれる中に。
 気づいてみると、朱色の炎のなかで燃えはじめた自分は、(ここの)つの時の彼ではなくて、二つ……三つと、成長をとげていた。

『…ヴェルダ……っ』

 炎にさらされながら、彼は叫んだ。

 そこに人影などなかったけれど、声のかぎりに。

『ヴェルダッ! どうして……』


 ——オレは、ここに来た! 来たんだ……。
 それなのに…——


『どうして、いないっ……』

 熱気と煙に巻かれ、呼吸もままならない。
 まともに話すことなんて不可能で、声なんて出ないはずなのに彼は叫んでいた。

 🌐🌐🌐

 寝台の上で目が覚めたとき……
 ひんやりと。
 外気をさそう湿気が身体にまとわりついて――シーツ、上掛け、繊維(着衣)がべたついて、気持ちが悪かった。

 うつぶせのまま、一度、ひらいて閉じた視界の右の方…――闇がおりているそのあたりに動くものを見たその彼が、赤ワイン色の瞳を、かっと見ひらく。

〔……暗い。けれど、この闇は……違う……〕

 そのあたりから聞こえたのは、若い異性の声。
 つむがれたのは、闇人(やみひと)(もち)いる言語だ。

 東には、その言葉(それ)を第二の公用語として(たた)え、()めそやす里がある。

 霊的な抑揚(よくよう)()びて、使うにも、聴きとって把握(はあく)するのにも適性(てきせい)を必要とするそれは、身を守るために有益(ゆうえき)とされていた知識だ。

 その語彙(ごい)、響きを正確に聴きとり理解して話せること……

 そんな現実は、特別視されるなかにも時には人に忌諱(きい)され(うと)まれ、一線を引かれる理由にもなる異質な生得(せいとく)、才能で…――

 その種の言語がこの地域で、どうあつかわれるものなのか――彼はまだ、明確に理解してはいない。

 だからずっと、(おもて)に出さないようにしていた。
 しかし彼は、いまこの場面にあって。その言葉をあつかえる事実を隠そうとは思わなかった。

 そこにいるのは、《闇人(やみひと)》なのだ。

〔行けよ。……そのへんに仲間がいるはずだ〕

〔……誰のこと? 兄さまたち……兄姉(きょうだい)がいるの?〕

 はじめに聞こえたものとは違う。
 そこに成されたのは、高音域でありながら、少し冷めて感じられる大人びた声だ。

 ひとりではない。ふたりいる。

 暗いので、(しか)と視角のうちに見定めて確認したわけではなくても、それを呼びこんだ張本人である彼。セレグレーシュは、感覚的にそういった事実――情報を把握(はあく)していた。

〔出口はそこだ。オレのことは忘れて。オレ、おまえらと関わるつもり、ないから……〕

 (いま)まわしい自分自身の資質。

 (まれ)にいること……出てくることがあるのだ。
 おかしな夢や悪い夢を見た時などは、特に。

 (まね)こうと思って、(まね)くわけではない。

 これという予兆もなく自分のまわりで起こる現象。

 どくどくと心臓が、小躍(こおど)りしていた。

 それが不完全なものにならなかったこと。
 血が流れなかったことを理解し、ほっと胸を()でおろしはしても、起きて欲しくはないことで……。

 誰にも知られたくない――知られるわけにはいかない彼の異質な特性。
 実態だったから、セレグレーシュは寝台につっぷして、その現実から目を(そむ)けた。

 そして実際に見た悪い夢より、いま起きたかもしれない事態(これ)(まぼろし)であることを(せつ)に願いながら、(ふたた)びうとうとと、底の見えない眠りに落ちていったのだ。

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