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恵太さんの演奏会

朝の五時半に目覚めると、恵太さんはシャワーを浴びている最中だった。微かに水滴が床に落ちる音が聞こえてくる。ベットから起き上がって冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出して飲む。
「おはよう。今日は早いね」恵太さんがバスローブ姿で髪の毛をタオルで拭いながら言った。
「うん。今日は楽しみだね。だから早く目覚めちゃった」
「僕も実は布団の中でなかなか眠れなくて、それでも今はスッキリした気分なんだ。ほんと今日の演奏が楽しみだよ」恵太さんは冷凍庫からファミリーサイズのアイスクリームを取り出して、スプーンで皿に盛った。そして私の分も皿にのせてくれた。
「朝起きてからのアイスクリームって、とっても爽やかだよね。みつきがハマるのもうなずける」
「そうでしょ。五臓六腑に染み渡るっていうか、最高に体中に栄養がまわるって感じ」私は一口バニラアイスを食べてアイスが舌の上で溶ける感覚を味わって、なんて素敵な作用なんだろうと思った。まるで人生のようなものだ。甘くて一瞬に終わってしまう。いや、その中には苦くて苦痛に満ちた一時だってあったのかもしれない。この世界には何も悲しさを味わったことの無い人だっているのかもしれないし、絶望の連続だった不幸な人も、すぐ私の側にいるのかもしれない。
「恵太さん、こんな素敵な日に言うことじゃないかもしれないけど、今までに辛かったことってある?」私は恵太さんの瞳がどう動くかをしっかりと見つめた。その瞳は真剣に私の瞳を見つめ返している。
「素敵な質問だね。もちろん僕にも悲しかったことや辛かったことがたくさんある。そうだな、なにから話そうか。僕が幼かったとき、幼稚園にいた時の話なんだけど、猩紅熱という病気にかかって病院に入院したんだ。どのくらいの期間入院したのかはもう忘れてしまった。覚えていることは2つある。注射をされるのが怖くて、その反動なんだろう、恐怖に満ちた笑い声をあげて採血を受けた。それからもう一つの経験は、夜の遅くに、といってもたぶん7時くらいだと思う。ベットに座ってテレビを看護師と一緒に見ていたんだ。それが野球中継で僕はお父さんがプロ野球の選手なんだと看護師に話した。でもその看護師の女性は僕の言ったことを否定したり注意を与えることはしなかった。まるで優しいお姉さんのように一緒になってずっとテレビ番組を見ていたんだ。でもなんでその看護師は野球なんて見ていたのだろう?それが今になっても不思議だと思うんだ。もちろん彼女が熱烈な野球ファンだったのかもしれないけど。でも今感じたことなんだけど、その看護師は僕のことを我が子みたいに暖かく見つめていたんではないかとも思うんだ。あれ?これって不幸な話じゃ無かったね。ごめん、つい気がかりだったことが言葉に出ちゃった」恵太さんは笑いを噛み殺して言った。
「とても大切な思い出なんだね。これから恵太さんの色々な話が聞けるなんてほんと楽しみだよ」
「なんか今思えばなんであんな嘘をついたんだろうと不思議だよ。でも子供ってそういうところあるよね。嘘というか、それは自分のなかでは真実そのものなんだ。自分の理想ってことかな。大人になってからそんなことを言ったら虚言癖だって思われるけど」
「私も今までにいろんなことを経験したけど、恵太さんに出会えたことが今のところ衝撃的な出来事かな」私は恵太さんの両手を握った。すると恵太さんは私の指を鍵盤のように撫でながら微笑んだ。
「うん、今までに弾いてきたピアノのどんな鍵盤より触り心地が良い」恵太さんは目を閉じて余韻に浸っているようだ。私は恵太さんに抱きつき、抱き締めた。暖かい彼の体がとても心地よい。
「恵太さん、今日の演奏、小樽で弾いてきた時とは印象が違うのかな」
「そうだな、小樽では寛(くつろ)いだみたいだったけど、今回の演奏はダイレクトに観客に向かって訴えかけるような感じがしている。よりいっそう一対一で対面していく、みたいな。こっちのほうがやりがいがある。観衆の人たちに心から楽しんでもらいたいよ」恵太さんは私の髪を撫でて、それから私の頬にキスをした。
「ああ、きっと最高の演奏になると思う。コンサートが終わったら、どこかでじっくりと腰を落ち着けたい。テンションが上がって興奮してしまうだろうな」
「そうだね。じっくりと余韻に浸って充分に自分を見つめ直す機会になるからね。ねえ、たまにはファミレスで食事をしない?なんか庶民的な感じを味わってみたいな。っていうか私たち庶民だけど」
「いいね。周りの人の雰囲気に影響されてとても良い感じで寛げる。最高に美味しい食事とは言えないかもしれないけどなんか懐かしい気持ちに戻れるしね。そう、よく高校生の時に友達としょっちゅう通っていたな」恵太さんはそう言うと私から離れて台所に向かった。そして棚からコーヒーカップを2つ取り出してから私の方を向いてにっこりと笑った。
「みつき、今、本当に生きていて良かったと心から思うよ。君みたいな素晴らしい女性と出会えてとても救われた気分だ」
「まるでおとぎ話みたいだなって思うの。あの時私が喫茶店を訪れていなかったらこんな風に恵太さんと出会うことがなかった。不思議だよね。私たちみたいに奇跡的に巡り合う人たちってけっこう多いのかも」私は窓のブラインドをあげて外の景色を見た。太陽が射し込んでいてとても心地よい。空気も澄んでいておもいっきり深呼吸をした。なんて素敵な朝なんだろう。生きていて本当に嬉しい。これから仕事も私生活も悔いが残らないように頑張っていこう。窓から見ると世界は本当の幸せを体現しているように見えた。でもこの瞬間にも辛い経験をしている人がいるのだ。そのことを思うと心が疼いたが、今できることは少しでもそんな悲しい気持ちを抱いている人を救えるように一生懸命になって仕事に打ち込むこと。それが一番人に貢献できることではないか。そう思った。
「みつき、なんだか君は幼い子供のように日々成長している。それはとても良いことだ。大人になっても毎日を学びとること、そのことを忘れてはいけないんだよね」
「そう、この貴重な一日はもう決して戻ってこない。だからできるだけ大切にしていきたいんだ」
私たちは朝の9時にアパートを出て、電車で都心に向かった。乗客たちはスマホをいじっていたり目をつぶって静かに周りの音を吸収しているような感じがした。恵太さんは爽やかな真夏の暑い時に冷たい水を浴びたように颯爽(さっそう)としている。私の視線に気づいたのか、私に顔を向けてにっこりと笑顔を見せる。ちょっとした仕草が私の心を暖めてくれる。いつまでもこんな日々が続くといいんだけどな。そう思って恵太さんの右手を握った。彼もぎゅっと握り返してくれる。とても温かな手だ。この指が今日の演奏会で鍵盤を撫でるように、まるで水中を泳ぐイルカのように自由気ままに遊泳するのだ。脳が指令を出して指先に信号を送る。考えてみれば凄いことだ。本当にこれはただの演奏会というよりは人の最高度に洗練された技術を公表するに等しい行為だ。恵太さんの心の中にある潜在意識からの痛切ともいえる訴えを受けとることになる。聴いている人たちの鼓動が恵太さんの指先にも熱く触れて微かに魂を振るわすように影響を与えることもあるのではないか。そう、聴衆も一緒になって旋律を奏でるのだ。車窓を透かして見える景色はとても太陽が輝いていて静かにそれでいて情熱的に煌々と光っている。その太陽は人の気持ちを考えることなく瞬いていて、そんな思考力のない太陽が私たちや動植物の生命を左右しているとは考えられなかった。そうすると私たちは誰かに形作られているとはいえないだろうか。つまり創造者、神といえる人物が。言ってみれば、それこそ人類が誕生してから今日に至るまでのもっとも謎とされる命題だとも言える。私たちは何の目的もなく生きているのだろうか。それとも生きることには何か価値があって人は最終的に何らかの目的があって、最終的に創造者の慈愛によって意味のある人生を知ることができるのだろうか。今の世の中を見ていると、人々は戦争を起こしたり、憎しみあったり、自由を叫びながら、その目的を果たしていない。私たちはこれからどうすればいいのだろう?でもできることといったら今身近な人を精一杯愛することしかできない。また仕事を通して人々に幸せになる活動を行っていくしかないのではないだろうか。いったいどれくらいの人がそんな感情を抱いて生きているだろうか。私は不思議な顔をしてじっと太陽に問うかのように見つめていた。
「みつき、何そんなに太陽を見つめているの?」そう言って、全てを見通しているような表情だった。
「人が生きていることの不思議さ、何のために人は生きているのだろうと思ってね」その質問は今、この電車の中で語るにはとっても深刻なような気がした。でも恵太さんは私の左手を握っていてとても暖かな笑顔を浮かべてぎゅっと手を握りしめた。
「僕らの知らない所できっと神様はせっせと働いているんじゃないかと言うのが僕の意見だ。そしてひたむきに熱心に働いている人にたくさんのピザやお寿司などの料理を褒美として与える」
「それって神は大概庶民的ってことかな?」
「そう。神は身近にいるおじいちゃんみたいな格好をしていて僕たちが歩んでいる姿をこっそりと見ているんだ。でも注意が必要だよ。見た目は人畜無害な感じだけど、それはふりで本当は怪力の持ち主なんだ。あまり近づくとそのオーラによって消滅してしまうかもしれない」
「本当に私たちって単細胞の生物から進化して人間になったのかな?いつもふと思う時があるの。こんなに素晴らしくできているのってほんと不思議。視力にしたって聴力や嗅覚、味覚とか、凄く美しく作られていると思うんだ。それに芸術を理解する能力や、仲間を愛する心、家族の中に見られる深い愛情ってほんとくすしいと思う」
電車が池袋駅に着いて私たちは降りた。コンサートをする会場はすぐ側だ。まだ時間があったのでファーストフード店でゆっくりとする。いつもとは何か違う空気の流れが感じられる。どういったらいいのだろうか。とてもキメの細かい空気が漂っていると言えばいいのか。その空気を吸い込むと肺が十分に満たされて脳が覚醒されていった。店内には静かにクラシックが流れている。この音色に恵太さんは引き込まれるように目を閉じながら聴いている。その曲は初めて出会った時に恵太さんが弾いていた曲だった。私は心臓の音が鼓膜に響いていることを感じた。トクトクと耳の血管を通してその熱い血が伝わってくる。私は思わず空気を肺いっぱいに吸い込んでホッとため息をついた。すると周りの風景が輝いていて全てのものが人の手によって形作られたものであることを悟った。なんて偉大なことなんだろう。そしてそこにいる人たちに対する愛情が膨らんで、心からその人たちの幸福を願っている自分がいたのだった。そして恵太さんは幸福そうな目で私が見ている光景を理解しているようだった。
「みつき、君が見ている風景を感じることができているよ。これが一心同体って言うのかな。とても周りに自然が無くたってそこには人の力が加わった美しいそれこそ並大抵ではない作用が注がれたエネルギーがたくさんある。目を閉じてもそこには痕跡が残っているんだ。人の力は多くの人が思っているよりも絶大な能力があるんだ。きっと僕たちは真実に到達してみせる。そう思うことでどんな困難だって克服することができるんだ。今社会は様々な考えによって混乱しているけど、最終的にはお互いに助け合って本当の幸福を得ることだってできるんじゃないか、そう思うよ」
そしてスマホが着信を知らせていた。私はその電話を取る前からなにかただ事ではないことが起きるのではないかと、それはまるで啓示を与えられたみたいに感じることができた。母からだった。
「みつき、落ち着いて聞いてね。お父さんが亡くなったの」私は父の姿を思い浮かべようとした。でもそれはあまりにも霧のように儚いものだった。父とは特別仲が良いとは言えなかった。再会してもほとんど話すことだってなかった。それでも私の心の何処かにすきま風のような微かな流れが通り過ぎていくのが分かった。その風を私は捕らえて一生懸命にその出所を知ろうとした。でもそれはあまりにも小さく、鼓膜でその音を聞くことも難しいことだった。これから恵太さんの演奏会が始まろうとしているときに。と私は思った。これだけは絶対に譲れない。
母がかすれた声で言った。「心臓発作だったの。突然倒れて。そのまま息を引き取ったの。きっと苦しむことは無かったと思う。それだけが救いだわ」
「そうなんだ。なんて言ったらいいのかな。あまりにも突然過ぎて言葉が出てこない」
「そうよね。これから家に帰れる?」
「うん、実はこれからお付き合いしている恵太さんの演奏会があるんだ。だからそれが終わったらすぐに今日の便で札幌に向かうわ」
「そう、落ち着いてね。いずれは人はみんな亡くなるんだから。お父さんも精一杯生きたのよ。あなたにとっては厳しい父親だったかもしれないけど」母をそう言うとため息をついた。
「でもまさかこんなに早く亡くなるなんて思ってもいなかった。まだ、感情の整理できていないよ。お母さんもこれから頑張ってね。私にできることがあったら何でもいいから相談してね」
「ありがとう。それじゃあ来るの待っているから」
私は通話を終えてスマホをテーブルの上に置いた。そのスマホはまだ生命を得ている生き物のように鼓動しているように感じた。私は頭が真っ白になった。何をどう言うかに悩んだ。そして一言恵太さんに言った。
「お父さんが亡くなったの」私は悲しむというより自分が雀のような鳴き声を発するみたいな感じなのが自分で面白かった。
「そうなんだ。なんて言ったらいいのかな。うまく受け止められなくてすまない」恵太さんは目をつぶって自分を責めるように言った。
「ううん、大丈夫だよ。見ず知らずの人なんだから。私もまるでテレビの放送でコロナで亡くなった人が23人って言われて、そこからなにも驚きを感じないみたいな状況なの。まだ死んだって実感がないの」
「そうだよね。一瞬にして消え去ったって感じかな。人の命は儚い。有名人の死は大々的にテレビや新聞にのせられるけど、どんな無名な人にだって生き抜いた痕跡があるんだよな。誕生からいろんな楽しみや悲しみを経験して、小説のような誰もが波乱万丈な生を送ってきた。それが少しも残らないで終焉を迎えるなんて余りにも酷過ぎる」
「作家や芸能人は自分の生きざまを色々な方法で後世に伝えることができる。でもほとんどの無名な人だって自分の人生の記憶を残そうとブログや日記に書き綴ることで少しでも多くの人に自分の生きた証拠を知らせたいと思っている人は多いんじゃないかな。でも余りにもその声が小さすぎて届くことはない。本来一人の死っていうものはみんな平等なはずだよね。それなのに多くの人たちは著名な人の死を大々的に宣伝するし、興味をひいてそこのところをクローズアップする」でも私は担当する作家たちを思い浮かべて彼ら彼女らが有名になることを願っていることをとっさに悟って自分の言っていることとは正反対の言葉を吐いたことに戸惑いを感じた。
「みつき、いつここを発つ?」
「恵太さんの演奏会が終わったらすぐに」
「そうか、それじゃあ僕も一緒に行くよ」
「ありがとう。お母さんに紹介も連絡もいれてなかった。突然だからびっくりするかもね」でも私は恵太さんのような繊細なそして自信に満ちた様々な個性を持った人を母に知らせることができるのをとても喜んだ。
「あと僕の実家にもよっていいかな。お父さんとお母さんに紹介したいと思ってね」
「本当?なんか嬉しいな。どんな人たちなの?」
「両親は小学校の先生なんだ。真面目な人たちだよ。いつも子供たちのことを考えている。僕にもとても優しくてね。一度も怒られたことがない。なにか真剣に伝えたいことがあると教え諭すように言うんだ。そのあとはしっかりと抱き締めてくれた。だから今の僕があるのは全て父と母のお陰っていう訳」恵太さんの笑顔が全てを物語っていた。なんて素敵な両親なんだろう。会うのが楽しみだ。きっと恵太さんに対して最初から好感を持てたように彼の両親とも深い絆を構築することができる。そんな予感が心を占めた。
私たちは演奏会が始まる二時間前にライブハウスに着いて控え室でゆっくりと寛(くつろ)ぐことにした。このコンサートが観客だけでなく、亡くなった父へのレクイエムとなる。そんな思いを抱いてしまった。恵太さんはどう感じているのだろう。その答えはわからない。でもそれは秘密であってもいい。そう思った。恵太さんは鏡の前の椅子に座って深く黙想している。頭の中でピアノを弾いている姿が思い浮かんでいるのだろう。両手を肩の高さまで上げて指が滑らかに動いている。それはひとつの生命体のような動きを見せている。私は彼の集中を邪魔しないように静かに椅子に腰掛けている。でもこの静かな何とも言えぬ雰囲気がとても安らかだ。空気が澄んでいるというか、とても濃厚でありながら細かく震えているような感覚がする。それはきっと恵太さんと私の意識が織り成すものだろう。そう、人は自分の体から微細な周波数というのだろうか、エネルギーを発しているのだ。それを感覚的に捉えて感じる力が強い人もいる。そしてそういう人は他の人に対して深い同情心や愛情を込めることができて周りの人たちに対して強い影響力を与えることもある。宗教家みたいな人がそうだし、社会で活躍している人にもこのような人が多い。その一方でいつも怒りの周波数を発している人もこの世のなかには多数いて、辺りの人々に対して攻撃的で悲惨な結果を与えている。無差別に人々を傷つける人が現れて報道で大きく取り上げられるし、その事件が様々な人たちの感情を揺り動かす。その作用は多くの場合電波のように見えないものではあるけれどとても強力な影響を人々の心の植え付ける。そして心の内に抱いている思いというものは実際に体の表面に現れてそれが人の表情にも作用して形作るし、人の健康にも大きな寄与をする。
ドアがノックされて返事をすると今回私たちを担当する男性がにっこりと微笑みながら私たちを迎えてくれた。
「どうもこんにちは。小田原と言います。今日はよろしくお願いします。気分の方はどうですか」
「どうも初めまして。桜田恵太です。なんだか気持ちが高ぶっています。緊張というより大好きな人に告白するみたいです」
「それは良いことだ。きっと返事はオーケーですよ。私も桜田さんの演奏がとても楽しみです。自分の心に響き柔軟性や複雑な感情が渦巻くのを想像するだけでワクワクしてきます。なんだか自分の息子の発表会を見つめる感覚もある。そうだ、よかったらコーヒーを飲みませんか。今淹れてきます」そう言うと小田原さんはドアを閉めて出ていった。
「小田原さん、好い人だね。なんだか僕のお兄さんみたいだ。これから長い付き合いになるような感じがする」恵太さんは小田原さんが去って行ったドアの向こうを透かしてずっとその遠くを見るように言った。お兄さんか、私も欲しかったな兄妹が。でも実際の肉による兄妹だけではなくてそれを越えた精神的な繋がりというものが今の社会には必要なのではないかと思った。今の世の中、ネットやSNSなどによって人の距離が縮まっているのにそれとは正反対のことが現れてもいる。本当にこの世は複雑だ。私の担当する作家さんたちもこの事を危惧している。いかに人と人との繋がりが大切なのかを、それが小説にとってとても重要なものであるのかをストーリーのなかに埋め込んでいくかをとても悩みながらも書こうとしている。作家というのは酷な職業だ。ほとんどは兼業で執筆をしている。アルバイトをしながらほとんどの時間をそれこそ寝る暇を惜しんで書いている。でも自分の抱いている思いを文章にしてそれを人々の心に達するという何よりもかけがえのない特権が与えられる。それはどんな喜びにも変えられないものだ。私はそんな誠実な、それでいて風変わりな人たちの助力となれることを誇りに思っている。彼らはいわゆる一般の人たちから見れば変態といわれる種族かもしれない。でも、ただの変態とは違う。純真な、そして真実を探求する、人の奥深くを見つめ、時には普通の人たちが見逃してしまう秘密を覗いてそこに注意を集中する。そういったダイヤモンドの鉱石を見つけることのできるいわばスペシャリストだ。本当に私は作家たちを励まして彼らの感情を様々な世界へと巡らせることができるという、とても高尚な仕事につけたことを、とても満足感を覚えた。今もこうして恵太さんから微弱な振動を受けて心を感性を揺り動かすことができることに幸せを感じた。恵太さんはじっと鏡に自分を見つめている。自分の心を見つめている。私は立ち上がって恵太さんの後ろに近づき、両手を彼の肩にのせた。衣服を通して静かな体温が伝わってくる。私の心は一瞬にして暖まった。
「恵太さん、もうすぐだね。あの時、小樽で演奏していた時に実感した暖かいゼリーのようなものに包まれた感覚っていうのかな、またその旋律を聴けると思うとまるで奇跡を体感しているような気分になる」
「そうだね。なんだか、なにかに乗り移られたみたいな、手が自動的に動いてひとつの絵を完成させる、そういった体験なんだ。空中に浮いているような、鳥が当たり前のように飛んでいるみたいな、そんな状態。人は実際に飛べなくても創造力で飛ぶことだってできる。それはある意味飛んでいる以上に凄いことでもある」恵太さんは鏡の私を見つめながら真剣な眼差しで言った。ドアがノックされる音がして小田原さんが両手に湯気のたっているコーヒーを盆にのせて入ってきた。
「どうぞ飲んでください。温かいうちに。あと開演まで三十分です。お客さんも席に入ってきてますよ」
「ありがとうございます。ああ、いい香りがする。これはブルーマウンテンですね」恵太さんは紙コップを鼻に近づけて言った。
「はい、そうです」
「僕も毎朝飲んでいるので。ブルマン。一度この味を占めるともう元には戻れなくなる」
「そうですよね。私もブルマン一択です。本当に良い香りです。では演奏五分前にまた伺います。それまで心の準備をしていてください。」
私たちは心地よい興奮を押さえきれなくなって観客席まで行ってみることにした。そこには客席いっぱいに人が埋まっていて、ざわざわと語り合う人たちがいた。
「嬉しいね。こんなに僕の演奏を聴く為に集まってくれたなんて」恵太さんは美術館で作品を眺めるみたいに観客を見つめていた。そうだ、一つ一つが、一人一人が芸術作品なのだ。とても貴重で大切なもの。そこから美術館に展示されているどんなものよりも偉大で崇高なもの。それが人間なのだ。多くの人は忘れている。人一人は何億円も何兆円も、いくらお金を積まれても払うことのできないとても価値のあるものであることを。
控え室に戻って恵太さんは演奏用の衣服に着替えた。蝶ネクタイの位置を鏡を見て整えた。うん、ばっちしだ。どこからどう見ても好青年。講演五分前になって小田原さんが来た。私は客席に向かい、恵太さんと別れる。観客席に座って辺りを見回すと、みんな期待に胸を膨らませているみたいだ。舞台の中央にピアノが据わってある。それは今静かにまるで休眠状態のように微動だにしないけど、十本の指によって縛りから解かれて美しい人を魅了する音を発するのだ。鳥が歌声を奏でるのはなぜだろう?仲間を呼ぶ為?求愛を行う為なのかしら。でもその自然の演奏は鳥が意識していなくても人の心に響くものがある。
舞台に恵太さんが現れて観客は一斉に拍手をした。恵太さんは一礼して挨拶をする。ピアノに向かって、椅子に座る。ビバルディの四季。それが今回の演奏だ。オーケストラではなく全てピアノのみの楽曲だ。私はクラシックには疎いけど、この曲は聴いたことがある。とても心躍る曲で体で受け止めることができる感じがした。演奏の間、あまりにも美しい旋律に心を奪われた。音がとても澄んでいて鍵盤を叩くことの心地よさを恵太さんは実感しているみたいだった。なんて演奏することは楽しいんだろう。そう表現しているようなものが伝わってきた。小説家が文章をキーボードを使ってタイプするみたいに感情を表現するような、そんな気持ちが溢れている。音がこんなにも耳の鼓膜を刺激して、気持ちを奮い立たせるということができると、ここまで思ったことはなかった。最初はまるで外国語のように不理解だったけど演奏が進むにつれて、まるで訴えかけてくるようにその言語を理解できるようになった。大丈夫、安心して。そう、君の気持ち分かるよ。君も色々なことを経験したんだね。そう言っているような、理解を示しているような優しい感情が溢れていた。私は自然と満たされた表情でいつまでもこの瞬間が終わらないように願っていた。左右の耳から、耳が最初からまるで音楽を聴く為に作られたとでもいうかのような、そんなふうに実感するのだった。まるで赤ちゃんが大きな声で泣くような、そして少女たちが朗らかな声でコロコロと笑うような、美しさを秘めている。音楽ってとっても力をもっているんだ。私は改めて実感した。あっという間に演奏は終了した。アンコールに恵太さんは応えて二曲弾いた。観客はとても満足したと言った様子で盛大に恵太さんに向かって拍手をした。私はその演奏が続いていた間中、父が死んだことを思いにも浮かばなかった。ただただ、ピアノの旋律に魅了されていた。演奏が終わって拍手が鳴り響く中、そうだ、お父さんは死んだんだ。そう思った。そこには悲しみはなかった。でもそれでも心に針ほどの穴が空いていることを実感した。それが胃の中に移動して脳の方に向かって行った。そしてため息がでた。
客席から恵太さんのいる楽屋に向かって、恵太さんが花束を抱えている姿が目に入った。とても爽やかな、世界中を旅して回ったような気分とでも言いたいような雰囲気を醸し出している。
「さあ、北海道に行こう。父の待つ場所へ」恵太さんは私の手を取って言った。きっと恵太さんは私のお父さんの為に演奏をしたのだ。その事に私は気づかなかった。でもそんなことはどうでもいい。今の自分の気持ちに正直でいよう。無理に父の思い出に浸ることはない。私は生きていかなければならない。そしてこれからたくさんの人たちに笑顔になってもらわなければいけない。私たちはライブハウスから出て、羽田空港に向かった。亡き父が眠る北海道を目指して。


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