Ⅴ 形無き銀
Ⅴ 形無き銀
「どういう……こと……」
「メルちゃんは『母よ、液体の銀となれ。然らばいずれ、元の形へと』それをぉ、お母様の口からきいてぇ、次にメルちゃんが唱えたのよねぇ」
「う、うん」
「そうしたらぁ、お母様は『液体の銀』になったのよねぇ」
「そう」
「なら、ほぼ確定ねぇ。メルちゃん。復唱要求『パンよ、液体の銀となれ。然らばいずれ、元の形へと』」
「『パンよ、液体の銀となれ。然らばいずれ、元の形へと』」
メルちゃんがそれを唱えると、机に置いてあったパンはどろりと溶け出して。液体の銀になった。何が何だか分からなくて。私は慌てふためいてしまった。ただお母さんが手を握ってくれたから。少しだけ、落ちついた。
「次いくわよぅ。復唱要求。『【眼前の】液体の銀。元の形へと戻ることをメルクリウスが許可する』」
「『【眼前の】液体の銀。元の形へと戻ることをメルクリウスが許可する』」
今度は液体の銀が形を変えてパンに戻る……と思ったのだけれど、それは崩れたパンになってしまった。元の形ではなくて。ぼろぼろの小さな白い塊。
「アイリスがパンをほじって食べた時みたいね」
「お母さん!」
「ふふふぅ。そう、これがあなたなのぅ。あなたはねぇ。フッド家の子どもでありぃ、神の子でありぃ、メルクリウスとなった存在なのよぅ」
「……は?」
「フッド家は代々メルクリウスの加護の元、義賊として生きてきた家系なのよぅ。その悲願としては神の創造による貧者の救済であり、そのために途中経過がこの家系が課せられた『奢る者より奪いて貧しき者に与えよ』の試練なのよねぇ」
「じゃ、じゃあ。父様は」
「えぇ。神の子を育てるためのぉ、最後のフッド家となるわぁ。だからぁ、あなたはヘルメスと同期して、『雄弁家、盗賊、商人、職人の庇護者』となり、メルクリウス。そして、同時に『始まりと終わりの』錬金術師となることが現在の目的なるわねぇ」
「ねぇ……くららさん」
「なぁに? アイリスちゃん。ふふ、舌っ足らず。かわいいわぁ」
「めるちゃんは、えっと。神様?」
「両性具有だったわよねぇ?」
「りょ……なにそれ」
「ぞうさ……」
「クララ。言わなくて良いわよ。私が確認しています」
「ふふぅ。ならば、そうねぇ。身体的変化が発現したのはぁ、お母様が水銀になってからじゃないかしらぁ」
「水銀って、液体の銀のこと?」
「そうよぅ。『液体の』と定義してしまうとちょっと違うの。性質としては『固形として形状を維持しない銀』なのね。つまりは常温、常圧として凝固しない金属元素であり、液体ではないのよぅ」
「むずかしくてわかんないよ。ただ、お母様と離れたその日の夜に気づいた」
「そうなのぉ。ではぁ。復唱要求『ヘルメス・トリスメギストスの名において命ずる。銀として銀。星として星。神として神。我、三叡智を知るものなり(トリスメギストス)。ニュクスの庭はいずこ』」
「『ヘルメス・トリ』……なんだっけ」
「ふふふぅ。ゆっくりで良いわよぅ。いっしょに言いましょうかぁ」
「『『ヘルメス・トリスメギストスの名において命ずる。銀として銀。星として星。神として神。我、三叡智を知るものなり(トリスメギストス)。ニュクスの庭はいずこ』』」
それを唱えた瞬間、メルちゃんを中心にして大きな夜が広がる……。ううん。闇。闇が広がった。なにも、見えなくて。お母さんとメルちゃんの手を握っていなかったら、私は消えてしまいそうだった。そして、低くて。でも優しい声が私の周りを包む。
『また、罪の子かえ』
「ふ……ふぇ……だれ……」
『誰でも良い。水の。なにをこそこそと嗅ぎ回っておる』
「ふふふぅ。あなたが出てきたって事はぁ。メルちゃんに干渉権があるという事ねぇ」
「確かにその子からはヘルメスの片鱗を感じる。しかし。まだ同期と言うには不十分。メルクリウスとしての覚醒は」
「恐らく済んでいるわぁ」
『ならば、早くその水銀を解け。メル。お前の母の魂は行き場を失いさまよっている』
「え!」
「ふふふぅ。だぁめよぅ。騙しちゃ。メルちゃ……」
『メル、メルクリウス・トリスメギストス、詠め』
「な、なにを」
『汝の思うままに』
「『液体の銀。元の形へと戻ることをメルクリウスが……」
「だめ!」
「え……」
「あ、アイリス……?」
「だめだめだめ! メルちゃん。それはだめ。なんかわかんないけど! だめ!!」
『罪の子アイリス。やはり、邪魔をするのだな。マリア、愚かな存在を産んだの』
「あなたは意地でも祝福してくださらなかったですもんね」
「するわけがなかろう。それは、生まれてきてはいけないもの『彼女』を闇に縛り付ける呪いそのものなのだ」
「語弊があるわ。いつか取り戻す。そのためにこの子がつなぎ止めてくれているの」
「お、お母さん……?」
『あはははは! 母などと呼ばせているか。花の。愚かな人の形を捨てた錬金術師。良い。この件は一旦保留にしよう。形骸を育てよ。せいぜい、闇をあがきなさい。いずれゆりかごで』
「えぇ。楽しみにしているわ」
小夜啼鳥ナイチンゲールの声が聞こえる。そして、メルちゃんの中に闇が吸い込まれた。
いきなり明るいところに来たからか、目がチカチカする。
「ふぇー、びっくりしたー。ねー、めるちゃん」
「どうして……どうして止めたんだ……アイリス!」
「ご、ごめん……」
「あの時、詠んでいれば母ちゃんは戻ったかもしれないんだ!」
「ご……ごめ……ん……なさい……」
「謝ってばっかじゃ分かんないんだよ!」
メルちゃんは怒ってフォークを机に突き刺した。ガン! と大きな音がして。その音で、私は腰が抜けてしまった。怖い、怖い、怖い。こんなに怖いのは初めてだった。
「や、やだ……やだ……怖い……」
「お前……いい加減に!」
刺される。そう思ったのだけれど、痛くないからどうしたのかなって目を開けたら、メルちゃんは溺れていた。顔の周りに水の玉、大きな水が覆っていて。苦しそうにしている。優しそうにほほえんでいたクララさんの瞳が薄くあいて。水色の瞳がぼうっと光る。眼からは、涙、ううん。水が流れていた。
「やめて……死んじゃう……」
「あら。アイリスちゃんを傷つけようとした子よ? どうして優しくするのかしら?」
「だってメルちゃん、苦しそう……」
「ねぇ。アイリスちゃん」
「な、なに」
「あなた。いつかお母さんを殺してしまうわよ」
「え!?」
「やめなさい、クララ。私はアイリスを悲しませること、メルちゃんを失うことは望みません」
「こちらも、あまちゃんね」
クララさんが目を閉じると。水の玉が丸さを失って。下にバシャアっと降りていく。苦しそうに咳き込むメルちゃん。お母さんが駆け寄って、背中をさすってあげている。
私はただ、動けないでいた。
夜が再び訪れる。今度は、世界が正しく導いた夜だった。