(4)
「ね、あれ、小野田さんじゃない?」
「隣の彼氏かな? ……なんか、……ね」
上映時間の少し前にコバト座に到着してチケットを買い、中に入ろうとしていたら聞き覚えのある声がしたので振り返る。楽しそうにきゃあきゃあと友人同士二人で話しているが、ところどころ声が小さいのでよくわからない。
「あれっ、偶然だねー。佐倉さんと、南さん……で、合ってるよね」
珠雨が気軽に話し掛けると、二人ともちょっと驚いたようだった。その間禅一は手持ち無沙汰そうに売店でドリンクを買って、壁に貼られた告知ポスターなんかを眺めている。
「二人とも、この映画観るの? 俺……私は今日初めてここ来たんだけど……」
「えっ、うん。そうなの、あたし達映画サークル入ってて。コバト座は穴場だから、ね」
佐倉がなんだか嬉しそうに話し出す。
「小野田さんは映画好き? サークルどこか入ってたっけ」
「サクちゃん! 小野田さんは駅前の王子なんだから、サークルとか時間ないでしょ」
南が口を挟む。なんだか今妙な単語が出てきた気がして、珠雨は眉を寄せる。
「王子って何」
「有名人だよねー? 駅前でたまに演奏してるじゃない。えっと、アコーディオン?」
「バンドネオンね。……いやだから王子って」
「あは、姫ではないよねえ。ねーねー、あそこで待ってるの、彼氏?」
「……えと」
「なんか小野田さんとの組み合わせが、エモいよねー。あ、気に障ったらごめん。でもマジで」
「うん、尊いね」
意味がわからない。
しかしそこに悪意がないことは、空気からなんとなく理解出来た。
「珠雨、盛り上がってるとこ悪いけど、そろそろ始まるよ。そこのお嬢さん方も、観るのなら早目に席に着こうか」
いつのまにか禅一が傍に来ていた。
「お嬢さん方だってー。面白い」
「お兄さん、小野田さんの彼氏ですかあ」
不躾に聞いてくる佐倉に、余計なことを禅一に聞かないでくれと心の中で叫ぶ。しかし珠雨の内心を知ってか知らずか、禅一は動じない。
「さあ、どう思う? 好きなように取っていいよ。ほらほら時間」
軽く攻撃をかわして珠雨の背中をぽんと叩くと、禅一は二人に手を振って暗い劇場内に続く扉を開けた。
何かもやっとした気持ちが残ったが、まあ気にしないでおこうと考えていたら、禅一がじっと珠雨を見つめている。
「大丈夫?」
「……うん、同じ大学の子です。うるさくしてごめんなさい」
「まああの子達、悪気はないみたいだよ。きっと珠雨と仲良くなりたいんだよ。でももう始まるから、おいで」
初めて来たコバト座は本当に小さくて、昭和の空気が建物全体を包んでいる。珠雨は実際には昭和を知らないが、本当にその辺りで時が止まったような印象だった。
「禅一さんは、古民家とか、こういう雰囲気の場所とか、好きなんですか?」
座席指定などない、既に照明が落とされた劇場内で、こそっと囁くように言う。人は少ないものの皆無という訳でもないので声量を絞ったのだが、禅一はなんだかくすぐったそうな反応をした。
「好きだよ」
薄闇の中で聞こえた禅一の声にぞくりとする。
勿論今のは、先の質問に対する返答でしかないのだが、やはり周囲を配慮して囁きとなったその声は、相手の表情がよく見えないだけに危うく感じられた。
すぐ隣に禅一がいる。
CMなどで一切流れていない、珠雨にしてみれば俳優も誰かわからないようなマイナーな映画が静かに始まる。勿論吹替版などではない。字幕を追いながら観るが、禅一はこれを聞き取っているのだろうか。
上映中に話し掛けるのもどうかと思ったので、静かにスクリーンに集中しようとするが、どうにも集中しきれない。
意識せずいつのまにか禅一の横顔を見ていたら、気づかれて眼鏡のない顔が珠雨に向いた。
「つまらない?」
「……そういうんじゃ、なくて」
「怖い?」
少しサスペンス風味の映画だった為、珠雨が不安になったと思ったのだろうか。禅一は闇の中で微笑んで、来る時にも繋いでくれた手を珠雨に伸ばした。
「大丈夫。怖くないよ」
そっと重ねられた手は大きく、温かい。こちらの気も知らず子供扱いしてくる禅一は、天然なのか、わざとやっているのか判断に困った。
(よくよく思い出してみると……昔もこの人、こんなだった)
本人無自覚の色気だ。
自分の鼓動が早くて、喉が渇いてくる。入る前に禅一が買ってくれたドリンクを嚥下し、なんとか体裁を保つが落ち着かない。
「ねえ、あざみちゃん」
「……ん?」
珠雨の手を握りながらも映画に集中していた禅一は、またこちらに視線を移動した。
「あざみちゃん、大好き」
他の誰にも聞こえないような小さな声で言った珠雨に、それをどう受け取ったのかはわからないが、禅一が返した。
「ありがとう。……僕も珠雨が、大好きだよ」
既視感に襲われる。
子供の頃、何度も同じやり取りをした。大好きと繰り返し、相手の言葉を引き出す。けれど珠雨が今言った「大好き」は、子供の言うそれとは違った。
「子供扱い、しないでください」
少し拗ねたように言ったら、禅一は何かを考えるように珠雨を見つめ、ふと身じろぎして握っていた手を持ち上げると、顔に近づけた。
「……大好きだよ、珠雨」
珠雨の指に、禅一の唇が触れた。柔らかい感触が伝わり、目を見開く。
「――えっ」
「子供扱いしてないよ」
ふざけているのかと思ったが、禅一は笑っているわけでもなく、静かに唇を離した。
あまりのことに何も言えなくなり、その後の映画も全く頭に入ってこなかった。