第三話『最愛の人の目覚め、鉄とコンクリートの世界』
まどろみに包まれた意識の中で、大切な人の声を聞いた気がした。
徐々に目が覚めてくると、誰かが俺を揺すっていると分かった。薄目を開けてみるとそこは異世界ではなく、俺が独り暮らしを始めてから住んでいたアパートの一室だった。
視線をカーテンの隙間から差し込む朝日へと向けると、そこには困惑した顔で俺を見つめるエリシャがいた。今の姿が異世界にいた時と違うからか、不安そうな眼差しで俺をじっと見つめていた。
「おはよう、エリシャ。もう具合はいいのか?」
心配させないように、日本語ではなく異世界の言語で話しかけた。するとエリシャは安堵した様子で俺に飛びつき、ぎゅっと身体を抱きしめてくれた。
「――――レンタ、レンタ。本当に良かった」
「目覚めたら知らない場所だし、不安になるのは当然だ。とりあえず、身体の調子は回復したようで良かった」
ポンポンとエリシャの背を叩き、落ち着くまでしばらく身を寄せ合った。
それから二人で壁に背を預け、簡単に今の状況を説明してみた。いきなり会社が焼けたことや赤い雷のことを言っても混乱するだけなので、とりあえずはここが俺の故郷ともいうべき国『日本』だということを伝えた。
エリシャは興味深そうに部屋を見渡し、数分ほど掛けてまた俺を見た。
「……ここが、レンタの故郷ニホンなんですね。何だか不思議な気分です」
「どうしてここに来たのか分からないんだけど、エリシャに心当たりはないよな?」
「まったく分からないですね。可能性としてありそうなのは、あそこで眠っている魔族の女の子が何かをした……とかですかね」
俺たちの視線の先で、女の子は気持ち良さそうに眠っていた。恐らくはすぐにでも起こして話を聞くべきなのだろうが、俺もエリシャも二人で話し合う時間が必要だった。一旦寝かせておくと決め、俺は重要な質問をエリシャにした。
「……そういえば、エリシャは魔法を使えるのか?」
「え?」
「こっちに来てから試したけど、俺の勇者の力はどれも駄目だったんだ。あっちで感じてた魔力の流れも掴めなくて、魔法は何一つ使えそうにない」
エリシャはすぐに手の平を前に出し、そこに光る緑の魔力を渦巻かせた。だがその流れはあまりにも弱々しく、見ている間にも消えてしまいそうだった。
「……どうやら、私個人の魔力を使う分には何とかなりそうです。ただこの世界の魔力はアルヴァリエと違いだいぶ希薄で、上手く集めることができません」
「魔法は基本、大気中にあるものを使って使用するよな。となるとこれは……」
「はい、全力時の一割にも満たない力しか使えそうにありません」
精霊人であるエリシャにとって、魔力が足りないというのは致命傷だ。なぜなら大本となる精霊というのは、人間が呼吸をする感覚で魔力を取り込んでいるからだ。きっとエリシャも見た目以上に苦しんでいるはずで、何かしらの対策が必要そうだ。
(最低限、魔力を使った戦闘だけは避けた方がいいな)
日本は世界的に見ても平和な国で、魔法が必要になる場面はまずないはず。だが魔王がどこかにいる可能性は残っており、戦闘になった時の手札がないのはかなりの痛手だ。
(魔王も同じ状況だと思いたいけど、昨日の件があいつの仕業だった場合は望み薄か)
どうしたものかと悩んでいると、横からクーという可愛らしいお腹の音が聞こえた。視線を向けると、エリシャが恥ずかしそうに顔を赤くしていた。
「起きてからだいぶ経ったし、そろそろ朝食にしようか」
「……はい、よろしくお願いします」
立ち上がって手を差し伸べると、エリシャは嬉しそうに微笑んでその手を取ってくれた。
リビングに移動してキッチンへ向かうと、途中からエリシャが立ち止まった。どうしたのかと振り返ると、自室の入り口からエリシャが不安そうに周囲を見回していた。
(いきなり見知らぬ世界に来たら、ああなってしまうのも当然か)
俺も最初異世界に召喚された時は、大人として情けないほど取り乱した記憶がある。感慨深さを感じながら近くまで行き、「大丈夫」といってエリシャの細い手を引いてあげた。
「……ありがとうございます」
「いいって、感謝されるほどのことじゃない」
二人でリビングの中央付近まで歩いていくと、エリシャの視線が窓の外へと向いた。そしてそこから見える景色を眺め、ポカンと口を開けたまま固まってしまった。
「…………これが、レンタが話してくれていたニホンという国なのですね」
「どうせなら、ベランダに出てもっと見てみようか?」
「おっ、お願いします」
窓を開けて二人で外へ出ると、まぶしい朝日が出迎えてくれた。
眼前に広がるのはそこそこの高さのマンションと、通りに立ち並ぶ家々がほとんどだ。すぐ真下の道路には通勤に行くであろう自動車が何台も走っていき、その脇の小道を小学生たちがワイワイと賑やかに駆けていった。
エリシャは目に映るものすべてをじっと見つめ、何かを深く考えているようだった。あえて話しかけず待っていると、気持ちの整理がついたのか俺をじっと見上げてきた。
「今まで色んな場所を旅してきましたけど、ここまで凄い世界だとは思いませんでした。……あのお城のような大きな建物には、貴族方が住んでいるのでしょうか?」
「いや、あれはただの賃貸マンションだな。よくある貸家みたいなもので、俺たちがいるこのアパート……建物も似たようなもんだ」
「マンション……アパート、それが貸家を差す言葉なのですね」
日本語も混ぜて喋ったので、エリシャは単語に興味を示した。少し間違った認識だが、今は指摘するのをやめた。そもそもエリシャがこの世界に長く居る保証もない。今この瞬間にも瞬きをすれば、儚い夢のように消えてしまうかもしれないのだ。
日本が怖いかと聞いてみると、エリシャは首を横に振るって微笑んでくれた。
「――――独りだったら怖かったでしょうけど、レンタがいてくれるなら大丈夫です。ですから見知らぬこの世界のことを、色々と私に教えてください」
そうエリシャが言った瞬間、風が強く吹き抜けた。翡翠と黄金の輝きを持つ髪がサラリと揺れ、その美しくも綺麗な姿に俺は見とれていた。
「レンタ、どうしましたか?」
「そう……だな。エリシャがこの世界を好きになってくれるよう俺も努力する。そして二人で、こうなった原因を探っていこう」
「はい」
当面の目標を定め、俺たちはじっと見つめあった。これから先に辛い別れが待っているかもしれないが、それならせめて束の間の夢を楽しむべきだ。