こうした衝突は、今日が初めてではなかったし、最近何かと頻発している。つい先日は宿題をやるのやらないので言い合いになったりもしたほどだ。
昴ももうすぐ十歳を迎えようかという年頃だ。いくら安全のためにシッターロイドがつけられているとは言え、自分の親でさえ疎んじる年頃に差し掛かる時期でもある。
赤ん坊の頃から傍にいるシッターロイドなど、それ以上に疎ましい存在なのかもしれない。
『……もう、俺はお役御免なのかな……昴も、十歳だもんな……』
投げつけられた本を拾って、埃を払いながらリクはそう呟き、自分の言葉にひどく胸が軋むような思いがしていた。
昴の我が儘をすべて聞いてやりたい衝動と闘いながら、昴に自ら行動するように促すのはとても骨が折れることだ。
昴にだって昴なりの考えがあっての欲求であることがリクにはわかっているから、それを成長ととらえることもできる。
リクには今までの経験がありはしたが、だからと言って昴ぐらいの年頃の子どもの相手が得意なワケではない。
シッターロイドは基本、生活に手助けが必要な年頃の子どもの世話をすることと、その子ども達の安全を守ることを主としている。
保護者と連携して養育に関わっていくとは言え、所詮は保育の手助けをするための補助機能のツールに過ぎない存在なのだ。
つまり、リクは能力的に昴の相手をするには限界に差し掛かりつつあった。
加えて、リクはいわば旧式のシッターロイドでもある。
メンテナンスとアップデートを重ねているとは言え、押し寄せる機体の経年劣化という“老い”には抗えないし、その上、昴がシッターロイドの対象年齢の上限にも達しつつあることも、リクにこのまま昴のシッターロイドを続けていくことの自信を失わせていた。
どうしたものか……そう、拾い上げた本の表紙を指先で撫でながら溜め息などという人間臭い動作をしようとした、その時――
<――危機信号。マスターに危機が迫っている。レベルE。繰り返す。危機信号。マスターに……>
リクの体内から、けたたましいアラートが鳴り響く。
シッターロイドはじめアンドロイドのマスターの身の安全のために、マスターには小型のGPS的なものを搭載した腕時計かリストバンドを装着させている。
それにより半径数十メートル以内に迫る危機――事故・事件・災害など、不測の事態――を予測して、回避させる、回避させるためにアンドロイド自身を差し向ける機能がアンドロイドには備わっている。それを促すために発動されたアラートだった。
危険度は完全に安全な状態をAとした場合を含めて五段階で最高危険度はE――つまり、マスターの命が危険にさらされていることを表している。そのためアラートの音もけたたましく不気味なものだ。
リクは稼働してこの方、その音を聞いたことはない。その前段階の警報を察知してそれに従って行動したことはあったが、ここまでの危機が差し迫っているパターンは初めてだった。
不気味で耳を塞ぎたくなる警報に、リクはネガティブに沈みかけていた意識を叩き起こす。
“彼”は汗をかかないはずなのに、嫌な湿った感触が皮膚を撫でた気がした。
アラートはGPS機能によりマスターの現在位置をアンドロイド本体に知らせてくる。昴はいま、どこにいるのか。
GPS機能がそれらをすべてリクに知らせるよりも一瞬早く、リクは家を飛び出していた。そしてここ最近出していなかった俊足でただひたすらに昴のいる方角へ駆けて行く。
神の存在など無意味な事は知っているはずなのに、リクは祈るような想いで走り続けた。
(――……神様、どうか、昴が無事で……)
リクが家のある住宅街を駆け抜け、昴が幼い頃よく遊んだ公園の角を曲がり、家に最も近い大通りに行き当たる交差点が見えてくる辺りに差し掛かったその刹那、辺りの空気を引き裂かんばかりのブレーキ音と、何かがぶつかる鈍い、しかし爆発音のような音が聞こえた。
『――昴!!』
耳を塞ぎたくなるような悪夢の音のした方向に、リクは走り続ける。
警報とよく知る現場の様子から、予測される最悪の事態を予知してしまったリクは、辿り着いて目にした光景に、思考がフリーズしてしまった。
昨今の自動車の大半には対物回避制御装置が備わっていて、交通事故そのものが起こりにくい世の中になりつつあった。
しかし中には装備していない旧式の自動車や、自動運転ではない運転をしている車なども少なくなく、制御装置そのものが故障している場合もなくない。
つまり、横断歩道に差し掛かった昴は、そうした不運な偶然の重なった車にはねられてしまったのだ。リクが駆けつける、ほんの数秒前に。
それも、“彼”の様な旧式の車によって引き起こされた事故だった。
車と出合い頭にぶつかった地点から数メートルほど跳ね飛ばされたちいさな身体は、硬いアスファルトの上に転がったまま、ぴくりとも動かない。
『昴! 昴!!』
シッターロイドはアンドロイドの中でも感情の起伏が穏やかな部類に入ると言われている。中でもリクのRS0412は極めて穏やかな感情表現の部類に設定にされているともいう。
――それでも尚、目の前で動かなくなったマスターを姿は、“彼”の中の何かを掻き乱した。
制御不能となったように昴の名前を叫びながら、横たわる昴に駆け寄り、リクは擦り傷だらけのちいさな身体を抱き上げた。ちいさな脚から、とめどなく血が流れだしている。
リクの悲鳴じみた呼びかけに、抱えた身体があの元気な声で応えることも目を開けることもなかった。
――まだ、あたたかい……そう察知した瞬間、リクは昴を抱えたままゆっくりと、しかし次第にスピードをあげながら駆け出す。
“彼”の唯一無二のマスターを救うために。
「あ! ちょっと! その子連れてかないで!」
「速い……! アンドロイドか?!」
事故現場の周囲は起こってしまった事態を把握するよりも早くリクが昴を連れ出してしまったため、大混乱に陥っていた。まだ警察すら来ていなかったからだ。
事故の目撃者や事故車の後続の車の運転手らが、リクに向かって何事か叫ぶように呼び掛けていたが、リクには届いていなかった。
“彼”には、いま、腕の中の命の灯を消さないようにすることにだけ使命が注がれていたのだから。
経年劣化で傷み始めていた脚がもつれそうになっても、リクはGPSで察知した最寄りの救急病院に向かって走り続けた。