(3)
(そう言えば……この前)
氷彩が帰る日の午前、買い物に行った。下着とか見たい、なんて言っていたから嫌だったのだが、結局は付き合わされて新しい下着とパジャマ、タオルなんかを買った。
まるで入院するのがわかっていたかのようなラインナップだ。二度目の「虫垂炎」が嘘なら、一体なんだろう。
子供を作るのは諦めた、というのが本当だとしたら、もしかして婦人科系の病気だろうか。二人目が出来なかったのは、禅一だけでなく氷彩にも不妊の原因が潜んでいた可能性がある。
(この前、ちょっとだけ痛そうにしてたかな……?)
乱暴にしたつもりはなかったが、可能性を考える段階で少し気になった。しかしこれを珠雨に言うのもどうかと思う。
他のこともよく思い出してみる。例えばメイクを落とした時は酔っていたからわからなかったが、顔色はどうだったろう。悪くなかったか。
考えても結論が出ない。
黙り込んだ禅一は、とんとんと指先でテーブルをノックしていたが、ポケットから自分のスマートフォンを取り出して氷彩の番号に掛け出した。
しかし出ない。
「まあ、出ないよね。知ってた」
「……もし、命に関わるような病気だったら……」
「珠雨。悪い方には考えない。本人が大丈夫って言ってただろ? とりあえず信じてあげよう。あとで僕もまた連絡してみるし」
禅一は安心させるように微笑んで、珠雨の頭をぽんと触った。
「……わかりました」
珠雨の目が潤んでいるのがわかった。涙が少し浮かんでいるのだろうが、泣くのを我慢してじっと耐えている。
環奈が泣いていたのを、禅一はふと思い出した。
他人の目も気にせず泣けたなら、それは楽な選択だ。勿論環奈が悪いわけではない。己の生理的な反応に素直に従ったまでのことで、それを責めているわけではない。むしろ逆だ。
「禅一さん……頭……」
「あっごめん」
ぱっと珠雨の頭から手を離す。まるで小さな子にやるような仕草だったかもしれない。
「じゃなくて、もっと撫でてください。落ち着くから」
離した手に珠雨の手が伸びて、触れた。心拍数が少し上がった気がした。しかし内心を押し隠し、禅一はしばし相手のリクエストに応えてやる。
「こんなんで良ければ」
けれどあまり続けるわけにもいかなかった。そろそろ部屋に戻って一人になりたい。こんな空気のまま二人でいるのは、今の禅一には良くなかった。いつにも増して珠雨が可愛く見えてしまって、落ち着かない。
(まずいこれは……明らかに発情してる)
そろそろ引き上げた方がいいかとも考えたが、珠雨が後回しにした「別の用件」についてまだ聞いていなかったのを思い出す。
「珠雨……あと何か話があったんじゃ?」
指摘されて、珠雨が撫でられていた少し頭を持ち上げた。いつまでも撫でているのもおかしいし、自分の危うい状態にも気づいていたので再び手を引っ込める。
「やっぱ言うのはやめます」
「え、気になるんだけど」
「忘れてください」
本当に言う気がなくなったらしく、珠雨は困ったように口をへの字に曲げている。無理に言わせることもなかった。
「じゃあ、そろそろ僕は自分の部屋に引き上げるけど、まだここにいる?」
「――あ、もしかしてまだ本調子じゃないですか? 具合悪いとこ、ごめんなさい」
「え、何それどこから聞いた?」
珠雨の口からそんなことが出てくると思っていなかったので、禅一はびっくりする。
「今日禅一さん具合悪くて病院行ってたって、麦ちゃんからメッセ入ってました。今も体調悪いんですか?」
「いや、もう大丈夫。ただの定期的なテストステロン投与というか……麦ちゃんと連絡先交換してたんだ」
基本的にシフトが被らないので、あまり接点はないように思えたのだが、禅一の見ていないところではいつのまにか繋がりが出来ていた。
「テストス……えーと??」
「男性ホルモンが足りないから、補ってるんだよ。放っておくと僕の場合どんどんだるくなってくるんで。筋肉量とか骨密度も下がってきちゃうから、体力が保てなくて。でもしばらくは平気だよ。ただちょっと、色々と……いや、これは言うことじゃないな」
「え、あ、そうなんだ……」
珠雨は何故か焦ったように視線を彷徨わせた。
「じゃあ、烈さんからバンドネオン借りてきてるんで、少しここで練習してていいですか?」
普段は烈が持っている楽器を数日前に持って帰ってきていた。烈の住まいは決して近所ではなく、電車を使うことになるような場所だった。練習のたびに烈のところへ訪問するのも大変だった為、珠雨が借りてきた。
あまり遅い時間だと近所迷惑だろうが、ここはそんなに住宅が密集している立地でもなかった。
「どうぞごゆっくり。……じゃあ、おやすみ」
禅一は平静を装って、自室へと再度籠ることにした。