Ⅳ 堕ちた蝋の羽
「お世話になります。クララ、マリア、アイリス様」
「わ、わ。アイリス、でいいよぅ」
「そういうわけにもいきません。特に、あなた様はホルスの化身であらせられる」
「もう、違うって言ってるのにぃ」
「そんなはずがありません。あの翼は、ホルス神。私が憧れ、模したものにございます」
「お母さぁん。イケリアちゃんが話聞いてくれない」
「そういう時はねぇ『面をあげぇぃ』って言うのよぉ」
「お、おもてをあげぇい」
「はっ!」
「『無礼講じゃ』」
「ぶ、ぶれいこうじゃぁ」
「あぁ、お優しきアイリス様。ならば、ひとつだけ願いを聞いていただいてもよろしいでしょうか……」
「う、うん」
「お腹、をさわらせてくださいまし」
「ふぇ」
「その気持ち、わかるわ。イケリア」
「分かりますか。『水の』たまらないですよね」
「えぇ、じゃあ私も失礼して。あなたは右側ね」
「えぇ、では。失礼致します。アイリス様」
「えぇぇぇぇ」
あの後、ぐったりした天使みたいな人をクライミングローズで包んで。私たちのアトリエに運んで。そして私は、ふたりにお腹をぷにぷにされている。ほっぺたがすりすりくすぐったくて。でも、なんだか気持ちがいい。クララさんはわかるけど、どうしてイケリアちゃんまで……。
山の中の底で眠っていたイケリアちゃん。私の姿を見て、拝んで地面にぺたぁってしてた。お母さんが言うには五体投地というもので、神様に対して尊敬の念を表す。っていうことみたい。
「ううぅぅ。やめてよぉ」
「あぁ、ぷにぷに……ふわふわ……気持ちいい……アイリス様、さすが私の神……」
「これ、くせになるわぁ。ねぇねぇ、おへそもさわっていいかしら」
「だ、だめぇ。おへそはお母さんだけ……」
「あらぁ、どうしてぇ?」
「いちばん……くすぐったいの……」
「あぁ! アイリス様! なんていじらしい!」
「うぅぅぅ……イケリアちゃん気持ち悪い」
「ありがたきしあわせ!」
「もう、やだぁ!」
✾
「落ちつきましたか。イケリア」
「はい。ありがとうございます。マリア」
「ふふふふぅ。まだほっぺたが温かいわぁ」
「えぇ……そうですね……気持ちがいいです」
「アイリス。あとできれいにしてあげましょうね」
「うぅぅ……」
「さぁて。これからのお話をしなくちゃぁ」
「そうね。して、イケリア。詳細を聞かせていただいても?」
「えっと、その昔。わたくしは、羽で空を飛ぶ者でありました。しかし、母上が与えてくださったものは蝋の羽。ですから低く飛べば湿気で墜ち、海に飲まれ。昇りすぎらば蝋が溶け墜つ。そのようなものでした」
「イカロスの羽ね」
「……申し訳ございません。私の家はあまり教養がある家庭ではありません。なんせ鍛冶一筋でしたから、存じ上げておりません」
「マリア」
「えぇ。別世界線でしょうね」
「続けます。わたくしが母上に羽を与えられたのは逃れるためでした」
「なにから、逃げてたの?」
「あぁ! アイリス様、わたくしめの話にご興味を……」
「うぅ……そのかんじやだぁ」
「すみません、尊敬の念が滲み出てしまって。それで、なにから逃れていたかというのは、有り体に言えば制度からです」
「というと」
「わたくしと母上は愛し合っておりました。それは至極当然の親子愛を超えて。女と女の関係まで、発展しておりました」
「ふぇ……」
「あぁ! かわいいわぁん。アイリスちゃぁん。お顔まっかぁ!」
「だ、だって……女と女って……お母さんが……教えてくれた……」
「あら。マリア?」
「『生殖における同性体での繁殖』の教典内で、よ。まだ、実際にはしていないわ」
「まだ、なのね。マリア、だめよ」
「時間の問題……かもね……」
「おかーさん?」
「ふふふふふふふふふふふふふ」
「おかーさんうれしそう」
「……続けてぇ。イケリア」
「は、はい。それで、わたくしと母上は、飛び立ちました。母上は太陽成らざる黄金の羽を。しかしわたくしは蝋の羽。ですから、先も言ったとおり母上と共に行くこと叶わず。蝋の羽が溶けたわたくしは海底へと墜ちていったのでございます」
「史実と、同じね」
「性別が違うわ」
「これが、男性体であったなら、すべてがやり直しだったわ」
「……そうねぇ」
「そして、数えきれぬほどの年月を経て。海は陸となり。土となり、山となった。そして山姫様に、庇護されながらこの生命の泉の中核として。眠っていたようです」
「それは誰から聞いたの」
「知っていました。ただ、知っていました」
「……山姫の謀(たばか)りよ。あなたは緩やかに殺されていっていただけ。その身体から煮出しのように生命を溶かしただけ」
「それでも、良いのです。恐らく、山姫様は母上の意志を継いでくれたのだと思います。水瓶と成ったこの方はつまり、子を宿す器。おそらく母だと思うております。そしてなにより、もうひとりの母上と出会えたのですから」
「イケリアちゃんのお母さん。どこにいるの?」
「あなたです。アイリス様。黄金の羽を持つ者はすべからく、母上です」
「えぇぇぇぇぇ!?」
「あらあらぁ。第二回ママデビューねぇ」
「ふふふ。よかったわね。アイリス」
「よくなぁい! お母さんとの赤ちゃんじゃない!」
「……確かにそうかもしれません。しかし、このイケリア。本当にあなたを母上のように思います。ですから、これを」
「なに? これ」
「『蝋の種』です今はまだ、種ですが。お持ちください。いずれ、あなた様のお役に立ちます」
「う、うん。ありがと」
「では、そろそろ行きましょうか。クララ。よろしくお願いします」
「えぇ。私は厳しいわよぅ」
「望むところです。私は早く、アイリス様のお役に立ちたい」
「え? え?」
「しばし、お別れです。アイリス様。必ずまた。その時に」
「えぇ! また? お別ればっかりだよぅ」
「そういうものなのよ。アイリス。でもね、イケリアとはこれからも会えるわ」
「う、うん」
「はぁ……はぁ……最後にお腹ぽよぽよしていいですか……」
「う。でたぁ。きもちわるい……」
「あらあらぁ、私もさせていただくわぁ」
「じゃあお母さんは、おへそ」
「もーーーー! みんなやだぁーーーー!」
今までのお別れは、なんだか悲しかったけれど。イケリアちゃんとのお別れは少しだけ楽しかった。ぷにぷにはとてもくすぐったかった。
――蝋の羽と金の羽 END――