日向の過去の話
家に帰り着くと、その日はみんなそのまま寝てしまった。
桜は天姉の部屋に泊まることになった。
あの二人はすっかり仲良しだ。
帰りの電車でもずっと話していた。
行きの電車では天姉が爆睡し、僕の肩に寄りかかってきやがったことで、肩がよだれまみれになるという大惨事が起きた。
桜が話してくれることによって、それを回避することができたので少し感謝している。
次の日。
この日は日曜だったので訓練とかはなく、普通にのんびりした。
強いて言うならちょっと走ったくらいだ。
あとは桜に家や周辺の案内をしたが、周りは木ばかりで特に何もないし、家自体も基本的には普通なので桜は
「はー。何もないですねー」
と言っていた。
夕方になり、晩飯を作ろうとしていたら桜が
「私が作りますよ!」
と言ってきた。
準備がいいことに持ってきていたようで、エプロンをつけていた。
「手伝ってくれるの? ありがとう」
「ていうか恭介さんがいつもご飯作ってるんですね。やっぱりあなた女子力高いのでは?」
「褒められてるのかそれ?」
二人で作ることになったが、僕が見る限り桜は意外とできる。
母親から叩き込まれたそうだ。
それからみんなでご飯を食べ始めると日向が
「普通に美味しいな。これ桜ちゃんが作ったんやろ?」
と言って桜を褒めた。
「ありがとう日向ちゃん! 恭介さんと二人で作ったんですよ。ねー?」
僕は頷いて肯定した。
それから桜が思い出したように言った。
「そういえば母から聞いたんですけど、桜澄さんは子供の頃から落ち着いていて、いつも冷静で怒ることはほとんどなかったけど、一度だけ本気で怒っているのを見たことがあるって。桜澄さんって怒ると我を忘れて暴れ回るようなタイプなんですか?」
「俺は怒ったくらいで理性を飛ばす程未熟じゃない、と自分では思っている。あの時はそうでもしないと相手に響かないと思ったから机を蹴り飛ばしただけだ」
どうでもいいが、先生に蹴り飛ばされたというならばその机はきっと無事では済まなかっただろう。
「ですよね。我を忘れて暴れる姿とか想像できないですもん。あ〜それと。一度だけ桜澄さんに相談されたことがあるとか。いつも自分一人で何でも解決してたから珍しかったって言ってましたよ」
先生はそれを聞くと
「ん? あーそれは多分俺が小学生の時の話だな。いや中学生だったか? まぁとにかくそのくらいの頃のはずだ。同級生に相談されて話を聞いたんだが、その時の相手の態度が気になってな。なにか失礼なことを言ってしまったのかと心配になって桜の母親に相談したんだ」
「ややこしいけど、相談されたことを相談したってことか」
天姉がそう言ってから先生に詳しく話すよう促した。
ある日の放課後、俺は同級生の女子に呼び出された。
相談したいことがあるとのことだ。
俺は待ち合わせ場所に五分前に到着した。
その一分後くらいに相手が現れた。
「あ、小野寺君。来てくれてありがとう。ごめんね急に呼び出して」
「構わん。でも正直驚いた。普段話したりしないからな」
「そうだよね。話は……歩きながらでもいい?」
「ああ」
俺たちはどこを目指すわけでもなく歩き始めた。
相手は言葉を探るように、どう考えても本題ではない雑談を始めた。
「……えーっと。あ、そういえば来週テストがあるね。小野寺君は……まぁ大丈夫だよね」
「どうだろうな」
「私はあんまり自信ないや。小野寺君は頭良いから羨ましいなー」
「そうか」
「……」
「……」
相手は緊張しているようで、なかなか相談内容を話そうとしなかった。
しかし、沈黙に耐えかねたのかついに相談内容を告白してきた。
「……えっと。あの……それで相談っていうのは。その私、実は女の子が、好き、なんだ……」
相手は俺から顔を背けた。
なんでそれを俺に対して言うのかは分からなかったが、相手にとってこの行動には何かしら意味があるということは明らかだったので、相談された理由については考えないことにした。
「そうか。……それで、誰が好きなんだ? うちのクラスの奴か?」
「……あ、あれ? もっと驚くかと思ったんだけどな……」
相手は拍子抜けしたような顔を見せた。
驚いた方が良かったのかもしれない。
「うわー。ビックリしたー」
俺が驚いてみせると、相手は眉をひそめた。
「……小野寺君って、もしかして天然?」
「あ? バカにしてるのか?」
「い、いやいや。でも小野寺君に相談してみて良かったよ。そういうこと全然気にしなさそうだと思ってたんだよ」
相手は表情を緩めて大きく息を吐いた。
「まぁ意外と大事なことほど、どうでもいい奴の方が話しやすいよな」
「いや、どうでもいいだなんて思ってないよ。……今まで誰にも言えなかったんだ。今日はありがとう」
相手はこれで話が終わりだとでもいうように締め括ろうとした。
「? 何言ってるんだ? これは恋愛相談だろ? これからじゃないか。誰が好きなんだ?」
「え? い、いや。そこまでは恥ずかしいというか……」
「ここまで聞いたんだ。気になるだろ。言えよ。言うまで帰さんぞ」
「こ、こわい」
「言えよ。ほら言えって。言ってみろよ」
「こわいこわい!」
「言えって、怒らないから。今すぐに。言えよオラ」
「ぎゃああぁ!」
この後渋々といった感じで教えてくれた。
それにより、相手がなぜ俺に相談したのかが分かった。
だが相手はなんだか苦い顔をしていた。
「ということがあった」
先生は話し終えるとお茶を飲んだ。
みんななんとも言えない表情をしている。
僕もきっとなんとも言えない表情を浮かべているのだろう。
ゆずはなんだか遠い目をしている。
もしかすると、ゆずは当時先生から今の話を相談されたことがあって、懐かしい気持ちになっているのかもしれない。
桜の母親に相談したというくらいだから、ゆずに相談していたとしても全然不思議じゃない。
……。
んー。
しかしなんというか。
「先生らしいエピソードですね」
僕は当たり障りのない言葉を選んだ。
「その後はどうなったんですか?」
天姉が訊いた。
「そいつは相手に想いを伝え、相手は真剣に受けとめてくれた上でそいつをフったらしい。それ以来そいつとは割と仲良くなって今でもたまに会うくらいだ」
先生にちょっとずれたようなところがあるのは昔かららしい。
桜澄さんの昔話を聞いた日の翌朝、私は洗面所で背伸びをしていた。
「くぅ〜届かねー」
目一杯伸ばしても天井に手は届かなかった。
「何してんの天姉」
そこへ、寝癖で髪がぼさぼさになっているけいがやってきた。
「けい! いいところにきた! 肩車してくれ」
私はけいの肩に手を置いて下に向かって圧力をかけた。
「えーなんで?」
けいは、しゃがみながら訊いてくる。
「化粧の練習してたら手元が狂ってアイブロウが天井に突き刺さった」
私は天井を指差す。
「そんなことある!? うわ。マジで刺さってるし。まぁいいや。ほい。乗れ」
私が乗ると、けいはゆっくり立ち上がった。
手を伸ばすと簡単に掴むことができた。
「よっと。……よし取れた。ありがと。降ろして」
けいは私の言葉に反応せず、なにやら考え込むような表情を浮かべている。
こいつ、もしや重くなったなどとは考えておらんだろうな?
許されざることだ。
考えが浮かぶことすら万死に値する。
「……なんかさ。天姉」
けいは重々しく口を開いた。
「おっとその先は」
「痩せた?」
私が口を挟もうとしたところで、けいは私の予想とは真逆のことを言った。
「あ、そっち? んー。それは多分私が痩せたってより、けいの力が強くなったんじゃない?」
「あ〜そっか。うん。めっちゃ軽いもん片手で持てる」
「おいやめろ肩に担ぐな。わたしゃ米俵じゃねーぞ。……いや違う。お姫様抱っこしてってことでもない。とっとと降ろ……いや待って。これ割といいな。この感覚は……いいぞこれ。このまま昼寝したい」
「そうですか。でもやめてね? 天姉が昼寝してる間ずっと持ってるのは流石にきつい」
「んなこたわかってるよ。ん~でもこれいいなー。……この状態で昼寝するためには作るしかない……アレだな」
「アレ?」
「つまりは……」
「つまりは?」
「ハンモックだ! ハンモックを作るぞ!!」
私の言葉を聞いたけいは私を下ろして逃げようとした。
「ほーん。勝手にがんば」
私はけいの肩をガシッと掴んだ。
「てめぇもやるんだよう」
そんなわけでこの日からハンモックを作ることにしたのだった。
夕食を食べた後、子供組は天姉の部屋に集まっていた。
「そういえば家からお菓子を持ってきてたんでした! 私たちだけでこっそり食べちまいましょう」
桜が唐突にそう言った。
「本当に言ってる? え、すご。本当だ! おー! すご! お菓子だ!」
けいが本当に嬉しそうな顔で喜んでいる。
「え、そんなテンション上がります?」
桜はちょっと引いている。
「すっごい久しぶりだ! いや、へタすると初めて食べるかも? 見たことはあるけど」
けいが興味深そうにお菓子を眺めながら言った。
「和菓子ならたまに食べるけど、こういうお菓子は普段食べないからね〜」
天姉もけいと肩を並べてお菓子を眺めながらそう言った。
「私は初めて食べるわ〜ほえーすごいな。ほな遠慮なくいただくで?」
「どうぞどうぞ」
日向はお菓子の袋を手に取って自分の手前に置くと、手を合わせた。
「いただきます!」
「あ、しっかりしてますね。ちゃんと手も合わせて」
桜が感心する。
日向が誇らしげに答えた。
「昔、桜澄さんに言われてな。いただきますとごちそうさまはしっかり手を合わせて必ずするようにしてるんや」
いきなり過去回想に入るけど、私、坂本日向も天姉達と同じように桜澄さんに誘拐されるような形でここに来た。
三人と違うのは私の場合、桜澄さんは人に頼まれて私を連れ出したというところだ。
桜澄さんはゆずと二人でなんでも屋みたいなことをやっている。
二年くらい前、二人の元に坂本日向を連れ出してほしいという依頼が届いたのだ。
私の母は体が弱かった。
私は物心ついた時から母が病院のベッドで寝ている姿を見てきた。
だから私は病院といえば母を思い出すし、母といえば病院を思い出す。
私はよく一人で病院にお見舞いに行っては、母に描いた絵を見せていた。
母はいつも嬉しそうに絵を眺めては、私を褒めてくれた。
私の父は嫌な奴だった。
人をいじめるのが好きで、私が嫌がることをして私が泣くのを楽しそうに見るような幼稚な人だった。
父と母は望んで結婚したわけではないらしい。
詳しい事情は知らない。
もしかすると説明されたことがあったかもしれないが、覚えていない。
母はいつも私のことを心配していた。
父は小心者で暴力を振るうようなことはなかったが、日々の嫌がらせと孤独感で私は辛かった。
母のお見舞いに行っている時と絵を描いている時が私にとって数少ない心安らぐ時間だった。
ある日、お見舞いに来ていた私に母が言った。
「いつも寂しい思いをさせてごめんね。もしあなたが良かったらなんだけど、ハムスターを飼ってみない? お世話はあなたがするということなら飼ってもいいとお父さんからも許しをもらったわ。どう?」
「飼いたい!」
そして我が家に一人、住人が増えた。
今まで父が仕事に行っている間は、母のお見舞いに行くか意味もなくテレビを眺めているだけだったので、とても嬉しかった。
毎日お世話を頑張った。
何もなかった私の人生に意味が生まれた気がした。
それがいけなかった。
父は私の大切なものを壊すのが大好きなのだ。
今までも母からもらって大切にしていた手袋を燃やされたり、お気に入りだったぬいぐるみをぐちゃぐちゃにしてゴミ箱に捨てられたりしていた。
私は父の前で何かを大切にしてはいけなかったのだ。
ある日、朝起きてケージを見てもハムスターがいなかった。
家中探してもどこにもいない。
父に言っても知らぬ存ぜぬで、私は泣きながら探し続けた。
その日の夕食後、父が私に
「今食べた肉、なんだと思う?」
と聞いてきた。
私は目の前が真っ暗になった気がした。
その先を聞いたら、私は……
「お前が大切にしてたハムスターだ」
私は金縛りにあったように動けなくなった。
絶望する私を見て父は笑っている。
「アハハハハハ!」
私はその日から喋れなくなった。
何か言おうとしても喉の奥に球があるかのようにつっかえて声が出なくなった。
母に筆談でそのことを伝えると母は何かを決意したようだった。
母はやせ細った手で私の頭を撫でた。
……以前母がもう長くないということを耳にしてしまったことがある。
運命は私から何もかも奪うつもりらしい。
ある日、俺たちの元に依頼が届いた。
娘を預かってほしいという内容だった。
詳しく事情が書かれていないことが気になった。
俺とゆずはとりあえず依頼主に会ってみることにした。
数日後、俺たちは病室のベッドで横になっている女性の前にいた。
「坂本さんですね?」
「はい」
坂本さんはゆっくりと頷いた。
「娘さんを預かってほしいとのことですが、詳しく話を聞かせてくださいますか?」
「分かりました」
それから坂本さんは夫のことや自分の余命が残り僅かであること、そして娘のことを俺たちに話した。
依頼内容が詳しく書かれていなかったのは、お世話になってる看護師の人に代わりに書いてもらったからだそうだ。
あまり仕事の邪魔をするのは申し訳ないし、巻き込むわけにはいかないから必要最低限のことだけ書いてもらったらしい。
手紙を書くことすら難しいほど坂本さんは弱っていた。
「なぜ我々に?」
俺の質問に坂本さんは
「色々な施設に話をしてみましたが無視されたり、受け入れてもらえなかったりして……。あなた方への負担が大きいことは重々承知しております。しかし、私はもう長くありません。どうか最期の願いを聞き届けてはもらえないでしょうか。お金はできるだけ用意します。どうかお願いします」
俺は迷っていた。
あの三人を誘拐したことが正しかったのかということでさえ、いまだに悩んでいる。
簡単に決めていいことじゃない。
俺が何も言わないでいると、坂本さんは俯いてしまった。
そんな様子を見ていたゆずが
「桜澄さん、引き受けてあげられませんか?」
と言ってきた。
ゆずの仕事は主に俺のサポートで、仕事を引き受けるかどうかについて決めることなどは俺に任せていて、こういう場合、普段なら一歩引いたところから見ているだけだから、これは珍しいことだった。
ゆずは真剣な目をしている。
思いつきで言ったわけではないだろう。
俺は悩み抜いた末、承諾することにした。
日向は大人しかった。
大人しいというより何もかも諦めているだけなのかもしれないが。
食事を出すと
(肉は食べたくない)
と紙に書いてみせてきた。
日向が声を出せなくなってしまったことは坂本さんから聞いていた。
「わかった。じゃあサラダでも持ってくる」
サラダを差し出すと
(ありがとうございます)
と書いてみせてきた。
それから黙って食べようとしたから止めた。
日向は俺の目を見上げてきた。
「日向、よく聞け。事情はある程度知っている。お前が肉を食べないというなら別にそれでいい。世の中には肉を食べずに生活している人もいる。何も悪いことじゃない。だがな、俺たちは他の生物を殺し、命を奪い、それを食べて生きている。これは人間だろうが動物だろうが、肉を食べようが食べまいが変わらない。それは俺たちが決して目を逸らしてはならない事実だし、逃れようのない現実だ。だから俺たちは他の命に対して責任があり、その責任を果たさなければならない。つまり、いただきますとごちそうさま、だ。自分の糧となったものに感謝し、敬意を払う。これが何よりも大切だ。ちゃんと手を合わせろ。それだけは忘れるな」
日向は一度自分の手を見つめた。
それから顔を上げて俺の顔を見ると、こくんと頷いた。
そして体の前で小さな手のひらをぴったりと合わせ
「……い、ただき、ます……」
と絞り出すように言った。
「よく頑張った」
俺が頭に手を乗せると、日向は不器用に微笑んだ。
こうして日向は少しずつだが声が出せるになっていった。