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 照明を最低限までに落としたヒトエの片隅に、バンドネオンの特徴的な音が響く。

 珠雨の大好きな音だ。中学の頃から吹奏楽部に所属し、管楽器には触れてきたが、バンドネオンに触れる機会などなかった。友人に誘われて行ったタンゴのコンサートで出会い、その音や造形の美しさに魅了されたのだ。

 入った大学は音楽とはまるで関係のないところだが、趣味でやっているだけだから別に良かった。運良くSNSで出会った烈と一緒に演奏出来ている今、特に問題はない。

 珠雨の毎日は充実していると言ってもいい。
 けれど、やはり何か物足りなく感じるのは、禅一とのことが珠雨の希望通りには行かないからだ。
 禅一が部屋に戻ってしまったのが、寂しい。

(さっき、俺が何か行動を起こしたら、どうだったろう)

 もしもの話を考えるのは虚しいが、タンゴを演奏しながらそのことを考えてしまう。
 氷彩との通話で、禅一が聞いていない部分。結局は言うのをやめてしまった。

(なんでこんなに好きなんだろ)

 一緒にいてもいなくても、どきどきする。
 心臓が苦しい。
 昔の記憶を思い出して、氷彩に真意を尋ねた。もう何年も前の話ではあったが、氷彩はちゃんと覚えていた。


「それはね、珠雨。あんまりあなたがあざみちゃん、あざみちゃんって恋しがるから、落ち着かせる為に言ったのよ」
「大人になるまで取っておくみたいなのも?」
「浅見は良い男だから、放置してたら誰かに持ってかれちゃうと思って、たまにママが会いに行ってキープしてたの」

 妙なことを言われ、珠雨の眉間にしわが出来る。

「物じゃないんだけど……」
「だってママは、浅見のこと勿論好きだけど、珠雨が一番なんですもの。……あのね、夫婦は離婚したら他人だけど、珠雨はずっとママの宝物なの。わかるでしょう? 弄んでいるわけじゃないのよ」
「だからって」

 氷彩の態度に悪気はまったく見られない。本気で言っているようだ。

「あざみちゃんに会えたら、珠雨はどうするの? って聞いたら、結婚するとか言ってたのは、忘れちゃった?」
「多分それ、結婚の意味わかってなかったんだよ」
「かもね。珠雨は浅見と家族のままでいたかったんだよね、きっと。珠雨の理解者だもんね」

 優しい、「母親」の声だ。
 氷彩はいつだって珠雨が大切だ。一番最初に結婚した珠雨の父親と早くに死別して、手元に残された存在を溺愛している。それはわかっている。

「兄弟が欲しかったのは、覚えてる?」
「……勿論。でも、もうそれはいいよ。今更だし」
「ママも今更かなって。珠雨はもう大人だから、兄弟いなくても平気よね。それより今珠雨に必要なのは、恋人かな? ママは珠雨が幸せなら、それが彼氏でも彼女でも良かったけど……」

 言い淀んで、少しの沈黙が落ちる。

「今でも浅見とそうなりたいんなら、ママは応援してあげるからね」
「――いやあの」

 氷彩には、既に告白して断られたことを言っていない。

「あれ、違った?」
「ち……違くないけど。禅一さんは、俺のこと子供としか思ってないから、無理だと思う」

 自分の傷を抉るようで言いたくなかった。しかし氷彩は面白そうな顔をした。

「浅見は草食系だけど、たまに狼さんモードになってることがあるから。その時を狙ったらいいと思うよ。良く観察してたら、いつもと違うのわかるから」
「何それ」
「男性ホルモンが増えてる時だよ。……大丈夫。浅見は体力ないけどその分丁寧だよ」
「何言ってんの!?」
 氷彩が何を言っているのか理解して、珠雨の顔に血が昇る。

「……珠雨、大丈夫かな?」
 急に背後から禅一の声がして、びくりとする。イヤホンで通話していたから相手の声は伝わっていないだろうが、それでも焦る。

「あっ、ごめんなさい! うるさいですよね。ちょっと移動します」
「今、浅見の声したねー。そろそろ切ろうかな。ママ明後日からちょっとだけ入院するけど、心配しないでね! 準備しなきゃー」
「え、入院て何?」

 声を小さくしながら移動するが、こちらの気も知らず氷彩の態度は呑気なものだ。

「平気平気」
「平気じゃなくて! だから! どこに入院するんだよ。教えてくれなきゃ俺行けないじゃんか」
「珠雨、浅見は今傍にいるの?」
「え、禅一さんは、部屋に」
「良かった。浅見の前でする話じゃないもんね」
「うん、だから……」
「あ、あとね。結婚したから」
「え? ……は? なんて?」
「ママこの前、浅見とエッチなことしちゃってごめんねえ。もう最後にするから、許してくれる?」
「……あー、それはもういいけど、それとこれとは話が別で……」

 なんだか不毛な会話になってきた。
 声が大きくなってきて、禅一が会話に加わることになったのだ。


 バンドネオンの手が止まっているのに気づいた。
 氷彩が言っていた「狼さんモード」というのは、多分今の禅一のことだ。少しいつもと違う。これまでもそういうことはあったのだろうが、わからなかった。その時も今のように自室に籠って珠雨を避けていたのかもしれない。

(くっそ可愛いんだけど……)

 我慢しているのだと思ったら、急に禅一が可愛らしく思えてきた。しかしだからと言って、何が出来るわけでもない。
 また拒絶されたら、珠雨は立ち直れない。

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