第三十一話『目覚めたルインと突然の別れ』
女神の領域から戻り、俺はアパートの自室で目を覚ました。
昨夜はルインの看病をしたまま眠ったので、床に座った状態でベッドに寄り掛かっていた。近くにはエリシャもいて、シーツを羽織り床に横たわって寝ていた。
顔を上げてルインを見ると、だいぶ落ち着いた寝顔をしていた。試しに額に触れてみたが大して熱はなく、この様子なら今日中にでも調子が回復しそうだ。
「あぁ……、本当に良かった」
悪い知らせばかりで落ち込んでいたが、少し気持ちが明るくなった。そのまま静寂に身を任せ考え事をしていると、エリシャが身じろぎして目を覚ました。
「おはようございます……、レンタ」
「おはよう、エリシャ」
そこから言葉は続かず、俺たちは無言でルインを見つめた。きっと互いの脳裏に渦巻く思いは、昨夜最後に女神とした会話の内容だ。
(猶予は三日も無い……か)
魔王がアルヴァリエに行ってしまえば、俺たちに打つ手はなくなってしまう。だが勇者の力があちら側にある以上、どれだけ手を尽くしても勝ち目はなさそうだった。
抵抗を諦めて偽りの平穏を数年ばかり享受するか、それとも元勇者のケジメとして魔王へ挑み数日で犬死にするか、答えは二つに一つだ。
「なぁ、エリシャ。俺はどうしたらいい?」
唐突な問いかけだったが、エリシャは意図を察してくれた。そして俺の身体に寄り添って顔を預け、辛い気持ちを押し殺すように呟いた。
「私はレンタの選択に従います。もし戦うというのなら、やれることはすべてやって死ぬ覚悟もあります。……ですがその場合、ルインは」
「また置いていくしかないだろうな。さすがに無謀な戦いにまで付き合わせることはできない。本心では魔王と戦って手を尽くしたいけど、同じぐらいルインを独りにしたくないって思うんだ。……ほんと、どうすりゃいいんだか」
魔王に憑かれたミクルは、俺たちのアパートも把握している。こうしている間にも見張られていて、戦うと決めた瞬間に攻撃を仕掛けてくるかもしれない。その戦いの余波に巻き込まれて、近隣住民が死ぬ可能性だってあるのだ。
長い時間を掛けて葛藤し、俺はようやく答えを決めた。
「……俺は魔王と戦うのを諦める。そして残された時間を、家族として過ごそう」
どのみち勝ち目がない以上、最初から答えは一つだった。あの雪の中で俺はルインと一緒にいると決めた。また一人ぼっちになど、できるわけがなかったのだ。
その選択はアルヴァリエにいる仲間や見知った者たちすら見捨てることになる。俺は無力感と悔しさで歯をギリッと鳴らし、血が出そうになるほど拳を握りしめた。
それから二人で朝食の準備に取り掛かったが、会話はなく淡々と時が過ぎていった。脳裏に渦巻くのは自分の選択が本当に正しかったのかという葛藤で、まだ何か残された道があるではと考え続けた。
朝食が出来上がるころ、ついにルインが目を覚ました。その時だけは悩むことを辞め、俺たちはひたすらにルインの無事を喜んだ。抱き寄せられた腕の中で、ルインはただ困惑したように目を白黒させていた。
「ルイン、本当に……本当に良かった。もう一人になんてしないからな」
「ルイン、何か食べたいものはありますか? 一応冷蔵庫にオカユはありますけど、他に希望があれば何でも作りますよ」
俺たちはルインの傍に寄り添い、何でも希望を聞いてあげるつもりだった。だが寝起きだからか病み上がりだからか、ルインはいつもの無邪気さを見せることなく、今まで聞いたことがない平坦な声で言った。
「……二人に任せる。ごめん、もう少しだけ眠らせて」
そう喋るルインの姿には、見た目以上の大人っぽさがあった。俺たちは困惑しつつも納得し、再びベッドに横たわったルインのために朝食を準備した。
温め直したオカユを部屋へと持っていくと、ルインはちゃんと手をつけてくれた。もしかしたら食べないのではと不安があったので、とりあえずは一安心だ。だが食事が終わるまで会話はなく、ルインは「ごちそうさま」とだけ言って食器を返してきた。
「ルイン、まだ具合が悪いのか?」
「…………別に、なんでもない」
「そっか、さっきも言ったけど、何か欲しいものがあればちゃんと言うんだぞ」
もしかするとルインは、昨日の俺たちに腹を立てているのかもしれない。だとすればそれは仕方がないことで、仲直りするにしても時間を置くべきだ。
「それじゃあ、俺とエリシャはあっちの部屋にいるから」
そう言って部屋の扉に手を掛けると、ルインが一瞬だけ引き留めるように声を漏らした。
用があったのかと振り向くが、ルインは何でもないと首を振るった。そして視線を開けたカーテンの方に向け、雪が降り積もる都会の景色を見つめた。
「雪、だいぶ積もってるな。体調が完全に良くなったら、代々木家の二人と一緒に雪合戦をするのもいいかもな」
「……うん」
「今度は先輩も真人くんも呼んで、皆で賑やかに楽しもう。それが終わったら喫茶店に行って、何でも好きな物を食べるとしよう」
「……うん、そうだね」
俺の提案に喜ぶことなく、ルインは無感情に返事をしていた。これ以上はうるさいだけかと思い、俺は自室の扉に手をかけて部屋を出ていった。
「………………さようなら。パパ、ママ」
俺とエリシャは二人で朝食を摂り、一緒にテレビに映るニュースを眺めた。画面に映し出されているのは関東一帯の異常気象についてで、特定の地域に集中して大量の雪が降っていた。
『――――観測史上最大となる今年の大雪ですが、まだ一向に晴れる様子はなく。交通状況の悪化が懸念されます。専門家はこの異常気象について、様々な意見を…………』
都会にしては早い十一月の大雪のせいで、交通事故が多発しているとのことだった。電車もまともに走ってないようで、駅は通勤前の人々がもの凄い数集まっていた。雪かきや除雪車の数も足りてないようで、誰もがこの事態に苦悩していた。
「…………本当に、このままでいいのでしょうか?」
俺もエリシャと同じ気持ちだった。けれどどうしようもなかった。せめて魔王の居場所だけでも掴めていればと思うが、それにしたって結果は同じことだ。
気分を変えようとソファから立ち、飲み物でも取ってこようとした。すると自室の方から微かに窓を開けたような物音が聞こえ、風音がビュウと鳴った気がした。
ルインが窓を開けて雪を見ているのだろうかと考え、そのままキッチンの方へと向かった。だが何か嫌な予感がし、俺は踵を返して自室の前へと立って扉をノックした。
「……ルイン? 眠っているのか?」
声を掛けても返事はなく、仕方がないので扉を静かに開けた。そして見た光景に、俺は絶句して立ち尽くすことしかできなかった。
「――――え」
ベッドにルインの姿はなく、部屋は閑散としていた。どこに行ったのかと辺りを見回していると、中央にあるローテーブルの上に一枚の紙が置かれていた。
そこに書かれていたのは、アルヴァリエ語で『お別れ』を伝える内容だった。