【5】伯爵家夫人と地下室の使用人
ジェラルドが行ってしまったので、レティシアは悲しい気持ちになった。
戦争が始まるのだ。ジェラルドは華々しい戦績を持つ強い人だと聞いてはいるが、死んでしまうかも知れない。
――生きては帰ってこないかも知れない。
もう会えないかも知れないと思うと、尋常ではなく憂鬱な気持ちになるのだ。食欲が起きなかったので、その日は昼食も夕食もとらず、眠った。
一人きりのベッドが思いのほか寂しかった。
それから数日の間で、レティシアの生活スタイルは、朝起きて夜眠るものに戻った。
まずはリズムを整え、その後漸く彼女は、落ち着いた。考えてみれば、嫁いでから一度も落ち着いて過ごしたことはなかったのである。
――これからは、ジェラルドがいないのだから、しっかりして、家を守らなければならない。
それが妻のつとめだと、レティシアは考えた。
主な取り決めは、家のことは執事のローレンがしているし、領地のことも、ローレンがジェラルドや各地の長と連絡を取って決めたりしているようである。
だが執事に任せきりで良いとは言えないのだ。
少なくともこの国では、そう教育されているから、レティシアも妻として関わらなければならないと考えていた。
実際には、執事に丸投げの夫人は多いのだが、レティシアはその事を知らなかったのである。
かといって無駄に口を出す気もないのは、元々彼女がどちらかといえば内向的だからである。
まず彼女は、サリジナ領地の邸宅内から関わろうと考えた。
家や使用人の管理は元来妻の仕事であり、執事とはその命令を聞くものとされるからである。
そもそも引っ越してきた初日から、家のほこりっぽさが気になっていた。
掃除が行き届かないのは、広い屋敷にそぐう数の使用人がいないからだ。
辞めさせてはならないと言われたが、雇ってはならないとは言われていない。
同時に気になることもあった。
毎朝、両手でやっともてる箱一つ分の食材が届くのだが、レティシアはそんなに食べない。無駄なものとして廃棄してるのであれば、それは非常にもったいない。
だと言うにもかかわらず、侍女のエーネとメルディは、まかないの食事が出ないと訴えるのだ。訴えるのは主にメルディだ。
エーネはいつも表情を変えず、余計なことは一切言わない。
逆にメルディは明るくにぎやかなのだ。
二人は対照的な性格だが、レティシアにとっては昔からよくしる大切な侍女である。
実家からは誰もついてきてくれないかも知れないと考えていたのだが、二人が行くと言ってくれたのである。それでも嫁入りとして、侍女を二人しか連れてこないのは、少ない方ではある。だがジェラルドに、その件で何か言われることはなかった。
さて、早速レティシアは、執事のローレンに朝食の席で声をかけた。
食事の席には必ず執事が立っているものなので、この場であれば、彼の仕事の邪魔をすることはないと判断したからだ。
「ローレンさん」
「『さん』など不要です、奥様。何かご用でしょうか?」
「使用人の把握をしたいのです。紹介して頂けますか?」
本来であれば嫁いですぐに、それは行われることである。
レティシアはそれを知らなかったが、ローレンは知っていた。
――逆に今まで問われなかったことが不思議だったが、正確にはジェラルドが彼女を一時も離さなかったせいでその間がなかったことも分かっている。
「承知致しました。では後ほどお時間を頂戴致します。屋敷に参った者から順に、ご挨拶に伺うよう申しつけます。多忙時のみの契約や、深夜のみ、また、大奥様の別宅へと勤務している者もおりますので、全ての者をご紹介するまでには時間がかかりますがご容赦下さい」
これは、嘘ではないが、ごまかしだった。
――こう伝えることで、ローレンは、意図的に隠したい使用人がいたのだ。
その者達を、レティシアに会わせるつもりはなかった。
「義母様のもとにいる者は結構です。それに日参する方のみで結構です。その条件にあてはまる方は、何名いるのですか? 使用人の雇用契約書をみせて下さい」
ローレンは言葉に詰まりかけた。無表情が張り付いている頬が動くことはなかったが、内心では動揺していた。なぜならば、執事は絶対に嘘をついてはならないのだ。
また、仮にそうしたところで、雇用契約書を偽ることは出来ない。
みせることを拒否する事も不可能だ。
執事による掌握は、国法で死刑である。
「――三十八名です。雇用契約書は、食後お持ち致します。ここでお待ち下さい」
「三十八名?」
一方、問いかけたレティシアは、思わず首を傾げた。
ここ数日で確認した限り、使用人の数は、自分が連れてきた二人を除けば、六名しかいないからだ。その一人が、執事のローレンである。
後の五名は、コックが一人、メイドが二人、家令が一人、庭師が一人である。掃除をしているのは、メイドと家令だ。三人では少なすぎると思ったのである。
しかし、三十八名いるという。
あとの三十二名はどこにいるのだろうか?
いいや、レティシアが連れてきた二人を数えているのであれば、三十名がどこかにいることになる。
「どこにいるのですか?」
「……使用人室におります」
「使用人室で何をしているのですか?」
「……待機しております」
「待機? 何に備えているのですか?」
「……」
「使用人室はどこにあるのですか?」
「……地下にございます」
「地下?」
よく分からないなとレティシアは思った。そもそも地下があることを、彼女は知らなかった。まず、一つ一つ片づけようと考えながら、朝食を終える。
「ごちそうさまでした。雇用契約書を持ってきて頂けます? その後、地下に案内して下さい。それと、購入している食材の一覧と収支表も持ってきて下さい」
「……承知致しました」
出て行ったローレンを、座ったままレティシアは待った。
それとなく周囲を見渡すと、見守っていたコックや、メイド達、家令がひきつった顔をしていた。庭師は外にいるのでここにはいない。
彼らの青い顔を見て、レティシアは困惑していた。何故彼らの顔色が悪いのか分からないからだ。
戻ってきたローレンから、レティシアは二つの書類を受け取った。
一つは雇用契約書の束、もう一つは、食材についてのものである。雇用契約書は確かに三十八名分あった。
レティシアの連れてきた侍女込みで、三十八名である。
また食材に関しては、パンだけ大量にある。
朝昼夕でパンは多く見積もっても十だ。
基本的に一つしかレティシアは食べないが、一度につき三つ程度は用意されているからである。しかし、計上されているパンの個数は、八十個である。
――おかしいではないか。誰がパンを食べているというのだ。
まぁ順当に考えれば、使用人だろう。
だとしても一人二個、一日一回の計算だから微々たるものである。
パンの形状なのだから、小麦と違って不当に購入しているとは考えられない。
パンは日持ちしない。消費している誰かがいるのだ。
本当に、見たことのない使用人はいるのだろうなとレティシアは判断した。
「地下へ連れて行って下さい」
「かしこまりました」
ローレンが歩き出したので、レティシアも立ち上がりついていった。
通されたのはキッチンであり、初めて入った。キッチンのはじに巨大な絨毯があり、ローレンがそれを捲ると、床に扉が現れた。そしてその向こうに、地下へと続く階段があった。ローレン、レティシア、レティシアの侍女二人の順で向かう。
階段を下りると、半分ほど開いた扉から、明かりが漏れていた。ノックしてから、ローレンが中へとはいる。レティシアはそれに続いた。窓のない室内は、テーブルが一つと、布団が沢山あるが、窓はなかった。地下だから窓はないか。
狭くはないが広いとは言えないその場所に、沢山の人がいた。
嫌な臭いがする。パンの袋がゴミ箱から溢れている。
全員薄汚れた服を着ていた。髪も伸び放題でぼさぼさだ。清潔感の欠片もない。しかも、この部屋の奥は、開けられているが鉄格子だ。もともとは牢屋だったのだろう。
増設されたとおぼしき棚は、逆に漬け物置き場に見えるが、何一つ並んでいない。少なくともここは人が生活する場ではないが、布団を見る限り、彼らはここで寝起きしているのだろう。
ジェラルドが雇用契約書を見ていないとは思えないから、勿論彼の同意なのだろうが、ちょっと信じがたい。人間の生活する場所ではない。そもそもの話、使用人に見えない。
レティシアは溜息をつきそうになったが、それはこらえた。
人前で無闇に溜息などつくものではないからである。
「入浴の支度を。わたくしは帰ります」
侍女に宣言したレティシアは、帰ると言いながらローレンを見た。
視線を受けて頷いたローレンは、引き返しながら嫌な汗をかいていた。
――『使用人達』の視線が、嫌なほど突き刺さってくる。
彼らは皆、初めて見る奥様に体を強張らせていた。
誰も一言も何も言わず、恐れおののいていた。既に彼らも聞き及んでいるのだ。当主のジェラルドが奥方を溺愛しているらしいと言うことを。
もう長い付き合いであるから、ジェラルドが、いくら夫人の言葉であっても自分たちを追い出さないと言うことは、使用人達も分かっていた。
彼らが恐れているのは、『自分たちのせいで主人が愛する奥様が出て行く』という事である。きっとジェラルドは、奥方が出て行けば悲しむだろう。申し訳がない。
……しかし自分たちには、他に行く当てはないのだ。
その現実に、皆が心を痛めていた。
奥様は、「入浴」するらしい。
きっと汚らわしいと思ったからだろう。
彼女は綺麗すぎる瞳に、虫螻を見るような嫌そうな色を浮かべていた。
彼らには、そう感じられたのだ。
キッチンへとレティシア達を先導したローレンは、ジェラルドになんと報告しようか考える。ついに使用人達の存在が露見してしまったからだ。
隠し通してきた『バケモノ』は、レティシアの知るところになってしまった。
勿論ローレン自身は、彼らをバケモノだとは考えていない。
彼らは片手がなかったり片足がなかったり両手がなかったり、両足がなかったり、あるいは計四本のはずが一本しかなかったり、四本なく胴体しかなかったり、眼球が一つ、あるいは二つとも無かったり、鼻がなかったり、顔面の皮膚が焼けただれていたり、頭が二つあったり、手の指が六本あったり、胴体に顔がもう一つあったり、他にも様々であるが、見た目が変わっているだけで、良い者ばかりだと考えている。
彼らは生まれつき、あるいは後天的に、そう言う姿なのだが、だからといって、バケモノだとは思えない。現にレティシアが嫁いでくるまでの間は、仕事をしていた。出来ないことも多くあるが、出来る仕事をしていた。
しかしこの度の婚礼で、レティシアに『逃げられない』ように、彼らは地下へと移動し、身を潜めることになったのである。これまでのジェラルドの結婚の失敗から学んだことでもあるし、彼らの存在こそが、破綻の原因でもあったからだ。
これまでの奥方は皆、『バケモノ』を見ると逃げていった。
本能的に恐怖し、堪えられないらしい。
ローレンとて、幼い頃から見ていなければ、もしかしたら怯えていたかも知れない。しかたがないことなのかもしれない。
この国、いいや、この大陸全土を見回しても、彼らのような人々は、一例しか存在しないのだ。その一例とは、見世物小屋である。
――生まれた時からこの姿だった場合、殺される場合が多い。
後にこうした姿になった場合も、自分の手で死を選ぶか、側にいる者の手であの世に送ってもらう人間が多い。
それが、この世界である。
だからこうして生きている人間は非常に少ないし、生き残ったとしても世話をされず食物も得られず死んでしまう例がほとんどである。
だから『バケモノ』と認識されるのは、間違いでもない。
バケモノとは、死んでいるにもかかわらず生きているもののことでもあるからだ。
上階に戻ると、侍女の一人、メルディは風呂の準備に行った。
ローレンは、もう一人の侍女であるエーネと共に、レティシアを部屋に連れて行く。
レティシアは、相変わらず嫌そうな顔をしている。
この屋敷にやってきた日から、レティシアは、この顔か無表情だ。
彼女も出て行くのだろうが、ジェラルドは悲しむのだろうなとローレンは思った。
止める権利がない自分が腹立たしい。
かといって彼女の心を変えるような言葉も思いつかない。
だから奥様の部屋へと向かおうとした時、執務室前でレティシアが足を止めた。
「ローレンさん」
「ローレンで結構です、奥様」
「この家と敷地の見取り図を出して下さい」
「――承知致しました。僭越ですが、何にご使用なさるのですか?」
「場合によっては離れを建てます」
驚いてローレンは息を飲みそうになったが堪えた。
――離れを建てると言うことは、彼女はこの敷地にとどまるつもりなのだろう。
バケモノと暮らすのは嫌なのかも知れないが、王都の邸宅に越すつもりはないという事だろう。ようするに、離縁する気はないと言うことだ。それだけで肩の荷が下りた。
ジェラルドは、どうやら愛されていたようである。
主人を思えば一段落である。
「ご用意致します。お入り下さい」
安堵しながらジェラルドの執務室に、レティシア達を通した。
ローレンが資料の入った本棚の前に立つと、レティシアは座って再度雇用契約書を眺め始めた。見取り図と共に、ローレンが増改築費用として確保してある資金の表をテーブルにおいた時、エーネがお茶の用意を終えて、カップを二つ用意した。
執事である自分の分まで用意されていることに若干の気まずさを感じたが、レティシアが座らないのかという顔で自分を見ていることに気がつき、一礼してソファに座る。
その後彼女はじっと見取り図を眺めていた。
それからエーネを見ると、心得たように侍女はペンを差し出した。
レティシアは見取り図の二カ所に楕円を描く。
どうやら離れを二つ造るらしい。
そこへ、メルディが戻ってきた。入浴の準備が出来たという報せだ。
ローレンが見守っていると、レティシアが顔を上げた。
視線が合う。
――射すくめられそうな気分になったが、目をあからさまにそらしても失礼だろうと見ていたら、レティシアがどんどん嫌そうな顔になっていった。
暫く無言の空間が続いた時、エーネが咳払いしてレティシアに歩み寄った。
「奥様、ローレン様に雇用契約書をお返しするべきです。契約書を確認しながら入浴してもらうべきです」
「確かにそうね。ごめんなさい」
頷いたレティシアは、気づかなかったという顔で、ローレンに雇用契約書を差し出した。無表情で受け取りつつも、ローレンには最初意味が分からなかった。
自分に入ってこいと言われているのか一瞬悩んだ。
だが、仮にそうだとしても、入浴中に書類を見る必要性はない。
――では確認しながら入浴するとはどういう事だ?
そもそもレティシア夫人が入浴するわけではないのか。
聞こうとした時、メルディが声を上げた。
「レティシア様が入るんじゃないんですか?」
「わたくしは、夕食後に毎日入ります」
「ですよね。だから変だと思ってたんです。あ、なるほど! 地下にいた方達に入って頂くんですね!」
メルディの声は明るい。しかしローレンが一瞥すると、これでわかっただろうなという顔をしていた。エーネもまた、冷たい顔でローレンを見ている。
驚愕しつつも、ローレンは立ち上がった。
「エリオットに確認作業と入浴補助を命じて参ります」
「分かりました。きちんと全員お風呂に入れるのですよ。一人ずつチェックするのです。毎日全員お風呂に入らなければなりません。お医者様が止めるような怪我や病気でない限り、絶対です。良いですね?」
「かしこまりました」
「わたくしはここで見取り図を見ています」
頷いてローレンは、外に出た。
家令のエリオットに声をかけに行く。
彼は、他のメイド二人と共に、使用人ダイニングでお茶を飲んでいた。
三人とも顔色が悪く、「奥様は出て行くのだろうか」というような話をしていた。
そこに現れたローレンに、一同は話を聞こうと声をかける。
そしてローレンの入浴指示に、唖然とした顔をした。
直後嬉しそうな顔になり、彼は地下室へと向かった。
地下の者達が、上階へと姿を現すのは、レティシアがここへ来てから初めてとなる。
入浴も当然そうだ。
これまでの間は、人目をはばかりながら、濡れた布を地下室へと運んでいただけである。その濡れた布を与えられること自体が、この屋敷以外では根本的にあり得ないことだ。
体を拭くことが出来るだけで、彼らは非常に喜んでいたのだ。
それが、入浴である。
声をかけたエリオットに、全員信じられないというような顔をしたものである。
無論それを見ることはなく、ローレンは、執務室に引き返した。
すると見取り図は無くなっていて、メルディの姿もなかった。
どこへ行ったのか考えていると、レティシアが言った。
「ローレンさん」
「ローレンで結構です、奥様」
「……食事は、一日に三度食べなければなりません。パンだけでは駄目です。良いですね? きちんとスープやサラダ、おかずがなければならないのです。伯爵家にもかかわらず、余裕があるにもかかわらず、使用人に対して、三度まかないのご飯が出ないというのはあってはならないことです。一日にパンが二個では、なりません」
「承知致しました。すぐに手配致します」
「それと今後は、商人などの客人を招くので、いらしたら応対して下さい」
「かしこまりました」
「ではわたくしは戻って休みます。失礼致します」
頷いて帰っていくレティシアは、相変わらず嫌そうな顔をしていた。
立ち上がり見送ってから、ローレンは首を傾げそうになった。
眉間の皺を指で解す。
大層嫌そうな顔をしていたが、レティシアが本日提案したことは、全て快い提案だった。
――一体どういうつもりなのか。
それはまだ分からないが、何の問題もないどころか、ローレン自身常々そうなれば良いと考えていたことなので、命令はそのまま受け入れることにした。
レティシアとしては、伯爵夫人として、使用人に対して当然の扱いをしたつもりである。