バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

雨降って…… ⑤


****

 お会計は悠さんがもってくれて、わたしたちはカフェの前で別れた。

 貢の方は、悠さんやご両親にお任せすれば大丈夫。あとはわたし自身の問題だった。

 思えば父が倒れてからの一年間、わたしには気持ちの余裕がなかった気がする。時間に追われていたせいもあるけれど、自分のことでいっぱいいっぱいで、彼のことにまで気が回っていなかったのだ。結婚はわたしだけの問題ではないのに……。
 焦っていたのはわたしだけだった。彼が焦っていないのなら、結婚についてはもっとじっくり時間をかけて考えてもいいのかもしれない。せめて、彼の覚悟が決まるまで、プロポーズは待っていてあげよう。

「――そうよね。わたしたち、まだ若いんだもん」

 ゆとりのない自分自身を反省し、東京メトロの新宿駅へ向かっていたわたしは、車道を走る一台の真っ赤なスポーツカーに目を瞠った。
 赤のランボルギーニ……、まさか!

「やっ、篠沢のお嬢さま。こんなところで会うなんて奇遇だね」

 左側の運転席から颯爽と降りてきたのは、案の定有崎さんだった。この日もヴェルサーチだかアルマーニだかの派手なシャツに、オレンジ色の細身のパンツを合わせた奇抜な格好をしていた。イヤミったらしい笑顔といい、キザなことこのうえなくて、わたしは思いっきり他人のフリをしたくなった。
 それだけではない。前日の夜、貢の様子が明らかにおかしくなったのは、彼が原因なのだ。そんな人と、親しげに話す気にもならなかった。

「…………ええ、そうですね」

 わたしは素っ気なく返して、その場をさっさと通り過ぎようとした。

「待ちなよ。今日、仕事はいいの? あれ? もしかしてカレシとケンカでもした?」

 彼の一言に、わたしの眉がピクリと動いた。彼はわたしにカマをかけようとしているのか。そうとしか思えなかった。

「…………どうしてご存じなんですか? あの人が彼氏だって」

「その反応は図星か。まぁ、俺のカンかな。そんなことよりさ、マジでキミたち別れたの? 当然だよなぁ。アイツと君とじゃ生まれ育った環境が違いすぎるもんなぁ。アイツ自身、それで悩んでたっぽいし? だから俺が、そこんとこをちょっと揺さぶってみたのよ」

 悪びれもせず、人の心を(もてあそ)んだこの男に、わたしはふつふつと静かな憤りを覚えた。

「……貴方だったんですね、彼とわたしの関係を壊そうとしたのは」

「まぁね。やっぱ君には、俺みたいな男の方が合うからさ。あんな安物の車しか買えない男より、高級外車に乗ってる男の方がモテるんだよ、世間では」

 安物……。彼が四百万円もかけて購入して、一生懸命ローンの返済を頑張っているあの車を、この男は簡単にバカにした! 彼の苦労も知らないで!
 この瞬間、わたしの怒りはピークに達した。

 わたしは傘の()を握りしめる手に、ぐっと力を込めた。小降りになりつつあった雨足もまた強くなり、遠くの空には(いく)(すじ)もの(いな)(びかり)も見えた。

「…………楽しいですか?」

「は? なんて?」

「貴方、人の心を弄んで、人の気持ちを引っ掻き回してそんなに楽しいですか? 彼の心も、わたしの心も、貴方のおもちゃじゃないんです。何でもかんでも自分の思いどおりになると思わないで」

 静かな怒りほど怖いものはないらしい。それまで得意げに話していた有崎さんの表情が凍り付いた。

「だいたいわたし、左ハンドルの車って好きじゃないんです。いかついし、乗り心地悪いし、乗ってる人ってだいたいイヤミったらしいし。彼の車は国産車だけど、安全運転だしすごく乗り心地いんだから。貴方、自分はモテるって勘違いしてるみたいですけど、いい加減現実見たらどうですか? 貴方を本気で好きになってくれる女性なんていないと思います」

 これは完全に、有崎さんに対するマウンティングだった。貢の方がよっぽど貴方よりステキだという。

「とにかく、わたしは彼以外の男性を好きになることなんて、絶対にありません。貴方がどんなに汚い手を使おうと、何をしようと、わたしと彼との絆は絶対に壊せませんから! ムダな努力でしたね。残念でした。じゃ、さよなら」

「……えっ!? ……えっ!? ちょっと待っ……!」

 わたしは言うだけ言ってしまうと、スッキリした顔でクルリと彼に背を向け、新宿駅の方へ引き返していった。
 晴れ晴れとしたわたしの心と比例するように、雨はまた小降りになり、次第に止んでいった。

****

 ――彼からの電話は、夜八時ごろにかかってきた。

「はい、絢乃です」

 悠さんの言葉を信じて、ずっと電話を心待ちにしていたわたしは、発信元が彼だと分かるや否や躊躇なく通話ボタンをタップした。

『桐島です。今やっとアパートに帰ってこられました。実家でずーーっと兄から説教食らってて』

 彼の声は、思っていた以上にぐったりして聞こえた。これは相当絞られたに違いなかった。

「――ねえ、貢。貴方がそんなに思い詰めてたのは、わたしにも原因があったのよね? だから、夕方は謝らなくていいって言われたけど、やっぱりゴメンなさい」

『いえ、それは……。生まれや育ちの問題は、絢乃さんの意思とは関係ないですから。それはどうしようもないことなんです。それに拘ってた僕がバカでした。そんなことより、絢乃さんと僕自身の気持ちの方が大事だったのに、そのことをずっと忘れてました。僕の方こそすみませんでした。絢乃さんに愛想尽かされても仕方ないですよね』

「ううん! 愛想尽かしてなんか……。わたし、今度のことで痛いほどよく分かったの。わたしには、貴方が必要なんだって」

 たった一日会えなかっただけで、心にポッカリ穴が開いたようだった。自分で言いだしたことなのに、乙女心というのは勝手なものだ。

『……ありがとうございます。兄に、思いっきり説教されました。「親父に失礼だと思わねえのか!? お前の言ってることは、親父だけじゃなくて絢乃ちゃんにも失礼なんだぞ!」って。「大事なのはお前たち自身の気持ちなんじゃねえのか!?」って。――それで僕もやっと目が覚めました。改めて、絢乃さんにお伝えしたいことがあります』

「うん。……言ってみて」

『僕、恋愛小説によくいるようなヒーローっぽくないですよ? カッコよくもないし、平凡だし、強くもないです。こんな僕で、ホントにいいんですね?』

 わたしはスマホを握りしめて、かぶりを振った。電話だから、彼には見えないのに。

「うん! 貴方がいいの。貴方じゃないとダメなの。貴方は、わたしが初めて心から愛した人だから。結婚はもう焦らないことにしたわ。貴方がちゃんと覚悟を決めるまで、プロポーズはいつまででも待っててあげることにしたの」

 焦る必要なんてなかった。二人の絆が強固なら、形に拘る必要もないのだから。

『いつまででも、って……。じゃあ、一年後でも五十年後でも?』

 彼が笑いながら言うので、わたしも笑って「もちろんよ」と答えた。

『――絢乃さん、明日は出社されますよね?』

「うん。いつまでもママに迷惑かけられないから」

『分かりました。では、また明日、学校の前までお迎えに上がります』

「お願いね。電話ありがとう。じゃあ、また明日」

 彼の返事を聞いてから、終話ボタンを押した。窓の外を見れば、薄雲のかかった夜空に星が瞬いていた。

「よかった。明日は晴れそう」

 やっぱり天候と人の心は繋がっているのだろうか。星空を眺めていたら、わたしの心も穏やかでいられた。「わたしたちはもう大丈夫だ」と、何の根拠もないけれどそう思えた。

「――さてと、お風呂に入るにはまだ早いし、明日の予習でもしておこうかな」

 わたしは机の上に教科書とノート、参考書と筆記用具を並べ、教科書のページをめくった。

しおり