バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

第一話

あの日から数日、光輝さんとの生活にも慣れてきた。
ほとんど仕事の時間が多いため、光輝さんと顔を合わせるのは朝晩の数時間だけだが、婚約者というよりは、姉という感じかもしれない。


「結衣、おはよう」
「おはようございます。珍しいですね。起こすより前に起きられるなんて」
まだスエット姿であくびをしている光輝さん。まだ少し寝ぼけているのか目をこすっている。

まるで子供に言うようなセリフに、光輝さんは少しムッとした表情を浮かべた。

「たまには俺だって一人で起きられるよ」
そう言いながら洗面所へ歩いて行く光輝さんに、私は後ろから声を掛ける。

「朝食の準備しますね」
一番初めに頼まれたことは、寝起きの悪い光輝さんを朝起こすことだった。

初めは寝室に入ることにも抵抗があったが、今は弟を起こすのと変わらない気がしている。

そのままダイニングテーブルに座ると、目の前に並んだ朝食をみて光輝さんは嬉しそうに言葉を発する。

「今日も俺の好きな卵焼きがある」
「毎日食べたいんですよね?」
クスリと笑って聞きながら、お茶の湯飲みを置くと光輝さんはコクンと頷いた。

「この甘さと出汁の塩梅が本当においしい。結衣のお母さんも料理上手だったんだね」
そう言いながら、嬉しそうに卵を口に運ぶ光輝さんに、私もお母さんまで褒めてもらえてうれしくなる。

「結衣、明後日の土曜日休みがとれそうなんだ」
「そうなんですか?」
その言葉に、私は食べる手を止めると光輝さんを見た。

「せっかくだから、どこか出かけようか。結衣の足りないものを買いに買い物でもいいし、どこか出かけてもいいし」

「わかりました」
何も考えず、光輝さんと出かけるのは楽しそうだなと返事をしてしまった私だったが、不意に仕事で雇われている身でおでかけなどいいのだろうか?

そんなことを思っていると、光輝さんは無邪気に話を続けた。

「俺もしばらく買い物してないし、冬用のジャケットも欲しいんだよね」
屈託なくいう光輝さんに、私は深く考えるのをやめると食べることを再開した。


約束通りの土曜日、私はふたりで家を出る目の前の公園を歩いていた。
すっかり秋の色が濃くなってきたが、日中は日差しが出てとても過ごしやすい陽気だ。

並んでその景色を見ながら、ホッと私は息を吐いた。

「本当にこんな近くの散歩でよかったの?」
光輝さんは私を見て、表情を曇らせた。
もちろん、毎日仕事で疲れている光輝さんに遠出をして、疲れて欲しくないと言った思いもあったが、久しぶりにゆったりとした休日を私自身が過ごしたいと思ったのも事実だ。

「本当に久しぶりなんです。外をゆっくり歩くの。だから十分です」
「そっか」
ニコリと笑った私に、光輝さんも柔らかな笑顔を見せてくれた。
「結衣、何か飲む?」
ふたりでのんびりと歩いていると、公園内に出ている移動販売のカフェを光輝さんが指さす。

おしゃれな深緑の可愛らしいワゴン車の前には、いくつかのメニューがおしゃれに書かれていた。
ココアにホットレモネード、タピオカなどたくさんのメニューを前に私はどれにしようか悩んでしまう。

「光輝さんは?」
「俺はホット」
いつもブラックオンリーの光輝さんをジッと見つめた。

「たまには甘いもの体に必要ですよ?」
私のそんな言葉に光輝さんはクスリと微笑んだ。
「結衣の卵焼きを食べてるから大丈夫」
光輝さんの笑顔の方が甘そうで、私はぼんやりと光輝さんを見ていた。

『見てあの人……』
同じようにそのコーヒースタンドで飲み物を購入し、出来上がるのを待っていた女性二人組が光輝さんをチラチラとみている。

黒のパンツに白のシャツ、それにカーキのカジュアル目なジャケットをサラリと羽織っている光輝さんは、このおしゃれな空間にいると、まるで雑誌の一ページのようだ。

あたりまえだがとても目立つ。しかし本人はそんなことは何も思っていないようだ。

「結衣は?」
「あっ、えっと」
飲み物を選んでいるふりをしつつ、まったく違ったことを考えていた私は慌てて言葉を探す。

「ココア。ココアにします」
咄嗟に言葉を発すると、光輝さんは特に気にする様子もなく注文をする。
それはいつもの甘えたような口調ではもちろんなく、素敵な男性そのもので。

いろいろな顔を持っている光喜さんに困惑しつつも、見とれてしまうのは仕方がないと思う。

弟のような可愛い一面、会社での厳しい一面、まるでデートのようにエスコートしてくれる光輝さん。
どれが本当なのだろう?

「はい、結衣。熱いから気を付けて」
いつの間にか光輝さんの手には、生クリームがたっぷりのったココアがあった。

「ありがとうございます」
慌ててそれを受け取り口に運ぶと、思ったより熱くてびっくりする。

「結衣、熱いだろ気を付けて。それにクリーム付いてる」
クスリと笑うと、光輝さんはごく自然に私の唇に着いたクリームを指で拭うとそのまま自分の口に運ぶ。

その仕草がまた様になっていて、自分に触れられたことも、それを食べてしまったことも気づかず、光輝さんを見つめてしまった。

『めっちゃ仲良し』
そんな声が聞こえてきて、ようやく私は今の光輝さんの行動が浸透し、恥ずかしくなる。
手の中のココアの温かさより、私の顔の熱の方が熱い気がした。

そのまま、ぶらぶらと歩いた後、たくさんのショップが入っているビルへと向かう。
光輝さんが服を見たいと言っていたためだ。

しかし、光輝さんが来たのはレディースを扱うセレクトショップだった。
いつも私が買うようなファストファッションのお店とは違い、カジュアルに見えるがとても品質の良いものが揃っていて、お値段も張るものが多い。

「これなんか似合うんじゃない?」
嬉しそうに冬物のざっくりしたニットのカーディガンを私にあてながら、光輝さんは私の全体を眺める。

「とても素敵ですけど、こんな」
その先は言わせてもらうことが出来ず、光輝さんが言葉を重ねる。

「このオフホワイトも、結衣の白い肌に似合うけど、こっちのベージュの方がかわいいかな」
真剣な表情で2枚を私にあてていると、おしゃれなショップの定員さんが私たちのところへとやって来る。

「お連れ様の綺麗な黒い髪と、白い肌にはこの新色のパープルも似合いそうですね」
紫と言っても、とても落ち着いた色で、赤と紫を混ぜたような色合いだった。

「ああ、確かに。この色も似あうな」
もはや私が拒否できる雰囲気ではなく、光輝さんは私の後ろに回るとそれを着せてくれる。

「ああ、いいな」
満足げな笑みを浮かべ、光輝さんは後ろから鏡に映った私を見る。
鏡越しで瞳が交わると、私は何も言えなくてただその場に立っていた。

「これと、この下に着れるおすすめありますか?」
光輝さんに聞かれた定員さんは、何着かおすすめを持ってくると光輝さんと私の前に広げる。

「じゃあ、これとこれを」
「ちょっと光輝さん!」
何枚も購入しようとする光輝さんに、私は慌てて声を掛ける。

「ダメ? 気に入らない?」
「そんなことはないですけど」
気に入らないのではない。とても素敵だしむしろ大好きなデザインだ。
しかし、お値段も私が買えるようなものではない。この場でそんなことを言うのもはばかれるし、なんとか視線で光輝さんに伝わる様に小さく首を振って見せる。

「じゃあ、これも」
光喜さんはそんな私のことなど、構うことなくさらに服を選んでしまった。
「ありがとうございます」
そう言いながら、定員さんは頭を下げると服を持って行ってしまった。

「光輝さん、こんな高価なものばかり……」
そんな私をジッと見ると、光輝さんは少し考えるような表情をした後、いつもの子犬のような笑顔を浮かべた。

「毎日にいる必需品だよ。必要経費」
それだけを言うと、レジへと歩いて行ってしまった。

あの甘えるような笑顔でいえば、私が許してしまう事をわかっているような態度に、私は小さくため息を付いた。

これ以上この贅沢な時間を過ごしてしまっては、今までの生活に戻れなくなってしまいそうで怖い。

この甘くて優しい時間は、仕事というより私にとってご褒美のような気さえしてしまった。

光沢のあるオフホワイトの紙袋を持って戻ってきた光輝さんは、満足げな表情をして私に微笑む。
「ありがとうございます」
今さら返せるわけもなく、私は丁寧に頭を下げると光輝さんは、楽し気に言葉を発した。

「俺が結衣に似合う服を選びたかっただけだから。あっ、お腹すかない?」
私に遠慮させないためか、もう決定事項のように言うと光輝さんは歩き出した。

もはや何を言っても無駄だろう。今日は楽しもう。そう思うと私も足を踏み出した。

しおり