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 Ⅶ 覚悟

「私はトリスメギストスの器。流れる銀は変容し、星は叡智を能(あた)う。しかして、ヘルメス、すなわち神動は成せず。ならば私がすべきは母を媒介に神となることである」
「そうね」
「その術(すべ)すなわち、ヘルメスの地にて流れる銀を飲み。我体内にてみつの魂を存在させること。そして神と成り果て。三叡智を知るものなり(トリスメギストス)へと。あなたの公理、よつの終わりに基づいて」
「異存ありません。しかし、成り果てる。という表現は適当ではないわ」
「いえ。最もふさわしい言葉です。生きとし生けるすべては対等である。しかし、神だけは下等な存在なのです。天地揺るがし願いを叶うとも、神とならば存在として認めることはありません。人、錬金術師、動物、あらゆるものは、生きる。意志を持ち、数多の感情の中でせめぎ合う。それこそが美しい。私は『メル』であれたことを誇りに思います。アイリス、マリア。ホムンクルスと錬金術師の母娘(おやこ)よ。あなたがたは本当に不思議だ。とても、人間らしい。私はうらやましい。私は『銀』『星』『神』それらの象徴になろう、個存在であれないこと。今、後悔があるとするならば、その一点のみでしょう」
「な、なら! 行くのやめよう?」
「アイリス」
「だったらずっと、めるちゃんでいようよ。その方が私はうれしいよ!」
「もう一度言います。私がメルである限り、あなたはマリアの子を授かれませんよ」
「え……」
「すべては因果。マリアの導きがひとつでも違えば、すべては狂います。その誤差は数百年で済めば良い方でしょう。違いますか。マリア」
「因果律の上で、最短のはずですから。異存はありません」
「難しいことばっかり言わないで……めるちゃん……」
「結論は、変わりませんよ。アイリス。貴女のために、私は変わるのです。それは、とても幸せなこと。貴女が私を救うように、私はいずれ貴女を、そしてあなたの子を救います」
「そんなのやだよ……めるちゃんも、お母さんも、赤ちゃんも。ぜんぶ、ぜんぶ……」
「無理なのよ。アイリス。すべてを願うことは、すべてを失うことと同義だわ」
「じゃ……じゃあ……めるちゃんは……」
「それでいい、それでいいのですよ。アイリス。あなたは迷ってはなりません。マリアの子を授かるのがあなたの願いで、それはマリアの悲願でもあります。そして、報われなかったすべての者の願い。時が来たら、分かるでしょう。マリアが何を望み、貴女を用いてなにをしようとしているのか」
「え……お、お母さん?」
「私を信じて。アイリス。今は、まだ。ね」
「う、うん」
「本当に良い子ですね。アイリス。マリアを疑うことは私も賛同しかねます。彼女はあなたが得るべき真実を与えるでしょう。しかし、あなたが受け止められるようになってから。信じなさい。メルを信じたように。屈託なく、天真爛漫に。貴女は貴女のままで」
「うん」
「さぁ。つきました。アイリス。これは、メルの悲願でもあるのですよ」

 ✾

 丘に見えたその場所は、焼け落ちた家だった。壊れる前はきっとたくさんの花たちが咲いていたんだと思う。花たちの残り香が、とても寂しい。焼けただれた土地、そこにはもう雑草すらも生えていない。
「あの時、私はこの空間を保存したのでしょう。土はおろか、燃えさかる炎もそのままに」
 メルちゃんが手をかざすと、景色が変わった。焼けた空気の匂い。燃えさかる炎。熱い、熱い、熱い。苦しい。つらい。痛い。私はその場で足がすくんで動けなくなってしまった。
「先に行って。メルクリウス。私はこの子を」
「頼みます。マリア」
 炎の中に消えていくメルちゃん。気がつくと私とお母さんは、燃えさかる家の中にいて。大きい、とても大きな『嫌な感じ』が私にのしかかってくる。
「……こんなに、痛い思いをしたの? こんなに、つらい思いをしたの? なのに、なのにどうしてめるちゃんは、笑っていられるの?」
「アイリス……」
「流れてくるの。ぜんぶ、ぜんぶ。わ、私にお父様はいないけれど、お母様はいる。だから、大切な人がいなくなるのは、分かるの。あれ……私……アタシは……だれ……?」
「アイリス。落ちついて。あなたは私の子。ホムンクルス、アイリス。メルちゃんと同化してはだめ。体験するの。観察するの。これは、過去の記憶の固定。現実ではないわ」
「現実じゃない……こんなに、熱いのに……?」
「過去に実際にあった事だけれど。今ではないわ。大丈夫。ほら」
 お母さんがぎゅっと抱きしめてくれる。そうすると、花。温かな香りが私を落ちつかせていく。
「あ……はぁ……ん……」
「うん。そうよ。大丈夫。だいじょうぶだから。私はここにいるわ。あなたをひとりにしたりしないから」
「うん」
「抱っこしていきましょうね。メルクリウスは奥の部屋よ」
 炎の中を、お母さんが進んでいく。もう、熱くはないのだけれど。やっぱり怖くて。私は『ひゃい!』っていう声が出たりしてお母さんはそれを見てほほえんでくれる。
 さっきお母さんがくれた香りはカモミール。それは心を落ちつかせ、見るべきものを見えるようにする、ハーブ。だから、気づかなくてもいいことに気がついてしまった。私は、お母さんにきいてしまった。
「どうして、燃えてるの」
「これは、ロビン家を恨む者たちの断罪よ」
「どういう……こと?」
「どんな理由があろうとも人から物を盗むというのは、正しいことではないわ」
「え……でも、でも! 貧しい人のためだったんだよ?」
「それでも盗まれた人は不幸だわ」
「その、お金だって、悪いことして稼いでるんだったら不幸になるのは当たり前だよ!」
「そうね。でも、そんなに簡単なことではないのよ。アイリス」
「……うん」
「生きとし生けるものそれぞれの正義がある。たとえば、虫は花を食べるわね」
「うん」
「なら、虫は悪い子かしら」
「ううん。生きるためだし、子どもを育てないと……あ……」
「そう。花にとって虫は悪者。身体を食べちゃうし、これから生まれてくる種、つまりは子どもを作れなくするわね」
「うん……」
「でも、虫にとっては生きるため、子どもを育てるために必要な行為なの」
「そっか……だからこうやって……」
「えぇ。それが因果であり、それぞれの正義だわ。私もそうよ。もしアイリスを傷つけるようなことがあれば、私はその人を許しはしない。もちろん、叱って分かってくれるなら。それに越したことはないけれど。得てして人は平和的解決ではなく端的な暴力による解決に至ってしまうものなの」
「お母さんも……」
「うん?」
「お母さんも人だったころは、そういうことをされたの?」
「……そういう、体験もあったわ。覚えておいて。アイリス」
「う、うん」
 
「咲いてはいけない花もあるの」
 
「え……」
「この話は、おしまい。ついたわよ」
 メルちゃんは寝転んでいるメルちゃんのお父さんの前で。祈っていた。その人は、もう既に亡くなっていて。お腹にはナイフがたくさん刺さっていた。
「うっ……」
「耐えなさい。アイリス。目を背けてはだめ。これは、メルちゃん。メルクリウスにとって大切な、大切な儀式よ」
「う……ん……」
「『【刃の】銀。元の形へと戻ることをメルクリウスが許可する』」
 そう言うと、ナイフがどろりと溶けていって。柄がカランカランと音を立てて落ちる。そして、その流れる銀は火と混ざり、お父さんを溶かしてしまう。残ったのは流れる銀の水たまり。そして、メルちゃんはそれをすくって飲んでいた。
「ひっ……」
「刃は本来、水銀ではないわ。彼女はもう『銀として銀(メルクリウス)』として覚醒した。もう、金属元素ならば水銀にしてしまえる。つまり、人間の中に存在する金属元素すらも変換することができるということで。あぁして、体内に取り込むことによりメルクリウスとしての存在を強くしていくの」
「え……」
「言い換えるわね。体内に取り込んだ炎に水銀を垂らす。気化した水銀は有毒性を持つわ。刻、一刻とメルちゃんの身体は今、死んでいくの。きちんと、見てあげて。あの子の覚悟を」
 時々むせながらも流れる銀を飲み込んでいくメルちゃん。その涙は、どういう意味なのか、私にはわからなくて。私の方を見てほほえんでくれるのが、すごく痛々しい。でも、どうしようもできなくて。私は、どうしてこんなに無力なんだろう。そう、思った。
 ぜんぶ飲み干すと、メルちゃんは苦しみだして。痛い、痛い。声がする。耳を塞ぎたくなるけれど、それをしたらメルちゃんのがんばっている意味がなくなっちゃうような気がして。私は涙を流しながら見て、聞いていた。何度ものたうち回っていくうちに、身体がだんだんと大人になって。その動きが収まるころには、メルちゃんはもうお母さんくらい大きくなっていた。
「……あい……りす……」
「お母さん。めるちゃんが呼んでる」
「えぇ。行ってあげなさい」
「うん!」
「あぁ……アイリス……アイリス……胸、胸を貸して」
 朝に、甘えた時みたいに。私のちっちゃな胸に。大人になったメルちゃんが顔をこすって。匂いを嗅いで、口でおっぱいを吸うみたいな動きをする。だから、私は頭をなでてあげると、少しだけ落ちついた。
「ん……アイリス……もう、お別れだよ」
「そんな……」
「わかってる……だろ……」
「……」
「泣かないでいてくれるんだな」
「さっきいっぱい、泣いたもん」
「あぁ……そうか。アイリス。泣けるようになったんだな、アイリス」
「どういう……こと……?」
「ホムンクルスであること。そんなの、気にしちゃだめだ。アイリスは、アイリスだから、ね……。あぁ……良い匂いだ……アイリス……『虹の女神』アイリス。最後に聞かせて。あの宝石箱の底にはなにが入ってたの」
「えっと……わかんない……」
「あ……はは……そっか。それもいいね。マリアは知っているんだろうけど。アイリスが知らないのなら。それでいい。マリアはアイリスが知るべき時に、教えてくれるだろうから」
「うん……」
「お別れだよ。アイリス。これを唱えてアタシは神になるから。ね」
「……うん」
「良い子だ。アイリス。たまには干しぶどう以外も食べなよ。大きくなれないぞ」
「う、うん!」
「だめだなぁ……名残惜しい……」
「う……うん……」
「でも、おしまいだ。じゃあ、アイリス。またね」
「また、ね」
「大好きだよ、アイリス……。アタシは詠む。『ヘルメス・トリスメギストスの名において命ずる。銀として銀。星として星。神として神。我真なる三叡智を知るものなり(トリスメギストス)。【メルであった】ものよ。元の形へ戻ることを我が許可する。そして、マリア・フローレンスに一時の契約を』
 目の前の、メルちゃんが流れる銀に変わっていく。抱きしめていた腕は空を切って。私は自分を抱きしめていた。そして、お母さんが後ろから、唱える。
「『マリア・フローレンスが代弁す。ヘルメス・トリスメギストスの権能を用いる。銀よ。其はトリスメギストスである。父を屠りし者。彼女は中和された。彼女は【トロイアル世界線における形なき銀】であり【月】である。【転がりし小瓶の銀】とともに、その存在を、ひとつに。そして【トロイアル世界線】へと化現せん』」
 流れる銀が小瓶を包んでいく。パリンという音とともに小さな水銀と大きな水銀は火を、炎を大きくした。お母さんは、私を抱きかかえてクライミングローズといっしょに外へ出た。銀の炎は朽ちた家を飲み込んで、ひとつになる。そして、辺りが銀色の光に包まれて。その地面は空を映した。
「これは【相反する大地】私たちにとって、とても大切なものになるわ」
「めるちゃんが残していってくれたもの……?」
「えぇ、そうね」
 お母さんが言う【相反する大地】は青色、ところどころ白い雲が地面に写っている。その中心、一本の杖がなににも支えられずただ浮いていた。それはなつかしい感じがした。

しおり