アンドロイドは基本、睡眠をとらないということになっている。
とは言え、それは人間でいう睡眠――ベッドや布団に入って横になって目を閉じて活動を休止する――の定義であって、厳密には“睡眠”と呼べるものをとる場合もなくはない。
アンドロイドたちに言う“睡眠”とは、主電源への充電と、活動の休止の二通りを意味する。
前者の場合、基本的にボディに備え付けられた太陽光電池などによって稼働エネルギーを常に捻出しながら活動している“彼ら”にとって、極稀な現象とも言える。
災害時や長期にわたる野外活動時など、充分な電源が長きに渡って得られにくくなった場合の後などにおいて、急速充電を何がしかの形で行うことを指す。
そして後者の場合は――そのアンドロイドの“寿命”を指していることになる。
どんなものにもいつか来る“その日”があるように、アンドロイドも例外ではない。
ただ生き物よりも丈夫で耐久年数がずっと長いだけで、永遠に時を過ごし刻み続けられるものはないのだ。形あるものは、いつか“その日”を迎える。
アンドロイドのメモリーだけを抜き取って保存し、ボディだけを新しくして生き続ける技術もなくはないし、理論上でも可能である。
しかしそれが本当に生き続けることになるのかは、いま議論のただなかにあることであった。
よって今現在現実的に、“寿命”を迎えたアンドロイドは、そのまま目覚めることがないと考えてもいいと言える。
「ねー、リクぅ……お願いぃ」
『ダぁメ、今日こそはちゃんと自分の力でやりな』
「……ケチぃ」
恨みがましくリクを睨むように見てくる昴に、『ケチで結構』と、澄ました顔で昼頃洗濯して乾燥まで終えた洗濯物を畳みながらリクは返した。昴はリビングでリク監視の許で宿題をやっている。
昴の脚の怪我が随分と治癒してきて、松葉杖なしでも多少の距離なら自分で歩けるようになってきた。そのせいかまた以前のようにリクに調子よく甘えて宿題などをやってもらおうとねだる。
以前の調子を取り戻してきて、昴が心身ともに回復しつつある良い傾向なのだろうけれども、だからと言って何でも手放しに我が儘を聞くわけにはいかないのが世の常というもの。
リクは、宿題の課題が表示されたタブレットの画面を不満気に睨む昴の横顔を見て苦笑していた。
それでも以前に比べれば、昴は我が儘が断られた時に癇癪を起すほどに起こるような事は随分と減ったようだ。
やはりあの事故の起因が、自分の我が儘を押し通そうとしたことによる癇癪の末だったことを昴なりに自覚しているのか、多少我が儘や不満を口にしつつも、昴はできる限り自分で取り組もうという姿勢に変わりつつあるようだ。
事故で怪我して大きなお灸をすえられただけでなく、それが昴自身の成長に結びついているのかもしれないと感じているリクは、丁寧に昴の服を畳みながら目に見えない成長に目を細めていた。
もう、自分が何でも付きっきりでいる必要は、いよいよなくなってきているのかもしれない――寂しくも嬉しい時間の流れを感じつつリクは、ゆっくりとひとつ瞬きをした。
その、刹那だった――リクの視界が、不意に歪んで陰りを見せて揺らぎ始めたのだ。
『――……っえ?』
滅多にないバッテリー不足でも見せたことがない現象に、リクは畳みかけていたタオルを膝に落として咄嗟に眼元に手を宛がい、いま起こった現象の確認を取る。
……内部にエラーらしきものは見られない。なのに、じわじわと蝕むように視界が陰って暗くなっていくのが止まらない。
「リクぅ、ねえ、ヒントちょうだ……リク? どうしたの?」
宿題のヒントをもらおうとタブレットの画面から顔をあげた昴がこちらを振り返る。
そこにはリクがまるで時折、両親が具合悪くなりかけている時に見せるような俯き加減のリクの姿があった。
見慣れないリクの姿に昴はタブレットを放り出し、ソファーの前の床に座っているリクの許に駆け寄る。
「リク? どうしたの? バグが出たの?」
『……大丈、夫……宿題終わっ、たら、あった、かい……ココアと、昨日……焼い、た…クッキー、で……おやつ、に……しよ、ね……』
心配そうな表情を向ける昴に、何でもないのだと言うように弱く笑って見せるリクの姿に、昴は何やら不安をかき立てられた。明らかにリクの様子がおかしいからだ。
きっと何かぱっと見じゃわからない大きなバグが生じたのかもしれない――そう思った昴は、自室に置いているキッズ用のスマホを取りに向かおうと立ち上がりかけた。両親にリクの異変を伝えるためだ。
しかしそれを、リクの手が昴の服の裾を掴んで止めた。昴が振り返ると、ぐったりとソファーにもたれ掛かるリクが弱くよわく、しかしこの上なくやさしく微笑みながらこちらを見つめている。
『……ごめ、ん……俺、もう……“眠ら”な、きゃ……みたいだ……』
「リク? どうしたの? リクは眠らないんでしょ? ねえ、やっぱりおかしいよ、ママかパパに電話しなきゃ!」
『……昴……ここ、に……いて……』
アンドロイドは、マスターに世話をするうえで何かをするように指示することはあっても、それ以外のことを願う事は滅多にない。
それこそが、バグとも言えたが――最早それを判断できる機能の正常さも時間も、“彼”には残されていなかった。
初めてとも言えるリクの個人的な願いに、昴は踏み出した足を止めて振り返り、従うようにリクの傍に座った。
リクは、自らの我が儘を聞いて傍らに座ってくれたちいさなマスターの頬に触れて、そのメモリーに刻み込むようにゆっくりと丁寧に一言ひとことを紡いだ。
『……ずっと、傍……いさせてくれ、て……ありがと……ずっと……き、だよ……』
昴の頬に触れていた指先が、そのままの姿で硬直したのは、最後の一言を呟いた直後だった。
微かに何かがゆっくりと停止していく音が聞こえて、それまでまっすぐに昴を見つめていたはずの夜色の瞳が虚ろにくぐもっていく。
「――……リク?」
その名を恐る恐る呼んでも、“彼”はもういつもの人懐っこい笑みで応えてくれることはなかった。
自分の頬に触れた形のまま、凍り付いたように動かなくなってしまった指先に触れても、それが彼の手を握り返してくれることはなかった。まるで、呼吸するのを止めてしまったかのように――
「……リク? ねえ、どうしたの? リク? 今、何を言ったの。ねえ、リク……」
考えたくない事態が起こってしまったことを薄っすらと感じつつも、昴は震えた声で“彼”を呼び続けることを止められない。たとえ幾度そうしたところで、“彼”は、もう……
冬陽の降り注ぐあたたかな部屋の中で、動かなくなったシッターロイド共に残されたちいさなマスターは、訪れてしまった無慈悲な現実を前に呆然とする他なかった。
そして数秒後、完全に“彼”が稼働を停止したことを告げる無機質な発信音が、鳴り響く。
<―――RS0412、稼働を完全に終了いたします……>
こうして、ひとつのシッターロイドがその“天寿”を全うし、“眠り”についた瞬間だった。