遺言…… ③
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――その後、わたしたちは充実したひと時を過ごした。
里歩が差し入れてくれたフライドチキンやホットビスケットも食卓に並び、それらの料理を
ケーキの評判は上々で、里歩も父も、そして甘いもの好きの彼もすごく喜んでくれた。
「――ねえ、あたしの気のせいかもしんないけど。このケーキってリキュール入ってる?」
「うん、香り付けにちょっとだけね。パパ、甘いものがあんまり得意じゃないから」
父にも食べてもらうので、ケーキの生地に少しだけお酒を入れていた。とはいえ、焼いた時にアルコールは飛んでいたはず……なのだけれど。
わたしはとっさに、彼が下戸であることを思い出した。
「ねえ、桐島さん。……リキュールの香り、気にならない? 酔っ払ったりしない?」
「大丈夫ですよ、コレくらいなら。美味しいです」
「ホント? よかった……」
父もすっかり楽しんでおり、死期が迫っている人にはとても見えないほど元気だった。
余談だけれど、フライドチキンはみんな豪快にかぶりついていた。こういうものを食べるのに、お上品さなんて求めていられないのだ。
「絢乃さん、意外とワイルドなんですね……」
油でベトベトになった口元をわたしが紙ナプキンで拭っていると、桐島さんがそんな感想を漏らしていた。
「だって、この食べ方が一番美味しいんだもん。お行儀悪くてもいいの」
「そうですか。なんか意外だったんで、ちょっとビックリしちゃって。でも、絢乃さんも普通の女の子なんですね。安心しました」
彼はわたしの庶民的な一面を見て驚いてはいたものの、それで引いたという様子はなかった。
思わぬところで彼の笑顔を目にして、わたしの胸はキュンとなった。父の命の
「――絢乃、外見て。雪降ってきたよ」
「えっ? ……あ、ホントだ。桐島さんもこっち来て来て!」
里歩と一緒に窓の側で雪を眺めていたわたしは、彼を手招きした。
「このお家の中は暖房が効いてて暖かいですけど、外は寒そうですね……。スゴいな。東京でホワイトクリスマスなんて珍しい」
雪はまだチラチラと粉雪が舞っているだけだったけれど、彼はそれを眺めながらそんなことを言っていた。
「――あの、ご挨拶遅れましたけど。あたし、絢乃の同級生で親友の中川里歩っていいます」
「ああ、絢乃さんのお友達ですか。初めまして。桐島貢と申します。絢乃さんがいつもお世話になってます」
そういえばこの日が初対面だった二人が、今更のように自己紹介し合っていた。
「あー、いえいえ! それより、あたしには敬語なんていいですよ。あたしなんか、もうホントに普通のJKですから!」
「いえ。僕にとっては、絢乃さんの大事なお友達ですから。これからも絢乃さんのこと、よろしくお願いしますね、中川さん」
わたしに対してだけでなく、わたしの友達である里歩にまで、彼は低姿勢だった。やっぱり、彼の謙虚さや腰の低さは生まれ持ったものなのだなとわたしは思った。
「はい、もちろんです! 桐島さんも、絢乃とお父さんのこと気かけて下さってるそうで……。このコの親友として、あたしからもお礼言わせて下さい。ありがとうございます」
里歩に頭を下げられた彼は、「いえ」と言いながら自分も頭を軽く下げた。
「――この雪は、神様がパパに下さった最高のクリスマスプレゼントかもしれないわね……」
「うん、あたしもそう思うなぁ」
「ですねぇ」
雪はいつの間にか本降りになっていて、薄っすら積もり始めていた。
父が過ごす生涯最後のクリスマスに、何の因果か東京ではめったに降らない雪が降った。わたしがこの雪を「神様からの贈り物だ」と思ったのも自然なことだったのではないだろうか。
もっとも、わたしの家族はみんなクリスチャンではなかったのだけれど――。
「――絢乃。お父さんはちょっと疲れたから、先に部屋で休ませてもらうよ」
「はーい! パパ、ひとりで大丈夫? 部屋までついてってあげようか?」
「いいのよ絢乃。私がついて行くから、あなたはここでお客さまのお相手してて」
わたしが父の方へ戻ろうとすると、母がそれを制止した。〝お客さま〟とはいっても、親友の里歩と彼だけだったのだけれど。
「うん、分かった。パパ、おやすみなさい」
「里歩ちゃん、桐島くん、悪いねぇ。私はこれで失礼するが、君たちはゆっくりしていきなさい」
「は~い! おじさま、お大事に」
「会長、ありがとうございます。お大事になさって下さい」
父は母に付き添われて、少々力のない足取りで二階の寝室へ向かっていった。
****
「――わぁ、外真っ白だ! 絢乃、あたしそろそろ帰るねー」
夜の八時半を過ぎ、クリスマスパーティーはお開きとなった。
里歩は電車で新宿へ帰るため、わたしは彼女を駅まで送っていこうと思っていたけれど。
「ああ。いいよ。あたしひとりでも大丈夫だから! 絢乃はお父さんについててあげな」
「そう? ありがと。……じゃあ気をつけて帰ってね。また連絡するわ」
「うん。じゃあね、バイバイ絢乃。おやすみ~! ――う~~、寒っ!」
ウェスタンブーツで積もった雪を踏みしめながら歩く彼女は、コートを着ていても寒そうだった。
もしかして、彼女はわたしを彼と二人きりにしたかったのだろうか? 父についていてあげて、というのは建前で? ――と、その時のわたしはふと思った。
そんな彼も、わたしがリビングに戻った時はすでに帰り支度を始めていた。
「――絢乃さん、おジャマしました。今日は楽しかったです。ありがとうございました。僕もそろそろ失礼します」
「えっ? 貴方も帰っちゃうの?」
せっかく二人になれたのに……と、わたしが切ない気持ちになると、真面目な彼らしい気遣いで答えてくれた。
「はい。だいぶ長居してしまいましたし、会長もお疲れのようですし。僕は車なので、雪がひどくなる前に引き上げた方がいいかな……と」
「……そう」
あのまま引き留めても、わたしのワガママで彼を困らせるだけだと思ったので、わたしはそこで引き下がった。
「――あ、そうだ」
彼は玄関へ向かう廊下を歩いている途中で、見送るために後ろを歩いていたわたしを振り返り、ニコッと笑った。
「僕、あの後本当に車を買い替えたんですよ。今日もその新車で来たんです。絢乃さんもご覧になりますか?」
「えっ、いいの? ……待ってて! 部屋からコート取って来るから!」
「はい、ここでお待ちしてます。ゆっくりでいいですからね? 慌ててたら転びますから」
彼の言葉の半分も聞かないうちに、わたしは急いで階段を駆け上がり、ウォークインクローゼットから普段使いのダッフルコートを引っぱり出して羽織ると、これまた大急ぎで階段を駆け下りた。
「き……、桐島さん……! お待たせ……っ!」
息を切らし、ゼイゼイと肩で息をしたわたしを見て、彼は呆れたように笑った。
「ゆっくりでいいって言ったのに……。幸い、転んではいないみたいですけど」
「あ…………」
こんなみっともない姿を好きな人に見られ、しかも笑われて、わたしはあまりの恥ずかしさに穴があったら入りたくなった。
その時はわたしの顔は真っ赤で、
「ああ、スミマセン。バカにしてるわけじゃないですよ? 絢乃さんの必死さがちょっと可愛いっていうか、微笑ましいっていうか」
「え……?」
……初めて聞いた。彼がわたしのことを「可愛い」と言ったのを。
わたしは彼がどの女性に対しても、社交辞令であんなことを言うような
でも、その時はまだ、彼がわたしに対して本当に好意を持っているのか分からなかったし、自分から確かめる勇気もなかった。
「……すみません。今のは忘れて下さい。――行きましょうか」
でも、彼は照れ臭かったのか、そう言ってはぐらかした。
「うん……。史子さん、わたし、彼を見送りに行ってくるわ。ママたちにもそう伝えて?」
「かしこまりました」
――わたしは、彼と並んで車庫へ向かって歩き出した。
彼の方が明らかに脚が長いので、歩くスピードも当然彼の方が早いはずなのに、彼はわたしの歩幅に合わせて歩いてくれていた。
そんな彼の気遣いや優しさに、わたしの胸はまた高鳴った。
「――これが、僕の新しい車です」
大きなリムジンが五,六台は停められる広さの車庫の一画に停められていたのは、シルバーのセダン。彼の話によれば、車種は国産車の〈マーク
「へえー……、スゴいわね! ホントに買ったんだ……。この車、いくらかかったの?」
わたしはちょっと下世話かな……と思ったけれど、気になる金額について彼に訊ねてみた。
「えっと……、内装をカスタムした時にかかった分も含めて、ざっと四百万ですかね」
「四百万……。もちろんローンを組んで、よね?」
わたしや母にとって、四百万円というのは大した金額ではないけれど(決してイヤミではなく、事実である)。彼はごく普通の会社員なので、この金額を
「はい。月々の支払い額は増えちゃいましたけど、絢乃さんに乗ってもらうためなら……と思えば全然苦になりませんよ。そのために、ちょっと給料のいい部署に転属することになってますし」
「……ねえ、その転属先の部署って、まだわたしには教えてもらえないの?」
「そうですね……、今はまだ。話せる時が来たら、ちゃんとお話しします。本当は……、来ない方がいいのかもしれませんけど」
「…………」
悲しそうな表情で彼が答えるのを見て、わたしには何となくだけれど、彼の言ったことの意味が分かった。
彼がわたしにその話をするのは、父がこの世を去ってからなのだと。
「――じゃあ、僕もそろそろ失礼します。絢乃さんも風邪をひかないように、早くお家の中に戻った方がいいですよ。お父さまのこと、よろしくお願いしますね」
雪はさらに激しく降りしきっていた。これ以上積もったら、タイヤチェーンが必要になるくらいだった。
「うん、おやすみなさい。また……、連絡くれますか?」
「はい、もちろんです」
彼はわたしに微笑みかけた後、運転席に乗り込んで、雪の中車をスタートさせたのだった。