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inning:4 動き出す時4

 その夜。

人生初の野球を終えて、夕方。仕事帰りの母を出迎えると、母は「あら」とどこか意外そうな顔をして、


「何かいいことあった?」

「まあ……っていうか、母さんは知ってるだろ?」

「ぬふふふ、バレちゃいましたか」

「どこで発注したんだよ、あのユニフォーム」

「ネットでポチ」

「まあ予想は付くけど」


と、リビングに戻り鞄とジャケットをソファに置く母と話しながら、2人は食事の準備を始める。

その前に、母は洗面所で手を洗う。その近くの棚に置いてある洗剤や柔軟剤、石鹸の量が減っていることから、野球ユニフォームを大事にしているのだと少し微笑んでしまった。

リビングに戻るとキッチンに立つ母は手を払い、フライパンを持って油を敷き、オール電化の電源を入れる。

ソファに置かれたジャケットをハンガーにかけ、鞄を母の書斎の机に置く。そして空いたソファに座り、その時間を待つ。


「鋼汰、悪いんだけどお皿出してくれる?」

「はーい」


スマホを置いて、棚から皿を出す。

そしてそこへ野菜炒めを盛り付け、炊飯器の米を茶碗へ。

そして味噌汁をついでそれらをテーブルに置き、2人は向かい合って座る。


「「いただきまーす」」


と団欒を始め、2人は食事を始めた。

時短、そして楽。そのため、山田家の野菜炒め採用率は非常に高い。

母子家庭で母が休日出勤までするためか、鋼汰も少しばかり家事が板につき始めていた。

今日も鋼汰が味噌汁と炊飯、そして洗濯物と掃除をこなしてみせている。


「……あ、ちょっと薄いかな」

「んー?母さんは丁度いいよ」

「そう?なら良かった」


良くある話だが、若い青年と中年の味覚の薄さは違う。そのため、若い青年に合わせると濃く感じるという中年も多い。鋼汰は一度その失敗をしてしまっている為、味にはかなり敏感になりつつあるのだ。


「……御馳走様」

「お粗末様、お互いにね」

「ふう……で、母さん」

「なぁに?鋼汰」


おちゃらけるように、母は鋼汰に訊く。


「……あの日、響子と何の話してたの?」

「それはね……」






 ⚾︎


 「おばさん!」

「あら、響子ちゃん」


以前、鋼汰と響子がキャッチボールから帰ってきた後。鋼汰が自室に戻った後、響子は鋼汰の母を尋ねていた。


「おばさん、鋼汰に野球やらせたい!どうしたらいいかな!?」

「急にどうしたの?野球?野球部に入れるってこと?」

「そう!」

「これまたどうして?そもそも野球は女の子のスポーツでしょ?」

「そうだけど……とにかく!今のままじゃ、鋼汰がダメになる……と思うの」

「……まあ、確かに表情が死んでる時は多いけど。それなら陸上の方が良くない?これまたなんで野球なの?」

「それは……その、野球はチームスポーツだし……1人で居るより、誰かと居た方が……」

「響子ちゃん。気持ちは分かるけど、鋼汰の意思もあるし、入れるなら入れるで野球部の子にも迷惑がかかるでしょ?考えて発言しなさい」

「う……」


押し黙り、響子は罰の悪い顔をする。

しかし鋼汰の母は、どこか嬉しそうな顔をした。


「……でも、私はちょっと嬉しいわ。こんなにあの子を想ってくれる子がいるなんてね。もうウチの子になる?」

「えっ、あ、え、あ、その……えと、その」

「顔赤くしちゃってぇ。可愛いわねぇ」


響子の赤い顔を両手で優しくつねり、響子は恥ずかしそうに視線を逸らす。


「……でもね、響子ちゃんの気持ちはよく分かるのよ。あの子、陸上やめてからずっとあんな感じだし……高校生は人生で3年間しかないんだから、何かに打ち込んで欲しいんだけど」

「で、でしょ?なら……」

「でも、それとこれとは別の話。私は普段忙しいし、何よりあの子が変わらないと意味ないからね」

「……じゃ、じゃあ……」

「じゃあ?」

「野球部の人は私が説得する!だから……その」

「……」


響子の顔を、じっ……と見つめる。

少し恐怖心を抱く彼女。だが、その目は曇っているようには見えなかった。

どこか使命感に満ちた彼女の目。震える声に、勇気を振り絞った様子が見て取れる。

恐らく、今思ったことを考えもせず行動に移したのだろう。慎重で理論派の鋼汰とは違って感情に従って動く彼女らしいといえば彼女らしい。

彼女が赤子の頃からの付き合いであるため、自分の娘であるように扱ってきた。

そして今。幼馴染というだけの鋼汰の為に、声を震わせて行動を起こしている……。


「……分かった、響子ちゃん」

「え……?」


鋼汰の母は自室の書斎の襖を開け、その中の押し入れから何かを取り出す。


「それっ……て……」


鋼汰の母の手に握られた、野球用のグローブ。

少し小さい、そして所々黒く汚れ、元々の赤い色の面影すら見えなくなっていた。


「最近押し入れ整理してたら出てきてね。これを、響子ちゃんに預けるわ」

「い、良いの……?」

「あとはユニフォームね。でも、私が協力するのはここまで。あとは、貴女がどうにかしなさい」

「……おばさん……」

「……鋼汰、昔あんな感じだったけど……今みたいに優しい子になったのは、ひとえに響子ちゃんのおかげなのよ。それに、鋼汰のやりたいことは応援してあげたいし」


鋼汰の母はウインクをして、


「だから、しっかりやりなさい?響子ちゃん」

「……!うん!ありがとう!おばさん!」









 ⚾︎




 「……そんなことが」

「まぁ、結果も上々。やるわねぇ響子ちゃん」

「……母さんは、僕が野球をやることに何も言わないの?もしやるって言ったら……」

「行ったでしょ?鋼汰のやりたいことは応援するって」

「そうだけど……そもそも、母さんが高校野球してた時はもう野球は女の人のスポーツになってたんだろ?」

「そうだけど、男のプロ野球選手なんていくらでも居たわよ?アライバとかJFKとか……JFKは古すぎるかしら」

「……でも、今のご時世で男が野球やろうものなら何言われるか……」

「なら言わせないくらい強くなれば良いじゃない。陸上でもそうしてきたでしょ?」

「野球はお金もかかるし……」

「言い訳しないの!」


母は机を叩き、机に置いてあった食器が高い音を立てて揺れる。

それに鋼汰は思わず跳ねて驚き、目を見開いた。

その先にはこちらを睨みつける母の姿があり、鋼汰はその顔を見て思わず息を飲む。


「……あんたはまだ高校生なんだから。少しくらい甘えても良いの。甘え過ぎはダメだけど、あんたは甘えなさすぎ」

「……母さん」

「父さんが居なくなって、お金のこと心配したから白蘭に入ったんだろうけど……それとこれとは話は別よ。やりたいこと、やろうと思えたことをやらない。それに、お金がないだとかそんな言い分は言い訳にはならない」

「……」

「だから、鋼汰。野球がやりたいなら、やりなさい。それがどんな結果になろうとも、陸上と同じ。それによって、今の自分に、未来の自分にとって貴重な経験になるはずだから」

「……」

「……決心するのは、貴方よ。鋼汰。片付けは良いから、自分の部屋で考えなさい」

「……うん、分かった」


鋼汰は席を立ち、ゆっくりと階段を登っていく。

自分の部屋に入り、彼はまずいの一番にタンスの扉を開いた。


「……」


そこに置いてある、野球のグローブ。それを取り、見つめた。

引っ越す前は、定期的に野球をしていた。響子と一緒にやるキャッチボールを、自分は心の底から楽しんだのを覚えている。

最初はボールすら捕れないほどのものだったが、野球に打ち込む彼女のことを見て、陸上で結果を出すことしか考えていなかった自分に、息抜きという大事な時間を与えてくれた。

教室で1人本を読んでいた自分。そして時として嫌がらせを受ける毎日を送り、最早人間らしいとは言えなかった。

だが良く考えれば、野球は……響子は、自分を人間として結びつけてくれていたのかもしれない。


「……」


そして、陸上をしていた時に使っていたスパイクを見つめた。


「……見栄を張りながらでも、本物に」


そして、手に持つグラブを見つめる。


「……今の僕が、やりたいこと」


グローブ、スパイク。交互に見つめた。



「……」


グローブを握りしめ、やがてのその手の力は弱くなっていく。

優柔不断。鋼汰は、自身の心の中の決意を……固められないでいる。そんな自分の情けなさに、彼はグローブを叩きつけたい衝動に駆られる。

だが、その時。後ろにある部屋の押し入れの中で、何かが落ちる音がした……。


「……」


押し入れのツマミを掴み、扉を開ける。


「……これって」


落ちていたのは、アルバムだ。

開けてみてみると、中学の時県総体で優勝した時の記念写真から、中学の入学式、そして小学校の入学式まで。なんなら、まだ2人とも保育園の時の写真も収められている。

小さかったころは、鋼汰より響子の方が背が高かった。小学5年生頃から、鋼汰の身長が伸び始め……6年生の時には170cmに到達。

響子はその時に身長が止まり、響子が姉貴分だった頃からいつの間にか鋼汰が兄のような関係になっていった。

そして響子が野球を始めたのは、小学4年生の時。鋼汰が陸上を始めたのは、小学5年の時に響子と一緒に出た陸上の試合だ。

2人ともパッとしない結果だったが、鋼汰はその人間の単純行動で優劣を付けるというスポーツに興味を持ち、陸上をやることを決意した。

そして、鋼汰はアルバムを見ていると気付く。


「……本当に、野球が好きなんだな。僕って……」


響子と野球をしている時の写真が、大半を占めている。そしてその時、2人は笑顔を浮かべていた。

ふとそう呟いた彼は、アルバムを置いてグローブを掴む。


「……」


グローブを見つめ、少し見つめた後額に当てた。


「……汗臭い……でも」


……でも、これに思い出が詰まっているんだ。

鋼汰は左手にグローブをはめ、右拳でポケットの部分を叩く。辺りに小気味いい音が響き渡り、何故か心地良い気持ちになれた。


「……言い訳しない……か」


鋼汰はふと考える。

今、自分が何をしたいのか。

陸上か?野球か?何にせよ、選んだ道は簡単ではない。野球を選べば、今日の練習試合のように好奇の目で見られ、場合によっては仲間に迷惑がかかるかもしれない。

陸上を選べば、再びあの時のような体験を繰り返すかもしれない。何にせよ、選ぶ道には茨が張り巡らされ、選択と後悔が連続していくのだろう。

だが、今の彼に迷いはしなかった。

グローブを手に取り、陸上のスパイクを掴む。

そしてそれをスパイク袋に仕舞い込み、そのままスパイクを押し入れの中に押し込んだ。

スパイクがあった場所にグローブを置き、どこか今までの遺恨を払うように手を叩いて埃を取る。


「……よし!」


そう言って、彼は扉を開けて階段を降りていく。

そしてリビングに入り、テレビを見ていた母を見据えた。


「……決まった?」

「……うん。僕は…………」








 ⚾︎⚾︎



 月曜日。



日曜日になっても今日になっても、バットを振ってヒットを打ったあの感覚は消えない。寧ろ、まだ鮮明に残っている。

野球。僕の体は、それを繊細に…細胞単位で記憶しているみたいだ。味を占めるってやつかな?


「……」


誰もいない場所で、野球のスイングをしてみたりする。

僕は母子家庭だし…野球はできない。そう呟いてみる。だけど、僕の奥底にあるものは…拒否している。

決意を否定されたような、とにかく嫌な気持ちだ。

その感情の味を口にできたことに、彼は喜ぶ。


「(…僕、野球にハマっちゃったな)」


そんな事を考えながら、学校への道を行く。


いつも通り学校に行き、授業を受け、そして夕方。


そして、その放課後。



「…あの…」

「何?鋼汰」
「何だよ」
「何かな」
「何だ」


「……何で、僕は囲まれているんですか?」


今僕は、響子、三妻さん、聖川さん、そして小幡さんに囲まれている。


「…。」

「どこに行く」


逃げようとするが、聖川さんに道を塞がれる。そして、誰かが僕の右腕にしがみついた。


「どこに行くの?山田君。ウチらと野球しようよ」

「……」

「へえ?あたしらから逃げようってわけか。良い度胸してんじゃねえかあ」


と、小幡が左腕にしがみつく。

……ていうか、2人ともかなりふくよかなものを
お持ちで…!三妻さん、これが隠れ巨乳と言うやつですか…?

小幡は制服を着崩していて谷間が丸見え、目を逸らすので精一杯。


「ちょ、ちょっと待ってください」


と、三妻と小幡を制し、彼はポケットからそれを取り出す。

紙製のそれを広げて、小幡、響子、三妻、聖川に見せた。


「お、お前……!」

「……本気、なんだな?」

「鋼汰……?」


その紙。そこに大々と書かれた文字は、「入部届」。

クラス、学籍番号、名前。そして紙の右端、顧問である先生の捺印が押されていた。

それを見た小幡達は思わず驚き、鋼汰の顔を見据えている。


「……今日から、野球部にお世話になります。山田鋼汰です。よろしくお願いします!」


鋼汰は小幡らに一礼し、その様子を通りかかった生徒らは思わず眺めていた。


「……へぇ、良い顔してんじゃねえか?山田ぁ」

「えへへ、仲間が1人増えたね。浴衣ちゃん」

「……」

「鋼汰〜!」


響子は鋼汰に抱き付き、そのまま頬擦りして彼に歓迎の意思を示す。


「……僕、自分に嘘をつかない事にしたんだ。だから……これからよろしくね。響子」

「うん!よろしく!」

「連れてく手間が省けたなぁ、行こうぜ!お前ら!」

「はい!」

「はい」

「「はーい!」」


畠山を除いた一年生ズが、小幡と共に昇降口を後にし、そのまま野球部のグラウンドへ。

グラウンドが見えてきた時、西塔と畠山がこちらを見て少し驚いた。

しかし2人は笑みを見せ、こちらに歩み寄る。西塔は鋼汰に歩み寄ると、


「ようこそ野球部へ。歓迎するわ」


響子らは僕の前に並び、


「改めてよろしくな!山田ぁ!」

「よろしくね!」

「よろしく頼む」

「よろしく!鋼汰!」

「よろしくお願いします……!」


再び、深々と一礼。

頭を上げると、西塔と小幡はそれぞれ彼の肩に回り込んだ。


「にしても、罪な男だなぁ山田?」

「響子ちゃんにここまでやらせるなんてね?」


僕はその言葉に振り向いて、響子を見やる。


「…どういうことですか?」

「練習試合が終わって、湯浅さんが私に頭を下げに来たのよ。君を野球部に入れてくれと」

「……響子?」

「ここからは、湯浅さんから聞いた方が早いんじゃないかな?」


西塔先輩は響子に前へ出るよう促す。


「その…勝手なことして、ごめんね?私……その、鋼汰がずっと落ち込んでるの……側で見てたから……」

「僕は別に落ち込んでなんかないよ」

「陸上で全国行けなくて、誰もいない場所で泣いて、自分の部屋でずっと泣いてたの……私知ってるし」

「……」

「毎日、楽しくなさそうでしんどそうな鋼汰を見て……私、見ていられなくなった。野球やって……走ってる時の鋼汰、すごい楽しそうだったよ?」


響子は、僕の前に手を差し出す。


「……そうだね。僕も……楽しかったのはよく覚えてる」

「…また、私が守「守らなくて良い」


響子は言葉を遮った鋼汰の顔を見上げた。


「……」

「鋼汰……?」

「……ありがとう、響子。今まで色々迷惑かけて……でも、もう大丈夫。これからは、みんなで強くなりたい。野球をしたい。……自分に、嘘をつきたくない」

「でも男が野球するってあんまり聞いたことないっすよ?」

「昨今は野球をするアマチュア選手が増えている。そもそも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

「まあそうっすね」

「山田の力はさておき、必要なのは()()だ。やるのか。やらないのか。ただそれだけ……だが」

「……」

「鋼汰」

「マスコミがなんだ、メディアがなんだ。そんなものは法律を盾に取れば良い……それ以前に、この男の顔はそんなことを考えていない」


猪突猛進。やると決めたらやる。

それが、山田鋼汰の真骨頂。

聖川はその顔を見て、少しだけ笑った。


「……優柔不断な奴だと思ったが、中々……芯があるようだな」


そして鋼汰は、響子を見据える。


「……急には、成長しないし……また、迷惑かけるかもしれない。でも、今度は僕が響子を守れるように。頑張るから」

「……鋼汰」


響子の瞼に涙が溜まる。僕はそれを指で拭き取り、


「西塔先輩」

「何かしら?」


僕は姿勢を正し、


「……山田鋼汰。不束者ですが、よろしくお願いします!」


決意はした。覚悟は決めた。だからこそ、僕は。

その決意の炎が消えないよう、自分の言葉で自分の退路を断つ。


そんな姿に度肝を抜かれたように、西塔先輩はくすっ、と笑い、


「…ええ、よろしくね。山田君」

「…はい」


「鋼汰~!」

「わ!抱きつかないで!」

「山田君~!」

「わ!周りの眼が痛いから!」

「山田ア!」

「痛い!」




……もう、迷わないことにする。人間急に成長しないし、変わりもしない。色んな、同じような失敗や挫折を繰り返す。

……でも、今度は。僕が、響子を守れるようになるから。


「しゃあ!早速練習っすよ西塔さん!」

「ええ」

「わくわくしてきたぜー!」


と、西塔先輩と小幡先輩は先を行く。

響子は再び手を差し出し、


「行こ?鋼汰」

「…うん」


その手は握らない。だけど、優しく叩く。




そうして僕の、野球人生は幕を開けたのだった。

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