アンドロイドは飲食をしない――というのは、最早過去のものとなりつつある。
シッターロイドだけでなく、アンドロイドと生活を共にする人々が増え、その分人生の相棒のように寄り添うアンドロイドが増えてきた流れを受けて、人間とほぼ同じような食物などを口にできるタイプのアンドロイドやその機能が開発されて出回るようになった。
味覚はほぼ人間と同じだが、消化や栄養の吸収などは人間とは異なるらしい。それでも食事の場を共にできるようになったのは大きな進歩と言える。
そしてその機能は、復元されたリクにも装備された。
『さあ、出来たよ、昴』
「わあ、美味しそう! やっぱりリクは料理が上手だね」
『でも半分は昴も一緒に作ったんだから、俺だけじゃないよ』
リクが苦笑しながらキッチンのテーブルに運んできたのは、天板に並べられた焼き立てのクッキーだった。あの頃と変わらぬレシピで、リクと昴で作り上げたものだ。
冷ます間に味見と称して昴が手を出してつまみ食いするのも、あの頃と変わらない。
「あっつい!」
『当たり前じゃん、焼き立てなんだから。そういうとこは変わらないねぇ、昴』
「だって美味しそうなんだもん」と、幼い子供のようにふくれ面をする昴の頬を、リクは鍋掴みを取った指先で触れた。あの頃と少し変わった肌は、すっかり大人の姿になっていた。
クッキーが程よく冷めたのを見計らって、昴がココアを淹れた。甘い、マシュマロ入りのココアだ。
リビングのソファーの前のテーブルに、焼き立てのクッキーが盛られた皿と淹れたてのココアの入ったマグカップを並べる。ようやく、あの日約束したおやつが叶えられようとしていた。
「リク、あーんってしてあげる」
『えぇ……そんな、昴はマスターなのに……』
「でももうシッターロイドじゃないでしょ?」
『そうだけど……』
「ほら、あーんってして」
『あー……』
ソファーに並んで座って、昴がクッキーを一つ摘まんでリクに差し出してきた。
自分が奉仕するのは慣れているものの、されることには不慣れなため、たかがクッキーを食べさせられるだけであっても、元がシッターロイドであるリクにとってはかなり思い切らなくてはいけない行動だった。
戸惑いを隠せないまま恐る恐ると言った様子で口を開けるリクのそこに、昴は自分が作ったクッキーを一つ放り込んだ。
サクッとした食感が、リクの口中にほのかな甘みと共に広がる。リクにとって初めての食事だ。
『なんか、食べたらふわふわしていい気分だ……これが、“美味しい”……?』
「そうだよ。美味しいものを食べたら気持ちがふわふわしていい気分になるんだよ」
『そっか……いいね、美味しい、って』
食事により新たな感覚と感情を知ったリクは、より豊かな表情で昴に微笑みかけてきた。その表情は人間と遜色ない程自然なもので、昴はそれが経てきた年月の長さを思い知らされた。
リク、こんな表情もできるようになったんだ――進化した科学技術の恩恵を一身に感じながら、昴もまたリクが作ったクッキーを口に入れる。ほのかなやさし甘みが口中に広がる。
クッキーを食べつつココアを半分ほど飲み干した頃、ふと、昴がずっと気になっていたことがあると言い出した。
『気になってたこと? 俺のことで?』
「うん……あのね、リク……あの日、僕になんて言おうとしてたの?」
『あの日って、俺が、“眠った”時?』
「うん……あの時、“ずっと…き…だよ”って。」
稼働停止間際で音声のヴォリュームが最小になっていきながらの言葉だったせいか、リクのあの時の言葉は残念ながら昴の耳には届いていなかった。
リクはメモリーの中からあの日のことを探し当て、そしてそっと隣に寄り添うように座る昴を抱きしめながら耳元で囁いた。今度は、聞き洩らさせないように。
『――ずっと、好きだよ、って言いたかったんだ』
『やっと言えた……』と、リクが顔を数センチの所に話しながら言うと、囁かれた昴は耳元を押さえて真っ赤になってリクを見つめている。
アンドロイドは無機質で、感情表現も学習したものしかできない――そう、言われていた時代がかつてはあった。あくまで“彼ら”は使役される存在なのだ、という考えが蔓延っていた時代があった。
しかしどうだろう。今、目の前で自分を見つめ抱きすくめる“彼”が口にした言葉は……紛れもない愛そのものだ。
“彼”が目覚めてくれれば、それでいいと思っていた。自分がいつの間にか抱いていた感情の正体を知っても尚、昴は多くを望むまいとしていた。
それは、彼の中に“彼”はあくまでアンドロイドでしかないという思いがあったからかもしれない。
だけど“彼”は、リクは、あの頃から変わらず、自分に愛情を注いでいてくれていたのだ。
その証である言葉を受け取ったいま、昴は存在すら自身にもひた隠しにしていた感情にようやく名前を付ける。
「――ぼくも、好きだよ、リク…」
喜びで震える声で昴が告げると、リクはこの上なく柔らかくやさしく微笑む。
春陽の降り注ぐ午後のリビングで、ふたりは再び強く抱きしめ合った。
確かなぬくもりを感じながら、ふたりは吐息の交じり合う距離で見つめ合い、やがてどちらからともなく唇を重ねる。
「……やらかいね、リクの唇って」
『そりゃあ、俺は高性能なアンドロイドですから』
触れ合った唇の感触に驚きながら昴が呟くと、リクはおどけたように笑う。
「ねえ、もう一回」と、昴が言うよりも早く、リクから再び唇を重ねた。ココアの味の名残が残る唇は、思い描いていたよりもやわらかな感触なことに、唇を離したリクは思わず笑みをこぼしていた。
その笑みがこれまで見たどの表情の中でも人間らしさを感じた昴は、胸の奥がぎゅっと締め付けられるほどにリクが愛しいと思った。
「ずっと傍にいてね、リク」
『もちろん』
永遠を誓い合うように、ふたりは何度もキスを重ねる。
窓から降り注ぐ春陽の陽射しが、その光景をヴェールのように包んでいた。
<終。>