ここから遠い世界に潜りこむ。
幾重にも重層的に重なる森の中に一人の少年が弓矢を手に取って静かに呼吸をしていた。その森林にはたくさんの昆虫や鳥の鳴き声で満ちていて、耳を澄ますと彼らの息づかいが聞こえてきそうなほどだった。その少年はじっと前方を見つめていた。獲物が通るのを待ち構えていて一時間も微動だにせずにいる。闇の中、獣道を走ってくる動物がいた。一頭の鹿だ。少年は狙いを定めて矢を引き絞った。そして矢を放った。しかし、それは的を外して一本の木に刺さった。すかさず次の矢を放ってみごとに急所へと当たった。すぐさま少年は獲物へと走って行って解体を始めた。まだ新鮮そのもので温かかった。少年はその温かな血を身体中に塗りたくった。とても新鮮な気分になり、まるで母親に抱かれているような気分だ。草原の上に寝そべって星空を眺める。天はその少年を優しく見守っているようだ。輝く星がとても啓発的に訴えかけている。確かに星はとてつもなく偉大だ。でも知能をもってない。それに比べれば僕は考えることができるし、当たり前のことだけど生きて呼吸をしている。これは本当に凄いことだ。ふと、右足の関節部分が痛むことに気づいた。多分獣道を走っていた時に痛めたのだろう。しかしその痛みですら快感に覚えたのだった。なぜだろう?これが生きている証拠なのだろうか?少年は大きな声で笑ってその左足がもっと痛むように望んだ。静かにその痛みを受け入れた。じんじんと苦しさが脳まで届いて目の前に残像のように星がきらめいた。でもそんなことは気にしなかった。ただ、その今あるこの現実がとても大切に、そして自分にとってとても重要な意味を秘めているのだ。そんな思いを抱いていると急に喉が渇いていることに気づいた。近くに小川の流れのささやかな音が聞こえている。少年は足を引きずりながらその小川に近づいていった。とても涼しくて清い水は月を投影して美しく輝いている。静かだ。そう少年はひとり口に出して語った。でも、その一言はきっと月以外にも聞く人がいたにちがいない。いや、確かにその独り言はある一人の少女の耳に届いていたのだ。その少女は少年のたたずんでいる木の上でひとり寂しく月と満天の星空を眺めていた。
「ねえ、私に何か語ってくれない?」
少年は一瞬驚いたが、その少女は月明かりに照らされてとても美しかった。それでもっと近くに行きたいと思ってその木に上ろうとした。しかしその少女はにっこり微笑んで、
「あまり近づかないでくれる?今はもっと一人の気分を味わいたいの」と言って、でもその口調はとても優しくて少年の心に響くものだった。
「でも、私を一人にしないでね。そこから私のことを見守っていて欲しいの。充分わがままなことだってわかっているけど、今は私の願いを叶えてね」その少女はそう言うと目を輝かせてその瞳には大きな月と星空をまとわせて少年を見つめた。
「わかったよ。でもひとつだけ、いや、二つだけ聞きたいことがあるんだ」少年はその少女の美しい瞳に魅せられて言った。
「何?」少女は木の上から透き通る声で言った。
「君の名前と年齢を教えて欲しい」
「それは秘密。だって初対面の人にそんなこと答える義務なんてないでしょ」少女は意地悪な表情を浮かべて言ったけど、そこには意地悪でありながらも意地悪ではない表情が表れていた。
「人って一人では生きていけない。それにたとえ一人でいても隣に理解してくれなくても人がいるだけで安心できるじゃない。そういう感じって分かる?今の私はそんな状況かな」
「分かるよ。僕もさっき狩りをしていて鹿を一頭仕留めたんだけど、鹿には僕の気持ちなんか理解してくれる感情なんかありゃしない。家に一匹のゴールデンレトリバーがいるんだけど、やっぱり犬って唯一人の心を癒してくれる大事な友達だと思うんだ。君の気持ち、よく分かるよ」少年は木の上の少女を見上げて言った。
「私たちって何処かで繋がっているんだよね。世界はほんと広くてそれこそいろいろな人がいて、いろんな考えを持った人たちがいて、お互いに憎しみ合ったり、攻撃的で、卑怯で、嘘八百で、でも、心の底では信頼して信用して、愛し合いたいと思っている。世界は混沌としていて、自分だけは絶対に自信が持てて、必ず成功してみせるって考えているけど、でも、とても弱くて、脆弱で、寂しくて、本当に信頼できる人はひとりもいないんだと思うの。仲間だと思っている人たちがただ、自分に対して恐れているだけで、心から大切だと感じている、そんな気持ちを抱けないでいるんじゃないかな」
「そうだな。僕もそういえば孤独を感じていた。仲間や友達と言える人なんていなかった。だから気を紛らそうとして狩りに出たんだ。そうしたら君に出会えた。これも何かの縁かな?」
「うん、私たちってけっこう似た者同士かもね。実は私も家に居るのがつまらなくて出てきちゃったの。だって両親は共働きでお金を稼ごうと必死だからね。もちろんそれは大切なことだけど本当に子供が求めているのは親の愛情じゃない。それを分かっていないんだ。考えてみれば今の世の中と似ているかもね。ニュースを見れば、誰々がどんだけ贅沢をしているとか、有名人が何々をしているとか、そんなこと知ったこっちゃないよね。私が知りたいことは本当に感動できること、本当の仲間同士の愛情、そう言ったことなんだ。でも、思ったんだけど、実はそんな情報を流している人たちもそのことに気づいているんじゃないのかな?そう感じることもあるんだ。世の中の人たちが求めていることがそう言うお金の話や有名人の痴話なんか、そんなくだらない、そして世間から見捨てられたくない、いわゆる恐れの気持ちが蔓延している。世の中って馬鹿馬鹿しいどうでもいい話で満ち溢れている。そして注目を浴びている有名人自体もそんな自分自身に疲れているのかもね」
「全てが物語なんだ。僕たちに必要なのは数少ないことなんだけれど、それだけじゃ富を得ることができない。世の中は無駄なことがなくちゃやっていけないようになっているんだ。必要なものって以外と少ないよね。女性の化粧品みたいなものだ。あるいはポップソングのような聴いても聴かなくても心を動かされないそんな感じかな?中心を見つめれば見つめるほど僕たちは孤独に近づいていると思う」少年は出会った少女に独白をしていることに喜びを感じている。
「世界は混沌としていて、漠然と自分達の利益をものにしようと焦っている。なんとか世間一般から注目を浴びて自分達が中心にいることに安堵する。それしか生き残る道はないんだからね。そうだ、なんか鉄の匂いが風に乗って漂っているんだけどなにかな?」
「ああ、それは僕の体に塗りたくった血の匂いだよ。お腹減ってないかい。鹿を一頭仕留めたんだ。よかったらステーキにして食べよう」
「えっ、ほんと、それは新鮮そのものだね」少女は木の枝から身を乗り出して下にいる少年に言った。
「そうさ、新鮮で生でも食べられる。とっても美味しいだろうね。君、どんな食べ物が好きなの?」
「そうね、パイナップル、ピザ、ホットドッグ、ハンバーガー、フレンチフライ、ポテトチップスかな」少女はまだ、想像を膨らませながら考えている。
「なんかジャンクフードばっかし。でも美味しいよね。実は僕も大好きだよ。毎日ピザが食べられたらほんと最高なのに!!!って思うよ」少年は久しぶりに自分の心の底から語ることができて最高に幸せだった。
「ねえ、君、聞いてくれる。とっても大事なことなんだ。初対面でこんなこと言うのもなんだけど。君にもお父さんとお母さんがいるだろう?僕の両親は離婚していて、今、僕はお父さんと二人で暮らしてるんだ。でも、そのお父さんが病気でね。癌なんだ。食道のところにひとつ、そして胃にも転移が見つかった。それで手術することが決まったんだけど、本人は至って平気というかまるで病人には見えない。でも、いつもテレビばかり見て自省する素振りもない。自分が死ぬかもしれないってことの自覚がないんだ。どう思う?」
「きっと心の底では死ぬことについて拒絶反応があるんじゃないのかな。戦争に行く兵士と同じように。まさか自分が死ぬなんて思っていないように」
「そうか、僕たちだっていつの日か死ぬんだよな。その日に向けて進んでいる。ただ、日数の違いだけなんだ」少年は周りの空気がひんやりとして、体がその冷気に心地好い反応を示していることに気づく。
「世界中でたくさんの人たちが私たちみたいにものごとに対して疑問に思ったり不思議に感じたりしているんだろうな。生きているって楽しいよね」少女は木の枝の上で立ち上がって遠くを見つめる。銀河中心の輝きをいとおしそうにしながら。
「それじゃ、これから鹿肉を調理する。ほんととってもジューシーで美味しいよ」
少女はにっこりと微笑んで木から降り始める。地面につくと少年の歩くほうについていく。そして鹿を見つけると、近づいてその毛並みを間近で実際に撫でながら感動して、少年を見つめる。少年はナイフで鹿を解体する。皮を剥いでから肉を削り出して持ってきた鉄板の上に置く。ガスバーナーを用意して火をつける。その間、二人は肉が焼けるのを静かに見守る。肉の表面が変色してきて裏返しにする。すると少年はすぐにその肉に塩と胡椒を軽くかけてフォークに刺してから少女に渡した。
「どうぞ、シンプルな味付けだけど、とっても美味しいよ」
「ありがとう。素敵なワインレッドの色だね。凄くジューシーな感じ」少女はまず最初に鼻に近づけて匂いを嗅いだ。そして肉を口に含んだ。
「うーん、凄く美味しい。今まで食べたもののなかで一番、最高!」
「そうさ、僕もこうして、いつもっていう訳じゃないけど、狩りに成功したときはこうして新鮮な食事にありつくことができる。ほんと最高だよな。まだ食べるだろ?」少年は嬉しくて、もうひとつの肉を鉄板にのせた。
「うん。まだ食べられるわ。でも、なんてジューシーなんでしょ。本当にこんなに美味しい食べ物、食べたことないわ。最高!」
「肉ならまだまだ十分にあるから。お腹いっぱい食べたらいいよ。ミディアムが一番なんだ」
「なんか、欲しいものをプレゼントされたみたいな嬉しさっていうのかな。ため息が出ちゃうほど感動してる」
「それは良かった。それにしても星空が綺麗だね。あまり空を見るなんてこと、あまりなかったな。君はどうなの?いつも夜空を見てたりするの?」
「私は都会に住んでいるんだ。だから明かりのせいで星が見えないことが多いの。でもその代わりに月が見える。とっても綺麗だよね。知ってる?月が無かったら地球の環境が激変して高等生物が生まれなかったかもしれないってこと」少年は少女が真剣に肉を食べている様子を見ながら、そして背後のきらきらと光る星に感嘆しながら言った。
少年と少女はお腹いっぱい肉を食べ終えるとお互いににっこりと笑った。二人とも清々しく遠くから流れてくる新鮮な空気を吸った。
「あー、とっても楽しかった。あなたに出会えて良かった。私の名前は恵」
「僕は英信。よろしく」少年は少女の名前を知ることができて、しかも自分から名乗ってくれたことが嬉しかった。
「英信君か、素敵な名前じゃない」恵は英信の全身血だらけの体を珍しそうに見ながら言った。
「君こそとても素敵な名前だよ」
「その体に塗りたくっている血って何かのおまじない?」
「そうだね。昔から儀式としてやっていたんだ。伝統行事っていうやつ。鉄の匂いがして、なんだか興奮するんだ。君も塗ってみる?」
「ははは、やめとくわ。でも、英信君、また鹿肉、ご馳走してくれる?」
「うん、もちろん。そうだ、君の携帯番号教えてくれる?狩りで獲物を仕留めた時、すぐに連絡がつくだろ。そうしたらまた、新鮮な食事にありつけることができる」少年はズボンのポケットからスマホを取り出した。
「私、携帯電話持ってないの。だから家の電話番号を教えてあげる」そして少女は少年に番号を教えた。
「よし、恵。これからもっと君の為に美味しい肉を食べさせられるように頑張るよ」
「ありがとう。私も英信君に美味しいお菓子を作ってあげるわ。私、デコレーションケーキを作るのが趣味なの。けっこう評判が良いのよ。今度会うときに持ってきてあげる」
「本当?嬉しいな。俺、ケーキ大好物だよ。たまにしか食べないけど。楽しみにしてるよ」
そうして二人は別れた。少年は食べきれなかった残りの肉をリュックに入れて、少女にも新鮮な生でも食べられる部位を手渡した。帰り道、冷ややかな空気がとても心地よかった。少年はまるで甘い蜂蜜を味わうように豊かな気分だった。心の底から満ち足りて幸せできっとこの幸福感は数日といわず数週間は持続しそうだ。そう思った。僕は彼女に恋をしたのか?まだ初対面なのに、どうしてこんなに胸が苦しいのか、でも今度電話をするって約束をしたよな。会えば会うほど、この温かい気持ちは増幅してますます嬉しい気持ちは高まっていくのだろう。でも、ほんと奇跡的とも言える出会いだった。きっと今日は興奮して目が冴えて眠れないかもしれない。まあ、一日位眠れなくても死にはしないし、新たな覚醒を呼び起こす機会になるのではないか。今日は両親に新鮮な肉を渡すことができるし、新しい出会いを通してとても清々しい気持ちになることができた。これから自分の境遇は上向きになっていくことだろう。まさかこんなに新鮮な気持ちになることが、そしてこれは自分でも思ってみなかったことだけど、これは恋だと気づくことが、とても嬉しい発見だということを。目をつぶって、そこに残像のように星や月、少女の姿が浮かび上がってため息をついてしまう。なんて幸せな時間なんだろう。少年は満たされた気持ちで自分の家に向かって帰りを急いだ。