(4)
「まずは自己紹介でもしましょうかね。僕は店主の浅見禅一です。よく『あさみ』と読み間違えられますが『あざみ』と濁ります。でも、お好きなように呼んでください。お嬢さんはなんて呼べばいいですか?」
禅一は、クリームソーダと自分のコーヒーをテーブルに置くと、環奈の目の前の椅子に腰を下ろした。
「えっじゃあ、……禅さんて呼んでいいですか?」
「どうぞ」
「良かったぁ……あたしは環奈です。えっと、今、高二で……だから、禅さんは年上なので、敬語はやめてください。なんか落ち着かないので」
ぱっと環奈の声が明るくなる。
心の中で呼んでいた名前を、本人に向かって呼び掛けられるのは嬉しかった。
「わかりました。――環奈さん、僕と何か話したい話題ある?」
「あの、さっきの会話、聞こえました……よね?」
「あぁ……ごめんね、聞くつもりじゃないんだけど、元気な子だったから」
爽多の声が大きくて、筒抜けだったのだろう。なんだか恥ずかしくなってくる。
「あたし、正直困ったんです。迷惑って言ったら、ひどいかもしれないけど」
迷惑は言い過ぎかもしれないが、実際困ってしまったのだから仕方ない。
「さっきの彼が嫌?」
「嫌ってゆうか……あの、初めて二人で話すのにこんなこと言うのアレなんですけど……」
「うん」
「あたし同年代の男の子とかまったく、興味が持てなくて。だからさっきの、爽多くんじゃなかったとしても、困るの」
この言い方は勘違いをされるのではないかと、若干の危惧もあった。
同年代ではなく、禅一のような大人の男がいい、と取られる可能性もある。禅一がそんな風に受け取ったとして、じゃあ僕と付き合おう、なんて言うタイプでないとは思うのだが、まずかっただろうかと心配していたら、
「興味が持てないのに、付き合うも何もないよね。いいんじゃないかな? 理由なんて言わなくても、ごめんなさい、で」
何でもないことのように微笑む禅一に、環奈の心は少し軽くなった。
勘違いされたわけでもなさそうだ。ただ言葉の通り受け止め、余計な憶測はしない。
この人はきっと悪い人ではない。そして家族でも友人でも学校関係者でもない。そのくらいの関係性の方が話せることもあった。
「だけど、ずるい自分がいるのも……本当で。もしも、これからずっとそんな理由で誰とも付き合わないままだったとして、年を取ってから後悔しないか、とか。好きじゃなくても付き合ってみるのもアリなのかな、とか。でも相手に悪いしな、とか……色々」
「同年代の男の子に興味がないだけであれば、他の興味対象と恋してもいいんだよ」
尤もな指摘に、環奈は黙り込んだ。
ただ、他の興味対象という言葉の選び方は嫌いではない。少し下を向き、迷うようにクリームソーダのストローをくるくる回した。禅一は特に先を急かすこともなく、コーヒーを飲んでいる。
「……実はあたし今、他に好きな人がいて、でも多分言ったら相手は迷惑だと思うから……」
これは言わなくていいこと。余計なことだ。環奈はそう思ったが、口を突いて出てしまった。
「せつないね……言ったら駄目なのかな」
「無理です。だって……相手、女の子だから」
どうしてこんなこと話しているんだろうと、環奈は自分自身に困惑していた。声が震えていた。
けれど禅一はびっくりするでもなく、ただ聞いてくれる。
「どんな子か聞いてもいい?」
「えっと……そうですね、楽器やってる人で。見た目はね、男の子になりたかった女の子、って感じなの。だけど服装とか髪とか、ちゃんとその人なりにこだわってるのがわかって、いつも綺麗にしてる。実際の男の子って、どんなに見た目きちんとしても、どこか繊細さに欠けるというか……」
「ああ、なるほどね。言いたいことわかる気はする」
「でも、禅さんはね。そういう男臭いの、非常に少ないと思います」
「えっ僕? ……それは褒められてるの? 貶されてるの?」
「本人の意識にもよりますよね」
禅一は判断に困る批評に複雑そうな顔をしている。なんだか楽しくなって、環奈はくすくす笑った。
「――まあ、僕のことは置いておこうか。環奈さんのお話に戻ろう」
「あ、うん。でね……、こんなに相手が気になって気になって仕方ないのに、周囲にどんな目で見られるかとか、そっちもすごく気になって」
「昔と違って、今は多様性の時代だから、そんなに気にしなくてもいいかも……でも、本人にしてみれば、意外とそんな風に思えなかったりもするんだよね」
「そうなの……もしかして禅さんもそういうのありますか?」
「そう見えるならそうなんだろうし、思い違いかも。好きに取ってくれていいよ」
「禅問答ですね。……あは、禅さんだけに」
「巧いこと言うね」
「でも、あたしは自分をビアンとか思ったことはないし、……どうしたらいいか、よくわかんなくて」
言葉にしたら、突然涙が滲んできた。
こぼれはしなかったが、禅一がペーパーナプキンを差し出してくれる。
「えっ、なに。……やだ」
「大丈夫。僕の他には誰もいないよ」
自分でびっくりして、慌てて差し出されたナプキンで目元を拭う。禅一の落ち着いた優しい声は、自然と環奈まで落ち着かせてくれた。
「自分の性的嗜好に名前をつけるのはまだ年齢的に早いかもしれないけど、今その子を好きな自分が嘘じゃないなら、それはそれでいいと僕は思う」
「でも……キモいとか思われたら」
「選択肢として……最初から何もしないか。または勇気を出して行動を起こすか。勿論、相手が気持ちを汲んでくれないこともある。そこで諦めるか、それでも粘って相手の意識を変えてゆくか。無責任なことは言いたくないけど、既に相手も環奈さんを憎からず思っている可能性だって、なくはない。いろんな分岐はあるけれど、結局は自分がどうしたいかだよ」
押し付けるでもない、さらりとした口調だ。
「どう……したいのか、わからない。だって、先のこととか考えると」
「あのね、セクハラになりそうで怖いんだけど、例えば環奈さんがその子とパートナーになれたとして、じゃあ最終的にどうなるのか、肉体関係まで行くのか? ……とかは、今の時点で考えなくてもいいんだよ。そういうのは後からついてくるだろうし、精神的に愛してても、一線を越えるのは嫌だって人もいる。十人十色だからね」
「でも……」
「これはあくまでも僕の意見だから、環奈さんの思うようにしたらいい」
「……うん」
再び落ちた沈黙に、禅一は終了のサインを読み取ったらしく、ちらりと自分の腕時計に目をやる仕草をした。二人で話し始めてから、既に10分以上経っていたようだ。
「話したくなったら、またどうぞ。ごゆっくり」
「……ありがとう、禅さん。今日だけじゃなく、これからも禅さんて呼んでいい?」
「これからも来てくれるならね」
勿論そのつもりだった。