雨降って…… ④
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――六限目の社会科の授業中、何の前触れもなく制服のポケットでわたしのスマホが震えた。メッセージが受信したのだ。
ずっと彼からの連絡を待ち焦がれていたわたしは、机の天板で見えないようにいそいそとスマホカバーを開いたけれど、送信元は彼ではなく意外な人物だった。
「……えっ、悠さん?」
思わず声に出して言ってしまい、先生に聞こえたかとヒヤヒヤしたけれど、幸いにも社会科担当の男性教師の声は大きいので、先生どころか他の子にもわたしの呟きは聞こえていないようだった。
ホッと胸を撫で下ろしたわたしは、メッセージを開いた。
〈今日の夕方、新宿駅前まで来れる? 貢のことで話したいことあるんだけど〉
〈今日は会社に顔出さないので大丈夫です。四時過ぎになりますけど、悠さんのご予定は大丈夫ですか?〉
学校のある八王子から新宿までは、一時間以上かかる。準特急に乗っても四十分くらいだ。終礼後すぐに駅までダッシュして、準特急に乗れたとしても、四時は軽く過ぎてしまうのだ。
〈オッケー♪ オレはこの後バイトないから大丈夫☆ じゃあ四時過ぎ、JR 新宿駅の出口で待ち合わせよっか。アルタある方ね〉
〈分かりました。できるだけ早く着くように頑張ってみます!〉
先生の目を盗んで、これだけの文章量を早打ちしていたのだ。自分の早打ちテクニックにも我ながら関心したけれど、見つかったらどうしようというある種のスリルは、してもいない浮気みたいだった。
〈りょ♪ ところでさ、昨日アイツと何かあった? なんかオレ、アイツに
「…………着拒、って」
わたしは愕然とした。この兄弟の仲は決して悪くないはずなのに、彼がお兄さまからの連絡をシャットアウトするなんて信じられなかった。
その原因の一端は、確実にわたしにあった。でも、授業中にそんな長文メッセージを書く余裕なんてわたしにはなかったし、これは直接話を聞いてもらった方がいいと思った。
〈ごめんなさい! 今まだ授業中なので、そのことはお会いした時に詳しく話します〉
そのメッセージにはすぐに既読がついたけれど、わたしが授業中だったことを考慮してくれたのか、悠さんからの返信はなかった。
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――終礼が終わると、補習授業に出るという里歩と唯ちゃんとは早々に別れ、わたしは京王八王子駅へ走り込んだ。
改札を抜けたところで運よく発車前の新宿行きの準特急に乗ることができ、新宿に着いたのは四時を数分過ぎた頃だった。
こういう時、交通系ICカードで定期券を買っていると便利だ。急いでいる時に改札でつっかえることもない。
「――悠さん、お待たせしちゃってすみません!」
〝アルタのある方〟こと新宿駅東出口で、わたしはカーキ色のジャケットに黒デニム姿の悠さんに声をかけた。
「いいよいいよ、オレもついさっきバイト先から来たばっかだし」
息を切らせながら謝ると、悠さんは手をひらひらさせながら笑った。そして、わたしの姿をまじまじと眺めては、何を言うのかと思ったら。
「そういやオレ、絢乃ちゃんの制服姿初めて見たわ。可愛いじゃん♪」
「あ……、ありがとうございます。そういえば、悠さんが来社された時は、わたしスーツ姿でしたもんね」
どうでもいいことだけれど、わたしの制服姿を初めて見た時のリアクションは、兄弟でほとんど変わらなかった。彼も同じようなリアクションだったなと思うと、わたしは何だかおかしかった。
普段はこんなに仲のいいご兄弟なのに、わたしのせいで彼らの兄弟仲まで壊れそうになっていたなんて……。少なくとも、彼がお兄さまからの連絡を拒否していたのは、それが原因での八つ当たりだったろうから。
まずは、悠さんに一言お詫びしなければ……。わたしはそう思ったけれど。
「……あの、悠さ――」
「なんかこうしてっとさ、オレらパパ活中みたいだよな」
「……は? パ、パパ活!?」
悠さんがわけのわからないことを言い出したので、わたしは呆気に取られた。――〝パパ活〟という言葉の意味くらいは、知らなかったわけではないけれど。
女子高生とアラサーの男性の組み合わせ。確かに、何も知らない人が傍から見れば、そう見えないこともなかったかもしれない。
「んなワケねぇよなぁ。絢乃ちゃん、金に困ってるわけねぇし。冗談だよ」
「ああ……、ですよねぇ」
わたしがお金に困っていない、そしてこの先も困ることがないのは確かだ。だから、あまり人からそこをツッコまれるのは好きではないのだけれど、悠さんから言われるとイヤミに聞こえなかったのが不思議だ。
「んーと、立ち話もなんだし、今日ちょっと
「はい」
――わたしたちは新宿駅を出て、悠さんオススメのカフェに腰を落ち着けた。テーブル席に向かい合わせに座り、わたしはケーキセットをホットのカフェオレで、彼はホットコーヒーをブラックで注文した。
「――あの、悠さん。今回のこと、ホントにすみませんでした。わたしのせいで、悠さんにまでご迷惑おかけしちゃって……」
わたしはカフェオレを一口飲んで気持ちを落ち着けると、悠さんに深々と頭を下げた。
「……えっ? なんで絢乃ちゃんが謝んの? オレ、キミには何も怒ってねぇけど」
コーヒーを飲んでいた彼はカップを静かに置き、腕を組んでわたしに目を瞠った。
悠さんはきっと、弟である貢にも腹を立てていなかったと思う。ただ、何が起こったか分からなくて困惑していただけなのだ。
「あのね、悠さん。実はわたしと貢さん――」
わたしは
二人の関係がキス以上はまったく進展していなかったこと――これはわたしがまだ高校生だからかもしれないということも、彼がわたしに対して見えない壁を作っていたこと、そして、わたしとの結婚がムリだと彼が言い切ってしまったこと。その原因は、彼が側にいてくれることが当たり前になってしまって、わたしが彼に婿入りを半ば強要してしまっていたからかもしれないこと……。
「――わたしも彼には申し訳ないと思ってるんです。わたしと結婚すること――というか、わたしの家のお婿さんになることが、彼にそこまでプレッシャーを与えてたなんて考えてもいなかったから」
それまで相槌を打ちながら、わたしの話に耳を傾けてくれていた悠さんは、額に手を当ててやれやれと首を振った。
「…………アイツはバカか」
吐き捨てたのは、彼にしては珍しい弟への
「アイツは確かに、昔っからプレッシャーに弱かった。それは肉親であるオレがよぉ~く知ってるよ。でも、いくら何でもそりゃねぇわ。ただ単に自分が
「え……? でもわたしが追い詰めなきゃ、貢さんだってこんなことには」
「それはさぁ、アイツのこと
「……はい?」
悠さんはジャケットの胸ポケットから自分のスマホを取り出し、わたしの目の前で貢に電話をかけ、スピーカーフォンにしてテーブルの上に置いた。
「これはボスである絢乃ちゃん公認の電話っつうことで、オッケーしてもらえる?」
「……はい」
どうでもいいけれど、その時は彼もまだ仕事中だった。お兄さまから私用電話なんてかかってこようものなら、真面目な彼はブチ切れそうだったけれど、わたし公認ならさすがに彼も文句は言えないだろうという、兄ならではの悠さんの計算だったのだろう。
『――はい、もしもし? 兄貴、こっちは今仕事中なんだぞ!? 一体何の用だよ!?』
案の定、応答した彼の声は不機嫌だった。そして、母に遠慮しているのか声が小さかった。
「用件なら、お前が一番分かってんべや。お前、今日仕事終わったら実家に直で帰ってこい。緊急の家族会議な」
悠さんの言葉には、「これでも長男だ」という威厳が込められていた。その有無を言わせない威圧感に、彼はたじろいでいた。
『…………っ。だいたい、仕事中に個人的な用件で電話して来られても困るって』
「心配すんな。この電話はお前のボス公認だから」
『……えっ!? ボス公認って……、絢乃さん、そこにいんのか?』
「おう、今新宿のカフェに一緒にいんだよ。お前と絢乃ちゃんとの間に何があったかは、だいたい聞いてる。絢乃ちゃんと話したいなら代わるけど。――絢乃ちゃん、どうする?」
電話の向こうで、彼が低く唸っていた。わたしがお兄さまと一緒にいるというシチュエーションを、変に勘繰っているだろうことは間違いなかった。
悠さんが、スマホをわたしの前に滑らせてきた。何か言った方がいいのだろうか? 一言彼に謝るべき? ……わたしは
「……あの、貢。絢乃です。……えっと、昨夜は貴方の気持ちも考えないで、勝手にブチ切れちゃってごめんなさい」
『絢乃さん……』
「わたし、ちょっと自分勝手っていうか独りよがりだったよね。貴方が悩んでることに、もっと早く気づいてたら……」
『そんなことないですよ。ちゃんと申し上げなかった僕が悪いので、絢乃さんが悪いわけじゃありません』
こんな時にまで、彼は優しかった。わたしのことを本気で好きなのだという彼の気持ちが、紛れもない本心だとこれで確信できた。
「わたしも、貴方のこと大好きだから。初めて会った時から、ずっと大切な人。それだけは、この先もずっと変わらないから。そのことだけはキチンと伝えたくて。――お兄さまに代わるね」
『……はい』
わたしは悠さんの前にスマホを戻した。「もういいの?」と目で訴えかけられたので、わたしは頷きで返した。
「――あー、オレだけど。お前さぁ、絢乃ちゃんに『自分は住む世界が違う』って言ったんだって? 自分の境遇、卑下すんのもいい加減にしろよ!? メガバンクの支店長っつう親父の地位だって相当なモンなんだからな。そのおかげでお前、大学まで出してもらえたんだろーが。そんなこと言ったら親父が泣くぞ」
『う……、それは分かってるけどさ。やっぱり、〝名家のお嬢さま〟っていう絢乃さんの境遇と比べたら、ちょっと格が落ちるっていうか』
「そもそも、比べること自体間違ってんだよ。格って何だよ? お前はそんなことでしか女の子の価値測れねぇのか。
『…………』
悠さんの話が、どんどん脱線してきていることにわたしは気づいた。彼自身も自覚はあったようで、咳払いをして本線に戻った。
「……とにかく! 今日の夜は実家に帰ってくること! いいな!? じゃあ切るぞ!」
終話ボタンをタップした悠さんは、スマホをポケットにしまいながらわたしに微笑みかけた。
「――っつうワケで絢乃ちゃん。夜、家族会議が終わったら、アイツに電話させるから。これで関係が修復できるといいな」
「はい! 悠さん、わざわざありがとうございました!」
外の雨も小降りになってきていて、自分の心の空模様も穏やかになってきたことを感じたわたしは、チョコレートケーキを平らげてカフェオレもキレイに飲み干した。